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柳田殖生

日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから

柳田殖生
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柳田 殖生(やなぎだ しげお、1982年3月31日 - )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者。

概要 横浜DeNAベイスターズ 野手コーチ #85, 基本情報 ...
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経歴

要約
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プロ入り前

1999年福知山商高(現・福知山成美高)が甲子園に初出場した時の4番ショート[1]。その時は2回戦まで進出した。 卒業後は社会人野球のデュプロへ入社したが、1年で退部して野球を諦めアルバイト生活を送っていた[2]

1年半のあいだ瓦屋として働いていたが、周りに説得されて野球の道に戻り、2003年NOMO Baseball Clubに入団[2]2005年のクラブ選手権で優勝した。都市対抗は1回戦で敗退。

2005年11月18日に行われた大学・社会人ドラフト会議では、中日ドラゴンズから5巡目で指名され、入団[2]。本クラブ出身選手としては初めてのプロ野球選手になった。

中日時代

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中日時代(2013年3月6日、阪神甲子園球場)
2006年
ルーキーイヤーは一軍出場なしに終わったが、二軍では遊撃手としてチームトップの57試合に起用され、将来のレギュラー候補と期待された。
2007年
6月20日の対オリックス・バファローズ戦で、代走として一軍初出場を果たす。6月23日、対福岡ソフトバンクホークス戦で、8番・三塁手で初めてスタメン出場し、第1打席でプロ初安打を、第2打席ではプロ初本塁打をそれぞれ杉内俊哉より放った。
2008年
内野のレギュラーが固定されていたため一軍出場なしに終わったが、二軍では内野の全ポジションで起用された。
2009年
過去3年間2割台前半だった打撃が成長し、二軍でリーグ2位(チームトップ)の打率.325、リーグ3位の出塁率.403を記録した。
2010年
二軍で100試合に出場し、打率.270、出塁率.353に終わる。また4年連続で内野の全ポジションを守った。
2011年
二軍では主に4番で出場し、自身初タイトルの首位打者となる打率.319を記録し[3]ウエスタン・リーグ優勝に貢献、なお2位は同僚の中田亮二で、最終戦まで抜きつ抜かれつの僅差であった。しかし、ジョエル・グスマン佐伯貴弘らがいたために、この年も一軍での出場機会に恵まれなかった。
2012年
高木守道新監督から「期待の選手」として名前を挙げられ[4]、昨年までの実績を買われてシーズンの多くを一軍で過ごした。5年ぶりの適時打[5]や、好走塁でサヨナラのホームを踏むなど[6]過去最高の成績を残した。8月2日の東京ドームでの読売ジャイアンツ戦では、勝ち越しとなる押し出し死球を受けてお立ち台に登った[7]
2013年
一軍で24試合に出場したが、10月28日に球団から戦力外通告を受けた[8]
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DeNA時代(2014年9月15日 横浜スタジアム)

DeNA時代

2013年11月10日に横浜DeNAベイスターズが獲得する事が発表された[9]

2014年
オープン戦での打撃好調と内野守備のユーティリティ性を買われ開幕一軍入りを果たす[10]。5月29日のソフトバンク戦では欠場した石川雄洋に代わり2番・二塁で先発出場し、7年ぶりの本塁打を含む5打数4安打2打点と活躍[11]。自身初の猛打賞を記録した。この年はほぼ全ての面で自己最高の成績を残し、キャリアハイの74試合に出場した。遊撃手や三塁手として先発出場することもあった[12]
2015年
7月14日の巨人戦では代打で同点適時二塁打を放つと、その次の打席でも二点適時打を放つ活躍を見せ[13]、お立ち台に登った。だがシーズンを通しては24試合の出場で打率.209、3失策と打撃でも守備でも粗い面が目立った。
2016年
開幕一軍ベンチ入りし、主に代打、守備固めで起用されるも安打1本のみの打率.048と活躍することはできなかった。7月3日にシーズン二度目の二軍落ちをし、以後の昇格は無かった。10月2日、球団より戦力外通告を受け[14]、その後現役引退を表明した[15]。12月2日、自由契約公示された[16]

現役引退後

2017年はDeNAの球団職員に転身し、編成業務に就いた[17]。10月2日にDeNAのコーチ契約締結が発表された[18]11月25日から台湾で開催される2017アジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の打撃コーチを務める[19]

2017年11月6日、2018年はDeNAの二軍打撃コーチを務めることが発表された[20]

2019年は二軍打撃兼内野守備コーチを務めた[21]

2020年は二軍内野守備走塁コーチ専任となった[22]

2021年から2022年までは二軍守備走塁コーチを務めたが、実際は外野守備を担当[23]。現役時代は外野手としての経験はほとんどなかったが、指導力や選手と向き合う姿勢などを買われ、同コーチ就任を打診された[23][24]

2023年は二軍外野守備走塁コーチを務めた[25]

2024年は再び二軍内野守備走塁コーチを務めた[26]

2025年からは田代富雄大村巌石井琢朗鈴木尚典の4コーチと共に役職が一軍・二軍の区別のない野手コーチに変更となった[27][28]

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人物

クラブチーム時代は堺市にある株式会社コアー建築工房で朝8時から建築現場でアルバイト、夜7時からNOMO Baseball Clubで毎日野球をしていた。

入団会見には婚約者同伴で臨んだ。

遊撃手を中心に内野ならどこでも守れる器用さから、懸念問題とされていた「ポスト渡邉博幸」の筆頭と期待され、本人の目指すところも同じと語っていた。その後、ウエスタンリーグの打撃トップ10に名を連ねるなど打撃面での注目度も高かった。

プロ入り2年目の2007年のシーズンで周囲に指摘されるまで、デッドボールのことを「ゼットボール」と勘違いしていた。

詳細情報

年度別打撃成績

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年度別守備成績

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記録

初記録

背番号

  • 53(2006年 - 2013年)
  • 36(2014年 - 2016年)
  • 85(2018年 - )

登場曲

代表歴

脚注

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関連項目

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外部リンク

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