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仲根正広
日本のプロ野球選手、解説者 (1954-1995) ウィキペディアから
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仲根 正広(なかね まさひろ、1954年9月24日 - 1995年8月15日)は、東京都渋谷区出身のプロ野球選手(投手、外野手)・解説者。右投左打。一時期登録名を「仲根 政裕」(読みは同じ)としていた。
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来歴・人物
要約
視点
日大櫻丘高校時代は193cmの長身から「ジャンボ仲根」の異名で知られ[1]、エース、主力打者として活躍。 1学年下で歌手の郷ひろみも同校入学後に野球部を見学して、仲根のプレーを見てレベルの違いに驚いたという。
1972年の春夏の甲子園に連続出場。春の選抜は順調に勝ち進み、準決勝で東北高に9回裏サヨナラ勝ち。決勝は待井昇、吉沢俊幸のいた兄弟校の日大三高を5-0で完封し、初優勝を飾った[2]。尚、前年秋の都大会決勝でも日大三高と対戦しており、仲根自らの本塁打などで勝利していた。夏は都大会準決勝・拓大一高戦で延長18回を投げて引き分け再試合となるが、再試合では7回コールド勝ちで、決勝でも完投勝利で優勝。夏の選手権も優勝候補と期待されるが、1回戦で高知商に延長11回の末に敗退した[3]。
同年のドラフト1位で近鉄バファローズから指名。東京出身で在京セ・リーグを希望していたが、入団に至る。岩本尭監督に一軍帯同での英才教育を施された。
1973年は25試合に登板(1勝8敗)。4月25日のロッテ戦(川崎)で初登板を果たすと、4月30日の阪急戦(日生)では初先発を任される。5月29日の太平洋戦(日生)で完投して初勝利を挙げたが、5月6日のロッテ戦(日生)では1試合3ボークのパ・リーグ記録を作るなど、散々な1年となった。以後は右肩痛に悩まされ、5年間(1974年 - 1978年)での一軍登板は僅か5試合となった。
1975年9月25日の阪急戦(西宮)での4安打完封勝ちを最後に勝ち星からも見放される。
1979年に定評のある打撃を活かし野手転向。同年のウエスタン・リーグで打率.291、3本塁打35打点。
1980年にもウエスタン・リーグ打率.336、9本塁打37打点でベストテン3位。
1981年10月4日には西本幸雄監督の引退試合となった阪急戦(日生)で今井雄太郎から初本塁打を放つ。
1983年には右翼手の定位置を獲得。14本塁打を記録し、シーズン終盤の5試合には四番打者として起用される。8月20日のロッテ戦で9回二死までノーヒットに抑えていた仁科時成から右前安打を放ち、記録を阻止した。
1984年も打撃は好調を維持するが、リチャード・デービスの入団もあって出場機会が減少。
1985年4月23日の南海戦(藤井寺球場)ではプロ野球通算5万号本塁打を放った。
1988年に島田芳明・尾上旭との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。星野仙一監督からは左の代打の切り札として期待されたが、1年で現役を引退。
引退後は名古屋市郊外で焼肉レストラン「牛若亭」を経営する傍ら、宅配ピザ経営[4]にも力を入れる。飲食業と並行してラジオ大阪「近鉄バファローズナイター」とNHK衛星放送「メジャーリーグ中継」[1]の野球解説者も務めた。
1992年には高倉健主演の映画「ミスター・ベースボール」に出演[4]。日本プロ野球のみならず、大リーグなども熱心に研究・解説するなど評論の実力を認められつつあった矢先の1995年8月15日、肺癌[4](手術後の咳払いの際、傷口から大量出血があった)のため40歳で没した。
息子の仲根圭祐はワタナベエンターテインメント、SMA NEET Projectに所属したお笑いコンビ「エコギャング」のメンバーとして、「ジャンボ仲根Jr.」の芸名で活動していた元お笑い芸人。相方は馬王。
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詳細情報
年度別投手成績
年度別打撃成績
記録
背番号
- 20 (1973年 - 1987年)
- 47 (1988年)
登録名
- 仲根 正広 (なかね まさひろ、1973年 - 1981年)
- 仲根 政裕 (なかね まさひろ、1982年 - 1988年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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