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伊藤文隆
日本のプロ野球選手 (1954-) ウィキペディアから
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伊藤 文隆(いとう ふみたか、1954年5月11日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。愛知県名古屋市中村区出身[1]。プロ選手としては、阪神タイガースに所属した。
社会人野球時代の1972年から1978年までは「伊藤 弘利」(いとう ひろとし)、1979年から1985年までは「伊藤 宏光」(いとう ひろみつ)の登録名でプレーした。
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来歴・人物
大同工業高校では、エースとして1972年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、中京高の金本誠吉と投げ合い敗退。同年のプロ野球ドラフト会議で中日から5位指名を受けるも入団を拒否。その後、明治大学に進学するも中退。
社会人野球の三協精機に入社。1977年の都市対抗では1回戦で愛知トヨタに完投勝利。2回戦で電電東京に0-1で敗退[2]するが、その好投に注目が集まる。
1977年のドラフトで阪神から1位指名を受け入団。右腕からの速球を武器に1981年からローテーション入りを果たし1982年には10勝を挙げる活躍を見せる。
1988年は、前年の1987年を白星なしの9連敗でシーズンを終えたことから、背番号を14に変更して臨み、開幕から2戦2完封勝利と好調であった。しかし4月27日の大洋戦において池之上格の放った一塁ゴロで、一塁ベースカバーに入った際、池之上にスパイクされ右踵を裂傷。以後成績が振るわず、1991年に現役引退。打撃では1987年9月9日の甲子園でのヤクルト戦で本塁打を記録している。
引退後は、サラリーマンとしてアパレル企業のトレンザで営業職を務める[3]。1996年以降は、サンテレビとABCラジオ(2009年から)の野球解説者として活動していた。1995年から1998年までは日刊スポーツ野球評論家も務めた。ゴーストライターに頼らない貴重な評論家として野球名鑑に紹介されたこともある[1]。
2008年には社会人野球クラブチーム・トータル阪神の監督へ就任。2009年には第34回全日本クラブ野球選手権大会で優勝している。2010年12月、球団本部付職員として阪神に復帰[4]。球団本部チーム運営担当として、新人・若手選手やリハビリ中の選手のサポートなどを担当。2012年12月末で退団[5]。
2014年は独立リーグのBASEBALL FIRST LEAGUE加盟球団の姫路GoToWORLDの監督を務めた[8]。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- 初登板:1978年4月15日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に2番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、8回裏に高木守道から
- 初勝利:1978年4月22日、対ヤクルトスワローズ3回戦(阪神甲子園球場)、4回表1死に2番手で救援登板・完了、5回2/3を無失点
- 初先発:1978年5月24日、対ヤクルトスワローズ5回戦(阪神甲子園球場)、6回3失点で敗戦投手
- 初セーブ:1979年7月31日、対ヤクルトスワローズ16回戦(阪神甲子園球場)、6回表2死に2番手で救援登板・完了、3回2/3を無失点
- 初先発勝利:1980年7月27日、対読売ジャイアンツ16回戦(阪神甲子園球場)、8回2/3を1失点
- 初完投:1980年9月20日、対ヤクルトスワローズ22回戦(明治神宮野球場)、8回1失点で敗戦投手
- 初完投勝利:1980年10月1日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
- 初完封勝利:1981年9月5日、対ヤクルトスワローズ22回戦(明治神宮野球場)
- 1000投球回数:1986年9月5日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤ球場)、8回裏1死目に達成
- 初本塁打:1987年9月9日、対ヤクルトスワローズ22回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に阿井英二郎から2ラン
背番号
- 20 (1978年 - 1987年)
- 14 (1988年 - 1991年)
- 37 (2014年)
登録名
- 伊藤 弘利 (いとう ひろとし、1978年)
- 伊藤 宏光 (いとう ひろみつ、1979年 - 1985年)
- 伊藤 文隆 (いとう ふみたか、1986年 - 1991年、2014年)
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関連情報
出演番組
- サンテレビボックス席
- ABCフレッシュアップベースボール - 阪神以外への在籍経験はないものの、オリックス主催試合の裏送りへの出演が多かった。
脚注
参考資料
関連項目
外部リンク
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