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辻新次

日本の官僚・教育者 ウィキペディアから

辻新次
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辻 新次(つじ しんじ、天保13年1月9日1842年2月18日) - 大正4年(1915年11月30日)は明治時代の日本の文部官僚。旧松本藩士男爵は信松。

概要 生年月日, 出生地 ...

信濃国松本出身。1866年(慶応2年)に開成所化学教授手伝並となり、明治に入ってからは大学助教、次いで大学南校校長となった。また1871年(明治4年)の文部省出仕以降は、学制取調掛、学校課長、地方学務局長、普通学務局長、初代文部次官を歴任。明治前半期のほとんどの教育制度策定にかかわったため、「文部省の辻か、辻の文部省か」と言われ[2]、また「教育社会の第一の元老」、「明治教育界の元勲」などと評された。この間、明六社会員となり、大日本教育会(後に帝国教育会)、仏学会伊学協会の各会長にも就任している。1892年(明治25年)の文部省退官後は貴族院勅選議員高等教育会議議員、教育調査会委員に選ばれたほか、仁寿生命保険諏訪電気伊那電車軌道の社長を務めた。

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生涯

要約
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松本藩医(小姓格、15石)の辻大渕介如水の次男として、松本城下に生まれる。幼名は鼎吉。後に理之助・新次郎・新次と改名した。12歳から藩校崇教館朱子学を学び、後に蘭学を学んだ。崇教館での成績は抜群であったといわれる。その後、江戸に出て苦学しながら蘭学・英学西洋兵学を学び、また幕府の蕃書調所精錬所(のち化学局)に入って大砲の鋳造や火薬製造学も学んだ。1863年(文久3年)、22歳で開成所東京大学の源流)精錬方世話心得となる。辻は当初軍人志望であり、西洋兵学を実戦で試す絶好の機会として、1864年(元治元年)、藩に無断で幕府の武田耕雲齋討伐軍に加わったが(天狗党の乱)、藩に呼び戻されて譴責を受けた。

その後、再び江戸に上り、開成所に復帰したが、火薬製造中の事故で負傷。それ以降、教育家になることを決心し、フランス学の研究に邁進した。1866年(慶応2年)に開成所化学教授手伝並となり、下谷練塀町(現秋葉原)で仏学塾を経営。この私塾の教え子の中には、後に近代土木界の最高権威となる古市公威がいた[3]明治維新後は、新政府により開成学校の教授試補に登用された。

文部官僚時代

1871年(明治4年)、文部省設置に伴い文部権少丞兼大助教となり、以後20年以上に渡って文部行政に従事することになる。同年12月には、文部卿大木喬任により学制取調掛に任命され、箕作麟祥のもとで学制の起草にあたった[4]。学制公布後は、第一大学区大学設立掛に任命され、大学南校(現東京大学)校長、東京外国語学校(現東京外国語大学)校長事務取扱なども兼任し、教育行政に尽力した。大学南校校長時代のエピソードは『大学々生溯源』に詳しい。

1877年(明治10年)1月、文部権大書記官に就任し、東京大学の設立に従事したほか、文部大輔・田中不二麿のもとで教育令の制定に参画した。また、同年6月に鈴木唯一佐沢太郎らと汎愛社を設立し、『教育新誌』を発行。この時期から大日本教育会結成に向けて動き始める。1878年(明治11年)9月からは太政官大書記官も兼任し、教育令原案が元老院の議に上ると、委員として教育令成立に貢献。1880年(明治13年)には教則取調掛長に任命され、教育令改正にも従事した。

教育令改正後の1881年(明治14年)には、商法講習所(現一橋大学)の存続を助けている。東京府会で商法講習所の廃止が決議された2日後の7月28日、文部省地方学務局長として東京府知事松田道之宛に講習所存置の希望を申し入れ、その数日後、松田府知事から農商務卿河野敏鎌宛に補助金下付の要望書が提出され、農商務省が支援することで、商法講習所の存続が決まった[5]

1885年(明治18年)12月に内閣制度が発足し、森有礼が初代文部大臣に就任すると、辻は大臣官房長兼学務局長となり、翌1886年(明治19年)3月には次官職の新設により初代文部次官に就任した。文部官僚のトップとして、帝国大学令師範学校令中学校令等の公布に携わり、高等中学校候補地選定のための巡視も行なっている[6]

