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フィリップ・ストレイフ
フランスのレーシングドライバー (1955 - 2022) ウィキペディアから
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フィリップ・ストレイフ(Philippe Streiff, 1955年6月26日 - 2022年12月23日[1])は、フランス出身の元レーシングドライバー。1984年にF1デビューし、1988年最終戦までF1に参戦。1989年はAGSからF1参戦の予定だったが、開幕直前の合同テストでのクラッシュ時に脊髄損傷を負い現役を引退。
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プロフィール
要約
視点
F3チャンピオン
フォーミュラ・ルノーでレースキャリアを開始。1981年のル・マン24時間レースで総合2位を獲得、同年のフランス・フォーミュラ3選手権チャンピオンにも輝き、フランス期待の若手として注目される。
F2
その後は1982年からヨーロッパF2選手権と、1985年の国際F3000選手権に参戦した。ヨーロッパF2の最後のレースとなった1984年のブランズハッチにおいて、ヨーロッパF2で自身唯一の勝利を挙げた。1984年のルマン24時間レースでもポルシェ・956Bを駆り3位を獲得するなど活躍した。
F1
同年F1最終戦のポルトガルGPで母国のルノーよりF1デビューを飾る。1985年はルノー・ターボエンジンを搭載するリジェとティレルより終盤の5戦(ティレルは第15戦のみスポット)に参戦し、最終戦である第16戦オーストラリアGPで初入賞となる3位表彰台を獲得。
1986年はティレル・ルノーのレギュラーシートを得る。初のフル参戦で2度の6位以内入賞を果たし、3ポイントを獲得。
1987年もティレルより参戦。しかしティレルはルノー・ターボを失い、ターボエンジン全盛期のF1界の中でノン・ターボエンジンであるフォード・DFZエンジンを使用することとなる。エンジンパワーで非力となったティレル・DG016で2度の6位以内入賞を果たし4ポイントを獲得。同僚のジョナサン・パーマーとジム・クラークカップを争う(結局、パーマーが獲得)。
1988年はF2/F3000時代に所属しており、その後F1にステップアップしてきたフランスの小規模チームAGSに移籍。JH23は時に速さを見せ、第5戦カナダGPで予選10位を記録、決勝では41周目にサスペンショントラブルでリタイアするまで一時的に4位を走行した。しかしながら信頼性不足でリタイヤが多くポイント獲得はならなかった。
1989年はAGSに残留したが、開幕直前にジャカレパグア(ネルソン・ピケ・サーキット)で行われたテスト中のクラッシュにより脊髄を損傷する重傷を負い[2]、引退した。下半身の麻痺が残り、以後車椅子での生活となった。
引退後
引退後はカートチームなどを運営していた。毎年パリで開かれるプロドライバーによるインドアカート大会主催者、BMWのアンバサダーを務めた。
2015年、ジュール・ビアンキの事故の調査に関して「侮辱的な発言」を行ったとして(ストレイフが「ビアンキの事故についての調査委員会はFIAが非難を免れるために設立されたに過ぎない」とラジオインタビューで発言)、このストレイフの発言を知ったFIA会長ジャン・トッドの怒りを買い、名誉毀損で国際自動車連盟(FIA)に告訴された[3]。一連の流れを受け、ストレイフはFIAに謝罪し自らの発言を取り消した。
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エピソード
レース戦績
略歴
ル・マン24時間レース
フランス・フォーミュラ3選手権
ヨーロピアン・フォーミュラ3選手権
全日本・フォーミュラ2選手権
ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権
フォーミュラ1
国際フォーミュラ3000選手権
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脚注
関連項目
外部リンク
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