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碑衾町

東京府荏原郡にあった町 ウィキペディアから

碑衾町map
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碑衾町(ひぶすままち)は、東京府荏原郡にかつて存在した町である。現在の目黒区の南部に位置していた。町名の由来は文谷と。おおむね東急東横線の沿線にあたる。

概要 ひぶすままち 碑衾町, 廃止日 ...

沿革

  • 1889年明治22年)5月1日 - 町村制の施行に伴い、碑文谷村の全域と衾村の一部(残部は玉川村に編入)が合併して碑衾村が発足。
  • 1923年大正12年) - 関東大震災により東京市方面からの移住者が急増する[1]
  • 1926年(大正15年)12月17日 - 鉄筋コンクリート2階建ての新庁舎竣工[2]
  • 1927年昭和2年)4月1日 - 碑衾村が町制施行して碑衾町となる。
  • 1931年(昭和6年)4月1日 - 碑衾が難読であることを理由に、町名を公募で決めた「朝日町」に改名する予定であった[3]が、東京市への編入が現実味を帯びてきたため、立ち消えとなっている。
  • 1932年(昭和7年)6月16日 - 大字衾の一部から大字自由ヶ丘が成立。
  • 1932年(昭和7年)9月10日 - 大字碑文谷の一部から大字鷹番、三谷、本郷が成立。
  • 1932年(昭和7年)10月1日 - 荏原郡全域が東京市に編入。碑衾町の区域は目黒区となる。
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歴代村長・町長

合併し消滅

経済

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碑衾町の航空写真(1932年)
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大岡山の商店街(1932年)

産業

農業

『大日本篤農家名鑑』によれば、碑衾村の篤農家は栗山、河原、井上などがいた[5]。『日本紳士録』によれば、農業を営む人物は栗山、小杉などがいた[6][7]

商工業
  • 栗山銀右衛門(漬物商)[6]
  • 小杉慶壽(白米商)[7]

交通

鉄道

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碑文谷駅(1932年)

道路

いずれも現在の呼称。

名所・旧跡

地域

  • 大字碑文谷
    • 字東原、金杉原、月光原、向原、池ノ上、谷頭、六畒割、唐ヶ崎、鷹番、五本木前、馬引沢境、北三谷、三谷、田向、門前、東池ノ下、法界塚下、金杉下、十羅刹下、下山、中丸、池ノ谷、南原、、大門東、寺前、子ノ神、子ノ神前、三合塚、道京塚、宮ノ久保、安藤山、上ノ台、本郷後、本郷、本郷前、寺西、池ノ下、殿山、西ノ前
  • 大字
    • 大岡山、平北大岡山、平鉄飛、平前、平南原、平北原、平稲荷丸、柿ノ木坂南、東三谷、東柿ノ木坂北、東下通、東寺山、東上原、東天沼、東中通、東谷戸、東曽根、東中丸、東中原、東下原、東下芳窪、東上芳窪、東大原、東梶屋敷、東池淵、東前原、東水窪、中宮ヶ谷、中化坂、中一ッ木、中宮前、中根西、中坂口、中寺前、中本村、中寺郷、中関根、中里、谷上台、谷畑東、谷畑中、谷東前、谷畑西、谷灰野良、谷山野、谷鷺草、谷權現前、谷向下、谷畑下、谷二枚橋、谷石川端

現在の地名

大岡山柿の木坂自由が丘洗足平町鷹番中根原町東が丘碑文谷緑が丘目黒本町八雲中央町一丁目(いずれも大体の範囲)

教育機関

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建設中の東京工業大学本館(1932年)
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洗足高等女学校(1932年)

出身・ゆかりのある人物

注釈

参考文献

関連項目

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