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中野渡清一
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中野渡 清一(なかのわたり せいいち、1941年4月6日 - )は、青森県出身の元騎手・元調教師。
来歴
要約
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1957年に東京・本郷重彦厩舎に騎手見習として入門し、1961年には同厩舎からデビュー。
横山富雄・吉永正人と同期になり、1年目の1961年は3月4日の東京第5競走障害5歳以上オープン・バロンターフ(5頭中5着)で初騎乗[2]を果たす。4月30日の東京第11競走5歳以上70万下・トキノスガタで初勝利[3]、8月12日・13日の函館では初の2日連続勝利[4]、9月30日の中山では初の1日2勝[4]を挙げ、初年度から2桁勝利で30勝台となる33勝[5]をマーク。
2年目の1962年には2年連続2桁勝利で20勝台となる24勝をマークするが、3年目の1963年には騎乗が僅か6回で自身唯一の0勝に終わる[5]。
1964年には2年ぶりの2桁で20勝台の21勝をマークし、1965年から1970年には6年連続で30勝を超えるなど、1980年まで17年連続2桁勝利を記録[5]。
1966年には二冠馬のトサミドリを父に持つシヨウグンの主戦騎手としてクラシックを戦い、スプリングステークスで重賞初制覇を達成[6] [7]。4戦3勝の成績で臨んだ皐月賞では関西の雄ニホンピローエースを抑えて1番人気となったが、レースは逃げたニホンピローエースを激しく追い上げたものの、半馬身届かず2着と惜敗[6] [7]。続くNHK杯もナスノコトブキの前にまたしても2着と敗れ、それでもファンの期待は大きく、東京優駿でも堂々の1番人気の支持を集めたが、加賀武見が騎乗した新馬戦で下していたスピードシンボリにも先着を許す9着に終わっている[6] [7]。7月の白百合ステークスこそ格の違いをみせて勝ったものの、その後は長期休養を余儀なくされ、復帰後は大崎昭一に交代し、2戦未勝利で引退している[6] [7]。シヨウグンでの重賞初勝利[8]を挙げたほか、ダート2500mで行われた目黒記念(春)ではブルタカチホで2着[9]、京成杯ではオンワードヒルでスピードシンボリの2着[10]、第1回クイーンカップ[11]ではミストウキヨウで2着[12]に入り、初の40勝台となる47勝[5]をマーク。
1967年にはアラジンで弥生賞をアサデンコウの3着と好走し、皐月賞の日に準メインで行われたNHK杯[13]を勝利[14]。同年夏の函館からはタケシバオーの主戦を務め、乗り替わり初戦を逃げ切って初勝利を挙げた[15]。札幌の特別戦では3着と敗れたが、タケシバオーが日本国内で唯一連対を外した例となった[15]。3連勝で挑んだ朝日杯3歳ステークスでは先行策から直線入口で先頭に立って後続を一気に離すと[15]、7馬身差を付けて圧勝し、人馬共に初のビッグタイトルを奪取[16] [17] [18]。1968年には東京4歳ステークスを2着に8馬身差付け[15]、ダート1700mを1分44秒3のレコードで制して[15]6連勝[16]を達成。アサカオー・マーチスとの最初の三強対決となった弥生賞[18]では逃げ馬のカドマスとスタートから激しく競り合い、競走前のインタビューで「いくらタケシバオーでもカドマスの快速にはついて行けないでしょう」と水を向けられていたことを意識するレース運びとなる[19]。1000m通過57秒7という当時のレコードタイムを上回るペースで飛ばした末[19]、ゴール前で失速したところをアサカオーに差されて2着[18]に終わった。中野渡は弥生賞を最後にタケシバオーから降ろされることになったため、後年「馬鹿なことをやったものだ」と後悔の念を吐露している[19]。
1968年は宇都宮育成牧場で育った抽せん馬のルピナスで優駿牝馬を制し[20]、GI級レース2勝目と自身唯一の八大競走制覇[21]を果たす。皐月賞・マーチスに次ぐネヴァービートの初年度産駒によるクラシック制覇[22]で、ジツホマレ(1953年)・スターロッチ(1960年)に次ぐ3頭目の抽せん馬によるオークス制覇[20]となり、同年の啓衆社賞最優秀4歳牝馬を獲得[20]。
1968年は自己最多の50勝に到達し、1969年も40勝をマークしたが、1970年の31勝を最後に10〜20勝台となる[5]。
