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フランシス・フォード・コッポラ
アメリカの映画製作者 ウィキペディアから
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フランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola、1939年4月7日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー、脚本家、実業家。
映画史上最高傑作といわれる『ゴッドファーザー』を監督した[1]。巨額の負債を一時は負いながら果敢に様々な事業展開、映画制作を続け、ブームや名作を作り大きな興行成績、収益を収めスターを輩出して来た。アカデミー賞5回、ゴールデングローブ賞6回、パルムドール2回、英国アカデミー賞1回を受賞[2]。
妹はロッキーシリーズでロッキーの妻エイドリアン役で有名な女優タリア・シャイア。娘は映画監督のソフィア・コッポラ、息子は映画監督のロマン・コッポラ。甥は俳優のニコラス・ケイジ(フランシスの兄オーガストの子)、ジェイソン・シュワルツマン(タリア・シャイアの子)。
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来歴
要約
視点
祖父はイタリア人で、南イタリアの町ベルナルダ出身。1904年にアメリカに移住した。父は元NBC交響楽団のフルート奏者で作曲家のカーマイン・コッポラ。
コッポラはデトロイト出身、ニューヨーク郊外で育った。ホフストラ大学で演劇を学ぶ傍ら、セルゲイ・エイゼンシュテインの作品を研究する。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で学び、在学中からピンク映画や恐怖映画の演出を手がける。
ロジャー・コーマンのもとで低予算映画の監督としてキャリアをスタートし、『大人になれば…』ではジェラルディン・ペイジにアカデミー助演女優賞ノミネートをもたらす。また『雨のニューオリンズ』(1965年)、『パリは燃えているか』(1966年)、『禁じられた情事の森』(1967年、クレジットなし)[3]などの作品では脚本を執筆。『パットン大戦車軍団』(1970年)ではアカデミー脚本賞を受賞した。
1969年11月19日、映画制作会社アメリカン・ゾエトロープ社を設立[4]。ワーナー・ブラザースと7本の映画製作の契約を結ぶが、第1作目となるジョージ・ルーカス監督作の『THX 1138』の内容をワーナー幹部に酷評され、契約を破棄された上に勝手な編集を加えられ、公開された映画は興行的、批評的に失敗する。その結果、ゾエトロープ社とその社長のコッポラは危機に追い込まれる。

1972年に自身が監督した『ゴッドファーザー』が公開され、当時の歴代世界興行収入ランキングで1位を記録。更に第45回アカデミー賞では作品賞を受賞し、自身も脚色賞を受賞。本作により、落ち目とされていたマーロン・ブランドはアカデミー主演男優賞受賞によって復活を果たし、アル・パチーノやロバート・デュヴァル、ジェームズ・カーンやダイアン・キートンの出世作ともなると同時に、コッポラ自身も会社の立て直しに成功する。本作の成功により経済的余裕ができたコッポラは、ルーカスが監督した『アメリカン・グラフィティ』(1973年)で製作を担当。前作の『THX 1138』での失敗を見事に跳ね返す成功となるが、ルーカスは同時に次作として温めていた企画である『スター・ウォーズ』に対するコッポラの介入を恐れるようになり、それを避けるためにジョセフ・コンラッドの『闇の奥』をベトナム戦争に置き換えた映画化企画(後に『地獄の黙示録』として発表)を無償で譲ることにした。
1974年、『ゴッドファーザー』の続編である『ゴッドファーザー PART II』と、自身のオリジナル脚本によるサスペンス映画『カンバセーション…盗聴…』が公開される。前者では当初は監督就任に乗り気ではなく、監督はマーティン・スコセッシに任せ、自身は製作として携わろうとしていた。しかし、パラマウント映画から無条件予算とファイナルカットを含めた全権を渡されたことから監督就任も含めた契約書にサインした。後者に関しては『ゴッドファーザー PART II』と同時期に制作していたため、録音担当のウォルター・マーチが編集作業にも携わった。公開後、前者は続編物としては唯一のアカデミー作品賞を受賞し、コッポラの父であるカーマイン・コッポラはアカデミー作曲賞を受賞。興行的にも大成功を収める。後者は興行的には失敗したものの、スリリングな演出と主演のジーン・ハックマンの演技が批評家からは大絶賛され、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞。また、『ゴッドファーザー PART II』と共にアカデミー作品賞にダブルノミネートされることとなった。
1975年12月[5]、コッポラは東映に「千葉真一とアル・パチーノの共演による映画を作りたい」と申し入れをしている[6]。しかし岡田茂はこのオファーを断り[7]、コッポラが望む映画製作は実現しなかった。
1979年、ルーカスから渡された企画を『地獄の黙示録』として発表する。本作はフィリピンの奥地で撮影されたが、自然災害や監督とキャストとの衝突、スタッフ間でのドラッグの蔓延により大幅にスケジュールが遅れ、コッポラも相次ぐトラブルから来るストレスによって倒れてしまう。しかし、撮影終了後、未完成のまま作品はカンヌ国際映画祭に出品され、物議を醸しながらも再びパルム・ドールを受賞。本国でも興行的に成功を収め、巨額の制作費を無事に回収する。また、その翌年には黒澤明の『影武者』の外国版プロデューサーとして参加し、資金を援助した。
1982年の『ワン・フロム・ザ・ハート』が興行的、批評的に失敗、経済的に苦しい立場に追い込まれ、1980年代以降、破産の債務整理をしながらナパのワイナリー等の事業展開、映画製作を続けた。
