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猿橋重利

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猿橋 重利(さるはし しげとし、1956年10月24日 - )は、北海道出身の元騎手調教助手

概要 猿橋重利, 基本情報 ...

息子の猿橋照彦も調教助手[1]

来歴

要約
視点

1977年栗東大久保石松厩舎からデビューし、同期デビューには松永昌博根本康広らがいる。

1年目の1977年には3月6日阪神第5競走障害5歳以上未勝利・ヤマニンアツコ(7頭中3着)で初騎乗を果たし、同馬に騎乗した同19日の阪神第5競走障害5歳以上未勝利で初勝利を挙げる[2]4月9日の阪神第2競走4歳未勝利・ヤワタチンクエッテで平地初勝利[2]を挙げ、同馬では天皇賞(春)が行われた4月29日[3]京都第6競走あずさ賞も勝って2連勝となり、人馬共に特別戦初勝利となった[4] [5]5月8日には京都大障害(春)・エリモロイヤル(6頭中4着)で重賞初騎乗[5]も果たし、10月8日の京都第9競走4歳以上オープンではロングホークに騎乗しシルバーランドクラウンピラードに次ぐ3着[6]に入ったが、1年目平地3勝・障害5勝[7]の8勝[8]をマーク。

2年目の1978年には3月18日19日の阪神で初の2日連続勝利、5月20日の阪神では第8競走4歳以上オープンで秋の天皇賞ホクトボーイに騎乗してハシコトブキヤマニンバリメラインターグロリアに勝利[9]するなど初の1日2勝を挙げる[10]。京都大障害(春)ではアインオーエンスで3着[11]北九州記念ではワイエムラッキーでウラカワチェリーの2着[12]に入り、同年は初の2桁で20勝台となる28勝[8]をマークし、1991年まで14年連続2桁勝利[8]を記録。

3年目の1979年には中尾謙太郎厩舎が管理する鹿児島生まれの九州産馬アリアケキングでアラブ大賞典(秋)2着[13]、明けて1980年にはアラブ大賞典(春)3着[13]タマツバキ記念(春)では人気に応えて人馬共に重賞初勝利[13] [14]を飾った。

1981年にはオオシマスズランとのコンビで活躍し[15]桜花賞が行われた4月5日に桜花賞と同じ阪神芝1600mの4歳牝馬特別を1分41秒3で勝利するが、桜花賞のブロケードも同タイムであった[16]京都4歳特別では牡馬相手に2着に4馬身差で勝利し[17]、4連勝で同馬唯一の重賞勝利で[15]、猿橋はサラ系重賞初勝利[18]となった。

1982年からは大種牡馬ノーザンテーストを父に持つシャダイソフィアとのコンビで活躍し、同年は新馬を10馬身差で圧勝すると、2連勝で函館3歳ステークスを制す[19]1983年の桜花賞では雨と不良馬場の中、前哨戦の4歳牝馬特別(西)で先着を許していた同じ社台出身でノーザンテースト産駒のダイナカール[20]や重賞2連勝中のダスゲニー[21]に勝利し[22]、人馬共に唯一の八大競走・GI級レース制覇となった[19] [23]

1982年の菊花賞ではパッシングサイアーで皐月賞アズマハンターハギノカムイオーワカテンザンを抑えてホリスキーの2着と健闘[24]

1983年にはエリモローラで人気薄ながら京都記念(秋)京阪杯を連勝し、1984年には降雪でダート変更になった日経新春杯を勝利[25]

1984年からはフリーとなり、1985年からはライフタテヤマとのコンビで活躍[26]。同年のシンザン記念を好位から楽に抜け出してクラシックへ名乗りを上げ、管理する安田伊佐夫厩舎に重賞初勝利[27]をもたらすが、その後は骨折のために1年以上の休養を余儀なくされる[28]。復帰後は前年覇者のリキサンパワーを子供扱いにする強さで札幌記念を制覇し、続くタイムス杯も完勝[29]。暮れのウインターステークスでは再びリキサンパワーが立ちはだかったが、勝負付けが済んでいた同馬は単枠指定のライフタテヤマの相手にならず、レースでは4歳の上がり馬フェートノーザンが直線追いすがったものの、4コーナー先頭からの横綱相撲で完勝[29]。2着フェートノーザンに騎乗した中竹和也が「勝った馬があまりに強すぎて、あれだけ迫るのがやっと」と述べるほどの強さを見せ、中央の古馬ダート重賞3競走のうち2つを制したライフタテヤマは、ほぼ満票で同年の優駿賞最優秀ダートホースに選出された[29]1987年の札幌日経賞も完勝し[28]、ダートに限れば6戦6勝[28]、合計着差は22馬身[28]にもなったが、裂蹄や脚部不安で引退している[29]

1985年のエリザベス女王杯では12番人気の関東馬ナカミアンゼリカでリワードウイングの3着[30]、1986年の天皇賞(春)ではフリートホープでスダホークサクラユタカオーメジロモンスニーを抑えてクシロキングの3着[31]に入った。

1986年は自己最多の50勝をマークし、1987年の桜花賞ではワンダーレジストで圧勝したマックスビューティの3着[32]1988年のエリザベス女王杯ではマチカネイトハンで4コーナー先頭の見せ場を作ってミヤマポピーシヨノロマンに次ぐ3着[33]に入った。

平成になってからはモンテプリンス産駒グレートモンテとのコンビで活躍し、1989年愛知杯を逃げ切る[34]。。1990年には芝で初めて行われた札幌記念でレディゴシップが1000mを58.2秒で軽快に飛ばす中を2番手から運び、直線では追い込んできた軽ハンデ51kgのシュバリエがを3/4馬身差振り切って勝利するが、勝ち時計は2008年タスカータソルテに更新されるまで、実に18年間も破られることが無かった[35]

1990年には師匠の大久保厩舎に復帰し、1991年には大久保の定年で再びフリーとなる。

1992年にはエリモパサーで日経新春杯でカミノクレッセの3着、京都記念・京都大賞典では共にオースミロッチの3着に入った[36]

1993年にはヤマヒサローレルで4歳牝馬特別(西)を快勝[37]したのが最後の重賞勝利[38]となり、3番人気に支持された桜花賞ではベガの4着に終わって降板[39]

1995年には佐山優厩舎に所属し、最後の重賞騎乗となったGIのマイルチャンピオンシップ[40]ではトーワダーリンで勝ったトロットサンダーと0秒4差5着[41]と健闘。

1996年3月9日の中京第7競走4歳以上500万下・トーワスピーディーで最後の勝利[42]を挙げ、7月7日の阪神第8競走三宮特別・ランドヒテン(10頭中3着)を最後の騎乗[43]となり、1997年2月28日付で現役を引退。

引退後は佐山厩舎の調教助手としてヒシアケボノヒシミラクルを手がけ、佐山の定年後は飯田祐史厩舎に移籍し、2021年6月まで勇退[1]

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騎手成績

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関連項目

脚注

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