1969年にはメイジシローで東京新聞杯にはタケシバオーの3着、大雪の不良馬場で行われた京王杯スプリングハンデキャップでは61kgを背負ったアサカオーを抑えてモンタサンの2着[23] [24]、目黒記念(春)ではスピードシンボリの3着に入り、中山記念を制した[25]。
1971年の天皇賞(秋)では12頭中11番人気のダイホウゲツでトウメイの4着[26]、1973年には後にホリスキーの母となるオキノバンダで優駿牝馬4着[27]に入った。
1976年と1977年にはマルゼンスキーの主戦として全8戦の手綱を握り、無敗のまま駆け抜けた[28]。
1976年の新馬戦では当時のレートで2億2000万円近い価格で落札されたタイプキャストを母に持つタイプアイバーも出走し、シルの落札価格と輸入費の総額の1億2000万円と合計した「3億5000万円の共演」として注目を集めた[29]。スタートが切られるとマルゼンスキーはすぐに先頭を奪い、そのまま後続に大差、タイム差では2秒差をつけてデビュー勝ち[30]。中野渡は調教の様子から「セーブしたせいもあるけど、それほど走るとは思わなかった。新馬戦も、ボチボチ勝てるかな、ぐらいの感じだった」が[30]、後に新馬戦で騎乗した時の印象について、「4歳の時のタケシバオーに乗っていたこともあるんだけど、それともちょっと違っていたね」と回顧している[29]。続く条件戦も2着に9馬身差をつけて連勝[31]、いずれも他馬とのスピードの違いに任せて逃げ切るという内容であった[30]。3戦目の府中3歳ステークスでは北海道3歳ステークスを勝っていたヒシスピードと対戦し、マルゼンスキーの能力に心酔していた中野渡は「相手が迫ってくるのを待ってスパートを掛ければいい」と見て悠長なレース運びをしていたが、最後の直線半ばでヒシスピードに一気に並びかけられると、慌てて追い出してヒシスピードの激しい競り合いとなった[30]。両馬は並んで入線して写真判定となり[32]、結果はマルゼンスキーがハナ差先着していたが[32]、レース後に中野渡は本郷からひどく怒られた[29]。朝日杯3歳ステークスでは前走の苦戦を教訓に調教では初めて一杯に追われ、レース前には本郷から「壊れてもいいから行ってみろ。責任は俺が持つ」と全力を出し切ることを要求された[30] [29]。マルゼンスキーはスタートから先頭を奪うと、直線ではヒシスピードを突き放し、同馬に13馬身、2.2秒差をつけて勝利し、走破タイム1分34秒4はコーネルランサーの記録を0.2秒更新する3歳レコードであった[32]。1990年の朝日杯でリンドシェーバーに更新されるまで14年間保持[33]したが、中野渡はレース後のインタビューで「馬の上に跨っていただけ。3コーナー過ぎからは、後ろの馬の足音も聞こえなかった」と語った[34]。ヒシスピードの1分36秒6も当時としては水準的なタイムであったが[34]、ヒシスピードに騎乗していた小島太は「ありゃあバケモンだな」と語り[35]、「正直なところ、これで当分顔を合わせることもないので、ほっとした気分です」と心情を吐露している[29]。
マルゼンスキーは4戦4勝の成績で優駿賞最優秀3歳牡馬に選出され[36]、1977年初戦の中京オープンでは、マルゼンスキーが出走するという話が伝わって回避馬が続出[29]。規定頭数に達せず一時は競走不成立の見通しが立ったが[29]、服部正利調教師が管理馬2頭を出走させて競走を成立させた[30]。中野渡は服部から「俺のところの馬を出したんだから、タイムオーバーになるような大差は勘弁してくれ」と話されたが[30] [29]、このレースを2着に2馬身半差で勝利[30]。その後もオープンで2着に7馬身差を付けて勝利するが、持込馬という出自から東京優駿への出走権はなかった[29]。ダービーウィーク[30]には「日本ダービーに出させてほしい。枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない。この馬の能力を確かめるだけでいい」と話したとされる[32] [29]。8万人近い観衆が集まった[37]日本短波賞ではスタートからあっさりと先頭を奪い、最初のコーナーですでに2番手に6~7馬身の差を付けて逃げを打った[37]。3コーナーから4コーナーにかけては突然、首を高く上げて失速し、2番手からスパートをかけたインタースペンサーに並ばれる[37]。この様子に観衆は大きくどよめいたが、中野渡が肩に鞭を入れると再加速し、直線では独走状態となってプレストウコウに7馬身差を付けて勝利した[37]。