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良岑安世

785-830, 平安時代初期の公家 ウィキペディアから

良岑安世
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良岑 安世(よしみね の やすよ)は、平安時代初期の皇族公卿桓武天皇皇子官位正三位大納言従二位

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経歴

延暦21年12月(803年1月)になると、良岑朝臣姓を賜与されて臣籍降下する。

平城朝において衛士大尉右近衛将監を歴任し、大同4年(809年嵯峨天皇即位後に、従五位下・右近衛少将に叙任される。武芸に優れたことから武官を歴任する一方で、大同5年(810年権右少弁次いで左少弁、弘仁2年(811年蔵人頭と側近として嵯峨天皇に仕えた。その後、弘仁3年(812年正五位下、弘仁5年(813年従四位下左衛門督と急速に昇進し、弘仁7年(816年)には32歳で、安世と同年齢で同じく天皇の側近であった藤原三守と共に参議に任ぜられ公卿に列した。弘仁12年(821年従三位中納言。嵯峨朝では『日本後紀』『内裏式』の編纂に参画したほか、『経国集』の編纂を主宰している。また、弘仁13年(822年)には以下を上疏し許されている。

  • 河内国では諸家の荘園が方々に点在し、土人(河内国を本貫とする者)は少なく、京戸が多くを占めている。そこで、京戸・土人を問わず、田1町を営む者は正税30束を出挙することとした[1]

弘仁14年(823年淳和天皇の即位に伴って正三位右近衛大将に叙任し、皇太子・正良親王(のち仁明天皇)の春宮大夫も兼ねる。天長元年(824年)守・介の任期を4年から6年に延長したほか、諸公卿の提言を入れて国司に関する新たな制度が定められているが、このうち以下については安世の提言が採用されている[2]

  • 優秀な国守に複数の国を兼任させ、属僚を推挙させること[3]
  • 国司が推挙する優秀な郡領叙位すること[4]

天長5年(828年大納言に至るが、天長7年(830年)7月6日薨去享年46。最終官位は大納言正三位右近衛大将。没後、従二位が追贈され、嵯峨上皇はその死を悼んで挽歌2篇を詠んだという。

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人物

若い頃から狩猟を好んで、騎射を能くした。一方で書物の読解も得意とし、始めて孝経を読んだ際、儒教の教えここに極まると嘆息したという。また、歌舞音曲など多くの伎芸も身に付けていたとされ、天長2年(825年)の嵯峨上皇の40歳を祝う宴では、中納言という高官ながら冷然院正殿の南階から降りて舞を踊ったという[5]

漢詩に優れ、作品が『凌雲集』に2首、『文華秀麗集』に4首、『経国集』に9首が入集している。また、空海との親交でも知られ『性霊集』には安世に贈られた詩が多数収められている。

官歴

注記のないものは『日本後紀』による。

系譜

脚注

参考文献

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