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宮本賢治
プロ野球選手 ウィキペディアから
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宮本 賢治(みやもと けんじ、1959年9月9日 - )は、兵庫県神崎郡市川町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。
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来歴・人物
中学時代は内野手であったが、東洋大姫路へ進み、2年生の春にアンダースローの投手転向。主戦・松本正志の控えとして出番はなかなか巡って来なかったが、1977年の第59回全国高等学校野球選手権大会で優勝を経験する。この大会では3回戦の浜田高校戦で、松本の後を受けてリリーフ登板するものの、直後に打球を右手に受け降板している。
その後、東洋大学のライバル校である亜細亜大学へ進学。大学時代は1980年秋季、1981年春季に2季連続で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを獲得した。3年秋は1学年上の大石大二郎を擁して、同期の田中力とのバッテリーで明治神宮大会で2試合連続完封したが決勝戦で日体大に敗れた。東都大学野球リーグ通算80試合登板し、35勝18敗、防御率2.14、200奪三振の成績を残す。35勝はリーグ歴代4位タイ、亜大歴代1位である。
同年のドラフト1位でヤクルトに入団。先発・中継ぎ両方をこなすアンダースロー投手として活躍。
1982年に勝利投手を記録。これはヤクルトのドラフト1位の新人としては杉山重雄以来10年ぶりの出来事だった[1]。プロ入り当初は球種が145km/h前後の直球とキレの悪いカーブのみだった[2]。
1989年のシーズンオフに野村克也がヤクルト監督に就任したのをきっかけにアンダースローからサイドスローに転向すると[2][3]、キレが増したカーブとスライダーやシュートも球種に加わる[2]。
1990年には自己最多の11勝を挙げた[2][3]。特に横浜大洋ホエールズに滅法強く、「大洋キラー」と呼ばれた。
1992年、チームはリーグ優勝したが、故障のためこの年1軍での登板はなかった。
1993年、シーズン終盤に復帰。チームの台所事情が苦しい中、そのまま4勝を挙げ2連覇に貢献。その年の日本シリーズにも先発登板した。翌年以降も谷間の先発・リリーフを務めた。
1996年現役引退。
1997年から1998年まで、サンケイスポーツの記者、スポーツライター。
1999年から2000年まで、ヤクルト1軍投手コーチ補佐を務めた。
2001年オフからは同球団の関東・近畿・中国地区担当スカウト主事補佐に転進。
2010年からは、編成部に新設される育成担当に就任、選手の育成に力を注ぐ[4]。
2016年はヤクルト2軍監督を務めた。
2017年からはファームディレクターに転身した。
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詳細情報
年度別投手成績
記録
背番号
- 14 (1982年 - 1996年)
- 74 (1999年 - 2000年)
- 72 (2016年)
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主な担当入団選手
- 館山昌平(3巡目)
- 武内晋一(大学生社会人対象・希望枠)
- 高市俊(大学生社会人対象・希望枠)
脚注
関連項目
外部リンク
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