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永池恭男
日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから
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永池 恭男(ながいけ やすお、1973年10月5日 - )は、福岡県春日市出身の元プロ野球選手(内野手)、コーチ。右投右打。1998年から2000年までの登録名は「永池 們多」(ながいけ もんた)。
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来歴・人物

福岡工大付高では2年夏に県大会準優勝、3年夏は同ベスト8[1]。通算20本塁打を放ち、ドラフト2位で1992年、横浜大洋ホエールズに入団。
1993年7月18日、対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)でプロ初出場。
1997年オフ、阿波野秀幸とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍。
1998年、自身最多の65試合に出場。
1999年8月4日、対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で、河端龍からプロ初本塁打を放った。
2002年オフ、小野仁と共に吉川元浩、中濱裕之とのトレードで大阪近鉄バファローズへ移籍。
2004年9月27日、シーズン最終戦となった対オリックス戦では、8回表に横浜時代の同僚だった戸叶尚から左前安打を放ち、これが近鉄球団最後の安打となった。3日後の9月30日には藤井寺球場での最終試合となるウエスタン・リーグ優勝決定戦(対中日ドラゴンズ)に出場したが、チームは6-12で敗れ、永池は9回裏2死で翌年から同僚となる小山伸一郎の前に三飛に倒れ、近鉄球団最後の公式試合の最終打者となった。10月6日に球団合併による分配ドラフトを前に戦力外通告を受ける[2]が、東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得。
2006年、出場機会はゼロに終わり、シーズン終了直前に戦力外通告を受け、打診されていた二軍育成コーチ(野手担当)に就任した。
2008年からは二軍内野守備走塁コーチを務め、2010年5月11日からは福原峰夫の後任として一軍内野守備走塁コーチとなる[3]が、2011年5月15日に再び育成コーチ(野手担当)に配置転換となった[4]。
2011年シーズン終了後に退任し[5]、2012年からはプロスカウト(スコアラー)を務めた[6]。
2015年に一軍内野守備走塁コーチとして現場復帰。一塁ベースコーチも務めたが、この年限りで退団した。
同年10月30日、2016年から二軍内野守備走塁コーチとして横浜DeNAベイスターズに19年ぶりに復帰することが発表された[7]。2017年も同コーチを務め、2018年から2021年までは一軍内野守備走塁コーチを担当[8]。2022年は二軍守備走塁コーチに配置転換された[9]。同年8月12日、一軍の内野守備走塁コーチの田中浩康が新型コロナウィルスの陽性判定を受けたため、8月18日まで一軍で代役を務めた[10]。2023年からは二軍内野守備走塁コーチに役職名が変更となり[11]、同年限りで退任[12]、球団スタッフへと転任した[13]。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
- 初記録
- 初出場:1993年7月18日、対阪神タイガース15回戦(阪神甲子園球場)、9回表に畠山準の代走として出場
- 初安打:1993年8月25日、対中日ドラゴンズ22回戦(横浜スタジアム)、5回裏に森山良二の代打として出場、山本昌から
- 初先発出場:1993年8月31日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム)、2番・遊撃手として先発出場
- 初打点:1993年10月20日、対中日ドラゴンズ25回戦(横浜スタジアム)、4回裏に佐々木健一から内野ゴロの間に記録
- 初盗塁:1994年6月21日、対中日ドラゴンズ11回戦(ナゴヤ球場)、9回表に二盗(投手:松永幸男、捕手:中村武志)
- 初本塁打:1999年8月4日、対ヤクルトスワローズ16回戦(明治神宮野球場)、 9回表に木村龍治の代打として出場、河端龍から左越3ラン
背番号
- 55(1992年 - 1997年)
- 62(1998年)
- 32(1999年 - 2002年)
- 37(2003年 - 2006年)
- 89(2007年 - 2011年)
- 73(2015年)
- 88(2016年 - 2023年)
登録名
- 永池 恭男(ながいけ やすお、1992年 - 1997年、2001年 - 2006年)
- 永池 們多(ながいけ もんた、1998年 - 2000年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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