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小野和義
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小野 和義(おの かずよし、1965年11月13日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ。
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経歴
要約
視点
プロ入り前
創価高等学校時代は大型左腕投手として江夏二世の声があった。2年生時の1982年秋季東京大会では準決勝に進むが、桜美林高に惜敗。翌1983年夏の全国高校野球選手権西東京大会では、準決勝で明大中野高の武田一浩に投げ勝ち、決勝でも帝京大高を降し、第65回全国高等学校野球選手権大会への出場を決める。大会では1回戦で東山高に敗退した。
1983年度ドラフト会議にて3球団競合の末に近鉄バファローズから1巡目指名を受け、入団。
近鉄時代
1984年の高卒1年目には、ベテランの鈴木啓示から「ワシを見つけて早速挨拶に来てくれた。声も大きいし、ハキハキしとる。ワシら年寄りにも臆せずに、いい目付きしとる。入団のときに“記録破りが僕の夢”といった小野君のことば、頼もしいやないか」とその素質を認められる。鈴木の小野への入れ込み様は、キャンプインの空港からの移動も、わざわざルーキーたちのいるバスに乗り込み、小野の隣に座りプロの心構えを説くほどであった[1]。1年目から24試合に登板。プロ初勝利、初セーブも記録した[1]。ちなみに、このセーブは、鈴木が307勝目を手にした試合であり、鈴木は「小野ヤン、ありがとう」と感謝を口にした。2勝3敗1セーブ、防御率5.29という成績だったが、自ら希望して、わずか1年で退寮している[1]。
1986年、春のキャンプで近鉄が提携していたブリュワーズの投手コーチから教わったチェンジアップをマスターし、これが飛躍のきっかけとなる[1]。開幕から近鉄の2連敗で迎えた第3戦(藤井寺)では1点のリードを守り抜き、2失点の完投勝利。その後は必ずしも安定した投球でなかったが、以降3連勝、6月5日の阪急戦(日生)からは5連勝、7月3日の日本ハム戦(後楽園)では救援のマウンドながら勝利投手となり、両リーグ一番乗りで10勝に到達した。前半戦だけでプロ初完封を含む12勝を挙げ、同年のオールスターに出場した。だが、後半戦に入ると疲労もあり、急失速し、最終的にはリーグ最多の自責点、被本塁打を喫する。防御率5.02はリーグ最下位。それでも自己最多の14勝で、先発ローテーションの一角を不動のものとした[2]。
1987年、オールスターゲーム第2戦に出場、3イニングを無失点、3奪三振の好投で優秀選手賞を受賞した。前年に続き2年連続でリーグ最多の被本塁打を喫するも、11勝を挙げる[2]。
1988年、2連勝で優勝が決まるロッテとの最終戦ダブルヘッダー(10.19)の第1戦に先発、7回3失点と踏ん張って、逆転勝ちにつなげた。同年は10勝を挙げる[2]。
1989年、12勝を挙げ、2年連続リーグ4位の防御率3.39でリーグ優勝に貢献[2]。しかしシーズン終盤に肘を故障し、優勝決定時は出場選手登録を外れる[3]。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第4戦に先発するが6回に打ち込まれ降板、敗戦投手となった。シーズン終了後には左肘の手術を受ける[2]。
1990年は故障のため僅か3勝に終わった。
1992年は開幕投手を任されたものの左肩痛を発症しシーズン未勝利に終わる。
1993年にはかつて世話になった鈴木啓示が監督として就任するが、立花龍司コンディショニングコーチと取り組んでいた調整方法を巡って確執が生じ[1]、その影響で同年限りで自由契約となり西武ライオンズへ移籍。
西武時代
1994年には豪快なフォームで遅いボールを投げる技術を身につけ貴重な先発左腕として復活、7勝を挙げる。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第3戦に先発、8回を1失点と好投するが勝ち負けはつかなかった。
1995年も7勝を記録する。
1996年は再び故障に苦しみ未勝利に終わる。
中日時代
