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種田仁
日本の元野球指導者、プロ選手 ウィキペディアから
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種田 仁(たねだ ひとし、1971年7月18日 - )は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、元野球指導者。
現役時代は主に中日ドラゴンズ・横浜ベイスターズで活躍し、「ガニマタ打法」と呼ばれる独特なバッティングフォームで知られた。
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経歴
要約
視点
プロ入り前
山上烈監督の下、上宮高校で1年からベンチ入りし出場。1988年、2年時の選抜では、高嶋徹や真中満らを擁する強力打線の宇都宮学園に敗れベスト8。3年時の選抜では、決勝に進出。後にチームメイトとなる山田喜久夫を擁する東邦を相手に10回裏、優勝まであと一死まで迫りながら同点タイムリーヒットを打たれた際のプレーで、自らの悪送球(記録上はバックアップに入っていた右翼手の捕球ミスによるエラー)により逆転サヨナラ負けを喫して準優勝。選手権ではベスト8で大越基擁する仙台育英に2-10で敗れた。国体では、決勝で福岡大大濠を3番手投手として登板し優勝に貢献した。高校野球部では元木大介と小野寺在二郎が同期で、1学年下に宮田正直がいた。
1989年度ドラフト会議にて中日ドラゴンズが指名したい選手が残っていなかったため、プロ入り拒否を表明していた種田を「ものの弾みで」6位として強行指名[1]。結局、契約金は上位指名選手並みの4500万円、背番号は一桁の0を与えられるなど高く評価され、専修大学進学内定を辞退して入団した。担当スカウトは中田宗男。中田によると、「何で元木が1位で僕が6位なんですか?」と問いただしたり、高校のコーチに「僕の方がショートうまいです。僕を使ってください」と何度も願い出るほど元木へのライバル心は強かった[2]。
中日時代
1年目の1990年から一軍出場を果たす。同年は無安打だったが、8試合に出場した。初出場の同年8月20日は故障欠場した立浪和義に代わり、2番・遊撃手として先発出場した。安打こそ出なかったものの、高卒新人ながら落ち着いたプレーを見せ、この日1番打者として4安打した彦野利勝をすべて犠打で進塁させ、得点に結び付けた。
2年目の1991年は、仁村徹から二塁手のレギュラーを奪う形で後半戦からスタメンに定着。最終的に107試合に出場し、5本塁打、打率.272を記録した。
1992年、この年から監督に就任した高木守道の現役時代の背番号1を与えられる[注 1]。肩に不安を抱えていた遊撃手の立浪和義と交代する形で二塁手から遊撃手へとコンバートされた。この年は前年を下回る成績だったが102試合に出場した。
1993年は、初めて規定打席に到達し、10本塁打を記録し、初の全試合出場を果たすなど活躍した。
1994年は、怪我などの影響で不調に陥り、神野純一や酒井忠晴にスタメンを奪われ41試合出場に終わる。10.8決戦では出場機会がなかった。
1995年に復調するものの、同い年の鳥越裕介の台頭もあり89試合の出場に終わった。
1996年は、遊撃手のレギュラーを鳥越に奪われ、40試合の出場に終わった。
1997年は、さらに少ない8試合の出場に終わった。しかし、その年のオフにプロ野球脱税事件に関与。種田は脱税額が少なかったため起訴猶予処分となり、翌1998年は前年の脱税事件の影響で開幕から3週間の出場停止処分を受けた。この年、背番号も翌年入団する福留孝介に1を用意するため49に変更。阪神タイガースから移籍してきた久慈照嘉の活躍もあり、打率は.280であったものの結局43試合の出場に終わった。
1999年はチームはリーグ優勝を果たしたものの43試合の出場に留まった。なお同年の日本シリーズに3試合出場した。
だが、翌2000年に「ガニマタ打法」(後述参照)を開発し、代打で11打席連続出塁という日本記録を樹立する。規定打席には満たなかったものの、102試合に出場し打率.314、7本塁打、31打点を記録してカムバック賞を受賞した。
2001年は開幕から8試合に出場した後、4月に波留敏夫とのトレードで、山田博士と共に横浜ベイスターズへ移籍した。バイプレーヤー的な存在の内野手と先発中継ぎの両方ができる投手を求めていた横浜の森祇晶監督が、中日の星野仙一監督に無理を承知で直談判し異例のシーズン中の同一リーグトレードが実現した。
横浜時代
移籍後の2001年は、98試合に出場し打率.278を記録、ユーティリティープレイヤーとして重用された。同年は中日時代と合わせ、106試合に出場した。
2002年は、前年より打率を下げたが116試合に出場して1993年以来9年ぶりとなる規定打席到達、100安打を記録した。
2003年は、前年同様守備に不安があり打撃でも安定感を欠く内川聖一、古木克明、この年から入団した村田修一らに代わり、二塁手や三塁手、時には外野手として数多くの試合にも出た。この年は92試合の出場に終わったが、打率.287と打撃は好調だった。
2004年の開幕当初は控えであったが、5月頃からスタメンで起用されると好成績を挙げ、規定打席に到達するなどレギュラーに定着。出場試合120で打率も規定打席到達では初となる3割を記録した。