1983年、80年代の青春映画ブームの先駆けとなる『アウトサイダー』を公開し、マット・ディロン、トム・クルーズ等YAスターと呼ばれた若手人気スターを数多く輩出した。主題歌「Stay Gold」はこの映画のためにスティーヴィー・ワンダーが書き下ろし作曲は父のカーマイン・コッポラ、シングル発売はなくこの年、ラジオ局にファンのリクエストが殺到した。現在は数種類のベストアルバムに収録されている。
1990年、『ゴッドファーザー PART III』を発表。製作費$54,000,000に対して世界の興行収益は$136,861,392で1億ドルを超えたが批判が強かった[8]。娘のソフィア・コッポラは知性と気品があったが身内のため中傷の的となった[9]。受賞はなかったがアカデミー賞に作品賞、監督賞を含む7部門でノミネートされ、歌曲賞にノミネートされた父カーマイン・コッポラが映画公開の翌年4月死去した。
1992年、ゲイリー・オールドマン、 ウィノナ・ライダーを共演させ『ドラキュラ』を原作の枠組みの中で独自解釈を中心としたロマンス映画に仕上げ、そのグロテスクと耽美的芸術の極みの世界は、翌1993年の第65回アカデミー賞で衣裳デザイン賞(石岡瑛子)、メイクアップ賞、 音響効果編集賞を受賞、美術賞にノミネートされた。製作費4000万ドルに対し興行収入は全世界で2億1586万2666ドルを記録した[10] 。
2000年以降は監督としての作品数は減ったものの、2003年には娘のソフィアが監督した『ロスト・イン・トランスレーション』で製作総指揮を務め、ソフィアがアカデミー脚本賞を受賞。親子3代でアカデミー賞受賞者となった。ソフィアは「SOMEWHERE」(10)でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞、『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(17) でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞した。
2020年、「ゴッドファーザーPARTIII」の全米公開30周年を記念して再編集した新バージョン『ゴッドファーザー 最終章 マイケル・コルレオーネの最期』を発表。4Kスキャンや新たなオープニング、エンディングシーン、音楽の追加等が行われた[11]。元々エピローグとして制作されていたためタイトルを変更した[12] 。流れが良く評価がかなり上がった[13][14]
妻のエレノアとの死別が伝えられた[15]2024年、ワイナリーの一部を売却して資金を調達し、超大作『メガロポリス』を完成させた。本作は配給会社が確定しないまま第77回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、9月にはアメリカ合衆国でも公開されたが、1億ドル以上の予算に対して1000万ドル強の興行収入しか得られず、自身もゴールデンラズベリー賞で最低監督賞を受賞する結果となった。
2025年4月、アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が主催するAFI生涯功労賞を受賞した。映画『ゴッドファーザー』のテーマ曲が流れる中のスタンディングオベーションの様子がAFIのInstagramで配信され、スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスがプレゼンター、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ダスティン・ホフマン、ダイアン・レイン、C・トーマス・ハウエル、ラルフ・マッチオらが集結した[16]。 6月18日のテレビ特別番組「AFI生涯功労賞:フランシス・フォード・コッポラへのトリビュート」の放送予定が発表された [17]。
6月13日に、18日のAFITV放送に合わせるように兄、AUGUST FLOYD COPPOLAについて異例の長文で絶大な影響と信頼をインスタグラムで声明として配信した。
8月5日に予定されていた心臓の手術が無事に終了したと報じられた。「コッポラは7月20日から『メガロポリス』の上映イベントのため北米6都市をめぐっており、8月1日にはサンフランシスコで質疑応答に登壇。週末にイタリアへ移動し、長年コッポラの治療を担当している心臓専門医のアンドレア・ナターレ医師による手術を受けたという。」7月中旬、イタリア南西のカラブリア州を「大切な新プロジェクトの視察のために」訪問したことを明かしていた[18]。
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作品
要約
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出演
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受賞
- 2013年 高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)[31][32][33]
- 2015年 アストゥリアス皇太子賞(芸術部門)
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ワイン
1975年からニーバム・エステートの土地の一部を購入してワイン造りを始めている。カリフォルニア州ナパバレーでニバウム・コッポラ・ワイナリーを経営し、「ルビコン」ワインは世界的評価を受けた。ジョージ・ルーカスのスカイウォーカーランチと提携して「スカイウォーカー」ワインも販売している。1994年からロビン・ウィリアムズとロバート・デ・ニーロと、サンフランシスコにある「ルビコン・レストラン」の共同経営にあたった。同レストランは2008年8月に閉店した[34]。
脚注
外部リンク
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