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安井智規
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安井 智規(やすい としのり、1943年1月25日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。1967年までの登録名は「安井 俊憲」。
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経歴
大阪高校では3年次の1960年、夏の甲子園府予選準々決勝に進出するが、桃山学院に敗退。
卒業後の1961年に近鉄バファローへ入団し、2年目の1962年4月7日の大毎戦(日生)に村田康一の代走で一軍初出場。5月13日の阪急戦(日生)では島田光二の代打で初安打、6月24日の大毎戦(東京)で初盗塁を記録。
3年目の1963年5月20日の東映戦(日生)で初打点、1964年4月2日の西鉄(藤井寺)で畑隆幸から初本塁打を記録。同年は主に二塁手として14試合に先発出場を果たし、1965年は開幕から2番打者、二塁手に抜擢される。同年は打撃が低迷し定位置は奪えなかったが、1966年には矢ノ浦国満がサンケイに移籍したため、後継の正遊撃手となる。
1967年には俊足を活かした1番打者に定着し、初めて規定打席(24位)に到達。1968年には8月24日の南海戦(日生)で1試合4盗塁を記録するなど、チーム史上2人目の盗塁王となる。
1969年には打率.272(リーグ17位)と成長を見せ、自身唯一となるオールスターゲーム出場を果たす。
1972年には中日から移籍の一枝修平が正遊撃手となったため、主に二塁手、三塁手として起用される。その後も内野のユーティリティプレイヤーとして活躍し、1970年と1972年にはリーグ最多犠打を記録し、1971年10月9日の南海戦(日生)で1000試合出場を達成。
1974年9月1日のロッテ戦(日生)で八木沢荘六から最後の本塁打、同29日の阪急戦(日生)で最後の安打を記録。
1975年は無安打に終わり、6月23日の日本ハム戦(後楽園)にクラレンス・ジョーンズの代走で起用されたのが最後の出場となった。コーチ兼任となった1976年には一軍出場がなくなり、同年限りで現役を引退。
引退後は近鉄で二軍守備・走塁コーチ(1977年 - 1981年, 1991年 - 1992年, 1998年)、二軍守備コーチ(1988年)→一軍守備コーチ(1989年 - 1990年)、二軍野手総合コーチ(1993年)→二軍野手コーチ(1994年)→二軍監督(1995年)→一軍守備・走塁コーチ(1996年 - 1997年)、育成担当(1999年 - 2002年)を歴任。一軍コーチ時代の1989年には9年ぶりのリーグ優勝に貢献し、二軍監督時代の1995年にはチームを17年ぶりのウエスタン・リーグ優勝に導いている。
近鉄退団後は関西メディカルスポーツ学院で初代監督(2006年)、コーチ(2007年)を務めた。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 盗塁王:1回 (1968年)
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1971年10月9日 ※史上155人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1969年)
背番号
- 53 (1961年 - 1965年)
- 13 (1966年)
- 6 (1967年 - 1975年)
- 40 (1976年)
- 65 (1977年 - 1981年)
- 88 (1988年 - 2002年)
登録名
- 安井 俊憲 (やすい としのり、1961年 - 1967年)
- 安井 智規 (やすい としのり、1968年 - )
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脚注
関連項目
外部リンク
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