増井裕

滋賀県出身の元騎手・調教助手 ウィキペディアから

増井 裕(ますい ひろし、1964年3月1日 - 2013年もしくは2014年)は、滋賀県出身の元騎手・元調教助手

概要 増井裕, 基本情報 ...
増井裕
基本情報
国籍 日本
出身地 滋賀県
生年月日 1964年3月1日
死没 2013年もしくは2014年(49歳没)
身長 165cm
体重 54kg
血液型 AB型
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 栗東土門健司(1983 - 1988)
栗東・フリー(1988 - 1999)
初免許年 1983年3月5日
免許区分 平地(初期は障害免許も保持)
騎手引退日 1999年2月28日
1998年7月11日(最終騎乗)
重賞勝利 3勝
通算勝利 313勝
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息子の増井一斗は宮徹厩舎所属の調教助手[1]競馬学校騎手課程第25期生(同期に松山弘平など)として入学予定だったが自主退学している[1]

経歴

要約
視点

1980年代

騎手候補生になる前は器械体操にいそしみ、関西団体チャンピオンの一員であった[1]

1983年3月5日栗東土門健司厩舎からデビューし[1]阪神第6競走4歳新馬・ストームオー(16頭中12着)で初騎乗を果たすと、同13日の阪神第7競走5歳以上1300万下・フミノアサヒで2着、3着とはハナ差の接戦を制して[2]初勝利を挙げる[3] [4] [5]。1年目の同年は27勝(平地22勝, 障害5勝)[6]をマークし[7]、関西の新人賞に当たる関西放送記者クラブ賞を受賞[8]したほか、同年から1995年まで13年連続2桁勝利を記録[7]

2年目の1984年には自己最多の50勝(平地47勝, 障害3勝)[9]を挙げ、京都4歳特別では伊藤修司厩舎のノーザンテースト産駒カミカゼイチバンで2着に入り、東京優駿では「関西の秘密兵器」として5番人気に支持されたが8着に終わった[10]京阪杯では伊藤雄二厩舎のサニーシプレーで10番人気ながらカツラギエースの2着に入り[11]スワンステークスでは前年の桜花賞シャダイソフィアに騎乗[12]。近走不振で猿橋重利からバトンタッチされた同馬は10番人気と人気を落としていたが、ニホンピロウイナーに7馬身離されたものの、安田記念ハッピープログレスを封じる2着に健闘[13]

3年目の1985年からは平地の騎乗に専念し、シンザン記念では16頭中12番人気のセントシーザーでライフタテヤマの2着[14]、京都4歳特別ではグリーンアラシでランドヒリュウの2着[15]に入る。1985年11月16日京都第7競走4歳以上400万下・ゴッドユーティーで通算100勝を達成し[16]1987年には笠松地方招待2着のダイタクチカラ[17]を父に持つダイタクロンシャンデイリー杯3歳ステークスを制して[18]重賞初制覇を挙げると[3]阪神3歳ステークスではサッカーボーイから8馬身離されたが、後方から追い込んで2着に入った[19]。サッカーボーイに騎乗した内山正博、3着のジンデンボーイに騎乗した田面木博公と共にGI未勝利騎手の上位独占となったが、増井はGI未勝利のまま終わった[20]

1988年からはフリーとなり、サンキンハヤテで阪急杯を制したほか[3]、フェアプレー賞を受賞。

1989年には10月29日の京都第2競走3歳未勝利・ノースヒルオーで200勝を達成し[21]、阪神3歳ステークスではニチドウタロー産駒のニチドウサンダーに騎乗[22]。道中は逃げるダイタクヘリオスを2番手でマークして4着に入ると[23]1990年のシンザン記念[3]ではダイタクヘリオスを破る[22]皐月賞では18頭中15番人気ながら5着と健闘し、ハクタイセイアイネスフウジンメジロライアンには屈したものの、コガネタイフウと共に掲示板は確保[24]

1990年代

1991年小倉で行われた中日新聞杯で2着[22]、同じく小倉で行われた中京記念ではレッツゴーターキンラッキーゲランメインキャスターに次ぐ4着に入る[25]

1994年にはエイシンテネシーで第1回香港国際ヴァーズに騎乗してレッドビショップ(フランス)の4着と健闘し[26]香港国際カップフジヤマケンザン(4着)と並ぶ当時の香港国際競走の日本馬最高成績であった[27]香港国際ボウルではゴールドマウンテンに騎乗し、ソヴィエトラインイギリス)・ハートレイクアラブ首長国連邦)に次ぐ8着[28]であった。

1995年は1月29日の小倉第5競走4歳新馬をダンスパートナーで勝利し[29]9月30日の京都第6競走3歳新馬・サクラエキスパートで300勝を達成[30]

1996年は7勝と初の1桁[7]1997年には自己最低の2勝[7]に終わり、1998年4月25日の京都第2競走4歳未勝利・ラグタイムシチーで最後の勝利[30]を挙げる。

1998年7月11日函館第12競走4歳以上500万下・ツルミゴールド(11頭中9着)を最後に騎乗が無くなり[31]1999年2月28日限りで現役を引退[3]

引退後

引退後は大根田裕之厩舎の調教助手となり、カルストンライトオなどを担当[1]。40代半ばで退職したのち、49歳の時に病気のため死去していたことが2024年になってスポーツ報知による記事で明かされた[1]

騎手成績

さらに見る 通算成績, 1着 ...
通算成績1着2着3着4着以下出走回数勝率連対率
平地 305 335 293 2980 3913 .078 .164
障害 8 6 10 35 59 .136 .237
313 341 303 3015 3972 .079 .165
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主な騎乗馬

  • ダイタクロンシャン(1987年デイリー杯3歳ステークス)
  • サンキンハヤテ(1988年阪急杯)
  • ニチドウサンダー(1990年シンザン記念)
その他
  • コガネタイフウ
  • ダンスパートナー
  • エイシンテネシー
  • ゴールドマウンテン

脚注

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