8試合に登板したが勝ち星なく、故障も癒えなく二軍での登板もままならなかった、オフに現役を引退[2]。
引退後
1998年から2001年までは古巣・近鉄の一軍投手コーチ、2002年から2003年までは二軍投手コーチ、2004年は再び一軍投手コーチを務めた。1998年と1999年は2年連続チーム防御率リーグ最下位、2001年のチームは優勝したが、チーム防御率4.98は12球団ワーストを記録し翌年二軍投手コーチに配置転換になっている。
2005年からは新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチに就任したが、チーム防御率が5.67と12球団最下位に低迷。
2006年からは同球団の二軍投手コーチとなった。
2007年9月22日に翌年の契約を結ばないことが発表された[5]。
2008年からは西武時代同僚だった渡辺久信の要請で[6]埼玉西武ライオンズの一軍投手コーチに就任。
2009年はリーグワーストとなるサヨナラ負けを14回記録するなど中継ぎ陣が低迷、救援防御率は4.15、5.31と2年連続でリーグ最下位となった。他のパ・リーグ5球団はいずれも400個代の四球数だったが、西武だけは両リーグ最多の550四球を献上しBクラスに終わった一因だった[7]。
2010年は同球団の二軍投手コーチ、2011年は再び一軍投手コーチになるも、同年11月7日に翌年のコーチ契約を更新しないと発表された[8]。
2012年からは同球団の編成部プロ担当としてフロント入りし[9]、2019年から一軍投手コーチとして現場に復帰。「ケツをたたきまくります。昭和でいきますよ」と述べ、若手投手陣に厳しく接する方針を示したが[10]、リーグ連覇は達成したものの、チーム防御率は前年の4.24から4.35に悪化し、リーグ最下位(12球団中11位)に終わり、就任会見で投手陣の課題を問われると「明確に課題が出たのは、フォアボールの数。そこさえクリアできれば、おのずと成績は上がる」と即答したが[11]、四球数は506から509に増え、CSでは4戦32失点、防御率7.25と投手陣が低迷したため4連敗でCSで敗退となり、試合終了後に翌年のコーチ契約を結ばないと発表された[12]。今井達也が6月11日の巨人戦で発熱で登板を回避した際は「本来あってはいけないこと。6連戦の頭からなにを考えているのか。自己管理がなっていない」とげきを飛ばした[13]。
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選手としての特徴
スリークォーターから投げる140km/h台中後半のストレート、チェンジアップ、フォーク(スプリットフィンガード・ファストボール)、カーブ、スライダーを武器にしていた。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
記録
- 初記録
- 初登板:1984年5月3日、対南海ホークス4回戦(日生球場)、3回表二死に2番手で救援登板、3回1/3を3失点
- 初奪三振:同上、4回表にジェフ・ドイルから
- 初先発登板・初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1984年6月17日、対西武ライオンズ13回戦(西武ライオンズ球場)、9回1失点
- 初セーブ:1984年7月31日、対阪急ブレーブス15回戦(阪急西宮球場)、7回裏一死に3番手で救援登板・完了、2回2/3無失点
- 初完封勝利:1986年5月1日、対日本ハムファイターズ6回戦(後楽園球場)
- 節目の記録
- 1000投球回:1990年9月23日、対福岡ダイエーホークス21回戦(平和台球場)、5回裏一死に達成
- 1000奪三振:1997年5月9日、対広島東洋カープ6回戦(ナゴヤドーム)、6回表に木村拓也から ※史上98人目
- その他の記録
背番号
- 26(1984年 - 1993年)
- 24(1994年 - 1997年途中)
- 18(1997年途中 - 同年終了)
- 74(1998年 - 2007年)
- 80(2008年 - 2011年)
- 88(2019年)
- 91(2025年 - )
脚注
関連項目
外部リンク
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