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中山定義

日本の海軍軍人、海上自衛官 ウィキペディアから

中山定義
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中山 定義(なかやま さだよし、1905年明治38年)8月16日 - 1995年平成7年)1月16日[1])は、日本海軍軍人海上自衛官海兵54期恩賜。第4代海上幕僚長島根県出雲市出身。東京都目黒区在住であった[1]。長男は第10代明治学院長の中山弘正[1]

概要 中山(なかやま) 定義(さだよし), 生誕 ...
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略歴

要約
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海幕長当時の中山定義

旧制島根県立大社中学校より海軍兵学校第54期入校。席次は入校時は79名中4番、卒業時は68名中3番で恩賜の短剣を拝受。

海兵54期は、ワシントン軍縮会議の結果、艦船のみならず海軍士官も余剰と判断され、海軍兵学校生徒の採用数が通常年度の半分以下になった2期目のクラスである。

佐官になってからは、軍政部門での勤務が多かった。海軍大学校甲種第36期在校中に日中戦争が勃発、人手不足も手伝って、大学校在校者も駆り出され、中山は中国在勤を命ぜられる。

チリから交換船で帰国後は、海軍省軍務局で米内光政井上成美高木惣吉横山一郎などに重用され、終戦に至る数々の機密事項に関与した。また海軍の伝統的な「陸軍嫌い」から陸軍内部の情報が乏しいと感じ、自ら陸軍軍務局の政治将校に近づき彼らから情報を収集したりしている。その中には宮城事件を起こす椎崎二郎中佐、畑中健二少佐もおり、東京が空襲で焼け野原になってもなお「神洲不滅論」を振り回し本土決戦を主張する彼らに対して数字や戦史を以て説得するも全く効果がなく、『海軍が(本土決戦)に反対ならまず海軍を抹殺する』という彼らの言葉(中山自身はこれを「二・二六病」と表現している)に完全に呆れつつも、「陸軍中堅層が本土決戦に持ち込むつもりなのは事実で、正気かどうかはさておき本気です」と米内や井上など上層部に報告したりしている。

戦後、公職追放を経て[2]、その後は中山は尊敬する海軍の先輩である野村吉三郎の勧めもあり海上自衛隊に入隊。海軍在職中の経歴により、入隊後に超特急昇任を果たしたとされる。

海上自衛隊幹部学校長在任中、海上自衛隊幹部[注釈 1]ですら戦争体験者が少ないこと、戦史教育が不十分であることを憂いた中山は、帝国海軍の先輩を特別講師として招聘することとした。特別講師には自薦者もおり、中には太平洋戦争中の自身の「業績」を極端に美化、歪曲、糊塗する者も少なくなく、中山ら聞く者が心外に感じること、強度の困惑・忍耐を必要とすることがあったと言う。

特別講師の中にあって、山梨勝之進長谷川清寺島健新見政一高木惣吉の5名は、講話内容について間違いが無く、中山にとって安心できる存在だったと言う。また井上成美にも特別講師を依頼したが断られ、幹部学校教官が横須賀市長井の井上宅に赴いて聴取した内容を学生に講話するという形態を用いた。

山梨勝之進の足掛け8年にわたる戦史講義は、幹部学校の部内資料としてまとめられ、のちに毎日新聞社から公刊された。

1995年1月16日午後0時6分、急性心不全のため東京都世田谷区の病院で死去、89歳没[1](妻も同日午後6時5分、肺炎のため同区内の別の病院で死去、81歳没[1])。葬儀と告別式は同月22日午後2時から新宿区の葬儀場で妻と合同で行われ、喪主は長男の弘正が務めた[1]

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年譜

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主要著述物

  • 一海軍士官の回想 開戦前夜から終戦まで(毎日新聞社 昭和56年)
  • 活字の一人歩きを憂う 池田清著『海軍と日本』に関して (波濤) 昭和57年5月号
  • ある人脈を偲ぶ 山梨提督とその周辺 (波濤) 昭和58年3月号

参考文献

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栄典

  • レジオン・オブ・メリット・コマンダー - 1963年(昭和38年)5月9日
  • 勲二等瑞宝章 - 1975年(昭和50年)11月3日

関連項目

脚注

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