2005年も開幕から二塁手としてスタメン起用され、自己最多の145試合に出場。自己ベストとなる打率.310(セ・リーグ9位)の好成績を残し、同年オフのにはプロ入り後17年目で初めて年俸1億円を超える1億2500万円(推定、前年比3500万円増額)で契約更改した[3]。このシーズンは、1試合の欠場があったが7月30日対広島戦の5回、種田は本塁のクロスプレーでアウトの判定に大激怒して球審の上本孝一に体当たりした上、突き飛ばしたために退場宣告および出場停止処分を受けたもの[注 2]。
2006年は、肘の故障の影響で不振に陥り、80試合の出場に終わった。打率.217は横浜へ移籍してからは自己ワーストの成績だった。
2007年は、巨人から移籍した仁志敏久の活躍もありスタメンでの出場が激減した。主に代打での出場で58試合の出場に終わり打率は.258の成績を残したがシーズン終了後に戦力外通告を受けた。種田も現役続行を希望し、埼玉西武ライオンズへ移籍した。背番号は2。
西武時代
2008年は、この年本塁打王に輝いた中村剛也や中島裕之、片岡易之、控えでも日本シリーズで活躍した平尾博嗣や石井義人など、選手層の厚さに阻まれて出場無しに終わった。二軍では78試合に出場したものの、10月1日に西武から2度目の戦力外通告を受けた。その後、12球団合同トライアウトに参加したが、獲得する球団はなく現役を引退した。12月2日に自由契約公示された。
引退後
2009年は芸能事務所の「ホリプロ」に所属し、テレビやラジオ、東京中日スポーツ、テレビ愛知を中心に野球解説者としてタレントとしても活動した。
2010年は、韓国プロ野球のサムスン・ライオンズ打撃コーチを務め、同年11月に東北楽天ゴールデンイーグルス二軍内野守備走塁コーチに就任した。2011年5月15日、一軍内野守備コーチに異動。2012年は二軍内野守備走塁コーチに復帰する予定だったが、同年1月に種田本人の申し出により退団した[4]。
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人物・選手としての特徴
愛称は「タネタネ」「アパッチ」「マイケル[注 3]」。
プロ入りから、10年近くはオーソドックスなスクエアスタンスで打席に立っていたが2000年頃からバッターボックス内で左足を大きく開いて腰を落とし、左足の踵を上げる『ガニマタ打法』[5]と呼ばれる構えに変更した。この構えは、打席に入ると左肩が内側に入りすぎる悪癖を矯正するために種田が自ら開発したものである[6]。この打法により際どいコースも見極められるようになったという。ただし打ち始める時点で左足を閉じオーソドックスな体勢になっていた。
詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績[7]
表彰
- ジュニアオールスターゲームMVP(1991年)
- カムバック賞(2000年)
- セントラル・リーグ会長特別表彰(2000年) ※6月2日~7月12日にかけて、代打11打席連続出塁
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1990年8月20日、対横浜大洋ホエールズ21回戦(ナゴヤ球場)、2番・遊撃手として先発出場
- 初安打:1991年4月6日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、9回表に森田幸一の代打として出場、木田優夫から右前安打
- 初打点:1991年4月18日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、5回表に内藤尚行から
- 初盗塁:1991年5月17日、対阪神タイガース7回戦(阪神甲子園球場)、9回表に二盗(投手:中田良弘、捕手:木戸克彦)
- 初本塁打:1991年6月16日、対阪神タイガース15回戦(阪神甲子園球場)、7回表に藤本修二から左越ソロ
- 節目の記録
- 1000試合出場:2003年8月19日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、6番・二塁手として先発出場 ※史上388人目
- 1000本安打:2005年8月30日、対広島東洋カープ14回戦(平塚球場)、4回裏に大竹寛から右前安打 ※史上237人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:3回(1993年、2004年、2005年)
背番号
- 0(1990年 - 1991年)
- 1(1992年 - 1997年)
- 49(1998年 - 2001年途中)
- 12(2001年途中 - 2003年)
- 3(2004年 - 2007年)
- 2(2008年)
- 81(2010年 - 2011年)
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関連情報
出演番組
- 解説者転身後
- 侍スタジアム(2009年)
- 燃えドラ!スタジアム(スターキャット・ケーブルネットワーク)(2009年 ‐ 不定期出演)
- 中井正広のブラックバラエティ(2009年7月 ‐ ゲスト出演)
脚注
関連項目
外部リンク
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