中野渡は失速の理由について「あの日は馬場が悪かった。それで、大事に馬場のいい外めを選んで乗っていた。そこにインタースペンサーが一気に来て、馬の方がフワッとした気持ちになってしまった」と述べている[38]。最後のレースとなった札幌の短距離ステークスには、当初はトウショウボーイも出走を予定していたが、中野渡は「他の出走できるレースがたくさんあるトウショウボーイを傷つける必要はない」と見て、トウショウボーイは絶対に出走してこないと踏む[38]。中野渡の予想通りにトウショウボーイは出走を回避し、短距離ステークスは競走成立下限の5頭立てとなったが、他の相手にもヒシスピード、ヤマブキオーといった一線級のオープン馬が出走[38]。レースではマルゼンスキーに先んじて牝馬ヨシオカザンが先頭を奪い、マルゼンスキーは初めて2番手を進むことになる。砂が深く敷かれた当時の札幌ダートにあって、前半600mのラップタイムは33秒2という異常なハイペースとなったが、マルゼンスキーは苦もなくヨシオカザンを追走し、中野渡は鞍上で「あの馬にマルゼンスキーを種付けしたら面白い仔ができるかもしれない」などと考えていた[38]。マルゼンスキーは中野渡が鞭を抜くことなくヨシオカザンを交わしていき、ゴールではヒシスピードに10馬身差を付けて8連勝を遂げた[38]。1分10秒1はレコードタイムであったが、中野渡は「びっしり追っていれば、1分9秒台が出せた」と述べている[38]。
1981年には南関東5戦全勝で移籍してきた[39]ステイードで弥生賞・皐月賞3着[40]に入ったが、初めて1桁勝利の8勝[5]に終わる。
1981年6月6日の札幌第2競走3歳新馬ではリーゼングロスで4コーナーで先頭に立ってから差を広げ、後方を10馬身離して勝利[41] [42]。
1982年3月20日の中山第9競走若草賞では1番人気のホリスキーで2着に終わったが、芝で初めての連対となった[43]。
1983年には日高育成牧場で育った[44]購買価格270万円の抽せん馬マリキータで活躍し、夏の新潟1200mの新馬を逃げて大差のレコード勝ちを収めると、新潟3歳ステークスでは主導権争いで気合をつけていき、素晴らしいダッシュを見せて瞬く間に先頭を奪った[45]。隊列は縦に長く伸びていき、前半600mを33秒7で通過した後もマリキータのペースは衰えず、直線では完全に独走の態勢に入った[45]。マリキータは圧倒的なスピードで観衆の目を釘付けにさせ、最後は2着に8馬身差、自身が新馬戦で記録したレコードタイムを1秒1更新して快勝[45]。2ヶ月後の京成杯3歳ステークスでも会心の逃げを披露し、ハーディービジョンの大外強襲で5着に敗れたものの、負けてなお強しを印象付ける[45]。朝日杯3歳ステークスでは1番人気の支持を取りつけながら6着に負けたため最優秀3歳牝馬のタイトルは逃したが、同年のフリーハンデは最優秀3歳牡馬のロングハヤブサと2kg差、最優秀3歳牝馬マーサレッドとは同斤量の53kgという評価を受けている[45]。
1985年には5年ぶりの2桁となる11勝をマークし、1987年まで3年連続2桁勝利を記録したが、1987年の11勝が最後の2桁となった[5]。
1987年7月12日の福島第9競走ほおずき賞・センゴクハーレーが最後の勝利となり、同年11月28日の東京第11競走奥多摩特別・リンドイーグル(12頭中8着)を最後に現役を引退[46]。
1989年より美浦トレーニングセンターに厩舎を開業した。
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騎手成績
- 主な騎乗馬
- シヨウグン(1966年スプリングステークス)
- アラジン(1967年NHK杯)
- タケシバオー(1967年朝日杯3歳ステークス、1968年東京4歳ステークス)
- ルピナス(1968年優駿牝馬)
- メイジシロー(1969年中山記念)
- マルゼンスキー(1976年朝日杯3歳ステークス、1977年日本短波賞)
- マリキータ(1983年新潟3歳ステークス)
- その他
調教師成績
- 地方27戦1勝[48]
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
- 武士沢友治(1997年-2010年 騎手)
脚注
関連項目
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