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中山俊丈
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中山 俊丈(なかやま としたけ、1935年12月10日[1] - 2016年10月24日[2])は、愛知県名古屋市昭和区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
1962年から1968年までの登録名は中山 義朗(なかやま よしろう)、1986年から1987年までの登録名は中山 稔丈(なかやま としたけ)[3]。
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経歴
中京商業高校では、同期の加藤克巳とバッテリーを組み、エースとして甲子園に4回出場。2年次の1953年、春の選抜は1回戦で「瀬戸内少年野球団」のモデルとなった洲本高(大会の優勝校)に敗退。夏の選手権では準決勝まで進むが、大会準優勝校の土佐高に敗退。同年の徳島国体では決勝に進み徳島商に逆転勝ち、優勝を飾る。3年次の1954年、春の選抜は1回戦で坂崎一彦を擁する浪商に敗退。夏の甲子園では順調に勝ち進み、決勝で松浦三千男・興津達男を投打の柱とする静岡商と対戦。松浦との投げ合いを3-0で制して優勝を飾る。加藤以外の高校同期に、後にプロで同僚となる柳川福三がいる。
卒業後の1955年に中日ドラゴンズへ入団し、1年目の同年から一軍に抜擢される。2年目の1956年と3年目の1957年には2年連続で防御率1点台の20勝をマークし、1956年のオールスター第2戦では、先発の杉下茂をリリーフして3イニングを1安打無失点と好投、勝利投手となる。1956年5月31日の巨人戦(中日)では8回表、川上哲治にショートとレフトの間に落ちるテキサスヒットを打たれるが、これは日本プロ野球初の通算2000安打となった。1957年から1960年にかけて巨人戦16連敗を喫し[4]、その後は故障もあって一時低迷したが、フォームをほぼアンダースローのサイドスローに変えて復活。1963年に9勝を挙げ、1964年8月18日には巨人戦(中日)でノーヒットノーランを達成し、こうした経緯から「巨人キラー」と呼ばれていた[5]。1965年引退。
引退後は中日で一軍投手コーチ補佐(1966年, 1968年)・二軍投手コーチ(1967年, 1971年 - 1976年, 1986年 - 1989年)・一軍投手コーチ(1977年 - 1978年, 1984年 - 1985年)・合宿所寮長[2]、合間を縫って、東海ラジオ解説者(1969年 - 1970年, 1979年 - 1983年)を務めた。
退団後はCBC(1995年 - 1998年)解説者を経て、台湾CPBL・兄弟監督(1999年)も務め、在任中は内野コーチに榊原良行を招聘。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
背番号
- 28 (1955年 - 1960年)
- 19 (1961年 - 1965年)
- 67 (1966年 - 1967年)
- 69 (1968年)
- 66 (1971年 - 1977年)
- 65 (1978年)
- 73 (1984年 - 1989年)
- 77 (1999年)
登録名
- 中山 俊丈(なかやま としたけ、1955年 - 1961年、1971年 - 1978年、1984年 - 1985年)
- 中山 義朗(なかやま よしろう、1962年 - 1968年)
- 中山 稔丈(なかやま としたけ、1986年 - 1987年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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