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太地喜和子

日本の女優 ウィキペディアから

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太地 喜和子(たいち きわこ、1943年12月2日 - 1992年10月13日)は、日本俳優。旧芸名は志村 妙子(しむら たえこ)。東京都中野区出身[3][4][5]。本名は同じ表記で、読みは「たい きわこ[1]」。

概要 たいち きわこ 太地 喜和子, 本名 ...
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来歴・人物

要約
視点

父親は和歌山県新宮市の出身[6][5]。父は東京都の土木局に勤務していた[7]。太地は自身の出生について「自分はさる事情から、生後すぐ実母との別離を余儀なくされ、養父母の元に引き取られたと高校在学中に知った」と談話している。

新宿区立牛込仲之小学校、千代田女学園中学校[4]松蔭高等学校在学中の1959年に、東映ニューフェイスの第6期に合格。同期には千葉真一亀石征一郎真山知子茅島成美新井茂子都築克子らがいる。東映と専属契約し、当初は志村 妙子(しむら たえこ)名義で同社作品に出演していた。1962年に高校卒業後、1963年に東映を離れ、劇団俳優座養成所に入る。同期に俳優座花の15期生がおり、1年留年したため、16期生として卒業[8]。『欲望という名の電車』の杉村春子の芝居に衝撃を受け、1967年文学座に入団した[9]。同年、日活映画の『花を喰う蟲』に主演。その演技を新藤兼人監督に認められ、1968年の『藪の中の黒猫』に抜擢されると、全裸もいとわぬ演技で一躍有名になった[4]

舞台女優として、「杉村春子の後継者」として期待されていた。

私生活では、俳優座養成所時代からの同期だった秋野太作1974年に結婚するも、短期間で離婚。その他三國連太郎中村勘三郎尾上菊五郎志村けんとのロマンスが取り沙汰されたこともあったが、「私はサービス精神がある限り、見ている人にこの人は帰ったら所帯があると思わせてはいけない」というポリシーを持っており[10]、離婚後は生涯、独身を通した。また当時の女優としては池波志乃らと共に大変な酒豪で鳴らした。「本当に愛したひとは三國さんだけ」と公言し、映画『飢餓海峡』のロケを追い俳優座を辞め北海道に渡ったが、左幸子演ずる杉戸八重に嫉妬し、数か月で俳優座に戻り女優一筋の道を選ぶ。その後文学座で加藤武に育てられる。その後、雑誌上で三國と最初で最後の対談をしているが、その場でも八重に対する猛烈な嫉妬心を語っている。

この頃から緑内障を患い、失明の恐怖にさいなまれるようになった。

1992年10月13日、静岡県伊東市での『唐人お吉』公演期間中の午前2時過ぎ、俳優三人が立ち寄ったスナックのママ[11]が運転する乗用車トヨタ・スプリンターシエロ)が桟橋から海に転落する事故により死去。同乗者の外山誠二大滝寛、および運転していたママは泳いで脱出したが、太地は泳げなかった上[12][13]、乗車前に深酒をしていたことから生還できなかった。駆けつけた佐藤陽子は「死に顔は眠っているようだった」と語っている。48歳没。墓所は豊島区勝林寺

太地の事故死直後、プライベートでも親友だったカルーセル麻紀が自身の舞台上で感極まり「喜和子ぉ!!」と絶叫しながら号泣した場面がワイドショー等で放送された。

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出演作品

要約
視点

テレビドラマ

映画

ラジオドラマ

CM

その他

舞台

1968年

  • タンゴ
  • 美しきものの伝説(宮本研作)

1969年

1970年

1972年

1973年

  • 桜ふぶき日本の心中(宮本研作)

1974年

1975年

1976年

1977年

  • 華々しき一族

1978年

  • 東海道おらんだ怪談(宮本研作)

1979年

1980年

1982年

1984年

  • ジェルソミーナ(フェデリコ・フェリーニ監督の映画「」を原作としながら、主人公は映画版のヒロインであったジェルソミーナに変更されている。)

1985年

  • 恋衣黙阿弥草紙 鬼あざみ(田中喜三作)

1986年

1987年

1988年

1989年

  • 黙阿弥草紙 闇の華(田中喜三脚本)
  • 藤十郎とお梶(菊池寛原作)

1990年

1991年

  • 山ほととぎすほしいまま(秋元松代作)-杉田久女
  • 蔦屋夢草子ー幻の華(中川寿夫脚色演出)

1992年

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書籍・参考文献

太地喜和子を演じた女優

脚注

外部リンク

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