また同年(1886年)には、帝国大学工科大学初代学長に就任した古市公威らと5月に仏学会(日仏協会の前身)、11月に東京仏学校(後に東京法学校と合併して法政大学の前身となる)を設立し、仏学会の初代会長にも就任している[7]

1890年(明治23年)に第1回帝国議会が開設されると、教育予算削減のため、高等中学校その他12学校の廃止論や内務省との合併による文部省廃止論などが唱えられたが、辻は帝国議会において文部省所管政府委員として矢面に立って防戦し、教育予算の削減を最小限にとどめさせた。

文部省退官後

1892年(明治25年)に文部省を退官した後は、伊藤博文が創設した東京女学館の初代館長に就任し、1894年(明治27年)には教員の遺族を救済する目的で、生命保険を取り扱う仁寿生命(後に野村生命と合併して東京生命保険となる)の初代社長に就任した。

1896年(明治29年)に貴族院議員に勅選され、1897年(明治30年)以降は高等教育会議議員、教育調査会委員なども歴任し、教育擁護の立場からたびたび意見を提案した。また、大日本教育会の国家教育社(伊沢修二が創設)併合による帝国教育会への改編に際し、会長職を貴族院議長近衛篤麿に譲ったが、1898年(明治31年)の近衛会長辞職後に後任会長選挙が暗礁に乗り上げたため、役員達の懇願を受けて辻は再び会長職に就いた。以後1915年(大正4年)に死去するまで帝国教育会の会長を務め続け、教育改革に尽力した。辻の大日本教育会・帝国教育会の会長在職年数は実に約27年、会長経験者のうち在職年数はトップである。墓所は染井霊園

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人物

要約
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辻新次

世評

辻は、その教育界への影響力から様々に評された。

  • 性格は、穏和・円満・寛大・親切・勤勉・忠実とされ、
  • 「藤蔓」(藤のつるのように堅く忍耐強いという意味)
  • 「平均八合」(私心なく公明正大であるという意味)
  • 「文部省の生き字引」
  • 「教育社会の第一の元老」
  • 「明治教育界の元勲」
  • 「平凡なる巨人」
  • 森有礼文相からは「良き女房役」と評された。
  • 蕃書調所以来の文部行政との関係では加藤弘之とも比較され、浜尾新久保田譲と共に「属吏の大成した巨人」といわれた。
  • 石川半山は『当世人物評』(1902年)の中で、「事務官としては彼れに匹敵すべき者を見ない」[8]の奥付は曽根松太郎を著者としているが、巻首題の下には「石川半山」の署名があり[9]、「事務家の内、辻新次君が其の功績の最も偉大なる人で有ることも、恐らくは何人も疑ひを容れない所で有らう。」[10]と書き、「理想的事務官」[11]と評している。

顕彰

逸話

  • 若き日に苦学して最も困窮していた時、後に妻となる女性(さと)から恩恵を受けた。小泉長三の短編小説・『出世の縁結』は、この話を基にしている[12]
  • 文部省普通学務局長時代、唱歌「螢」(「蛍の光」)の3番にある「わかるゝみちに かはるとも かはらぬこゝろ ゆきかよひ」は男女間の恋心をうたう詞で、日本の児童教育には適切ではないと意見を付し、「うみやまとほく へだつとも そのまごゝろは へだてなく」に変更された[13]
  • 在職時代一度も外遊をせず、私財を投げ打って寄付し続けた。
  • 大日本教育会・帝国教育会に寄付した金品は、他の追随を許さないほどの額であった[14]。さらに故郷の信濃国分寺に多額の寄付をしており、信濃国分寺の垣根の石柱に辻が金一万疋を寄贈したことが刻まれている。また長野県上田市の吉田神社には直筆の墨跡碑が残されている。
  • 目黒不動にある「昆陽青木先生碑銘」(青木昆陽碑)の篆額を担当している。撰文は国語学者の大槻文彦、揮毫は「明治三筆」の野村素介、碑陰記は西脇呉石が担当。その他、榎本武揚新渡戸稲造ら各界の名士が名を連ねている。
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家族・親族

  • 妻・さとは、幕臣・岩波小左衛門信義の三女[15]である。
  • 長男・辻太郎は、貴族院議員(男爵・公正会所属)で、第62・63回帝国議会において徳川家達貴族院議長のもとで常任委員長(決算委員長)を務めた。
  • 次女・信は、第一銀行副支配人の野口弥三と結婚し、日本芸術院会員の洋画家・野口弥太郎を生んでいる。
  • 祖父の兄・幕臣定火消役与力辻丈之進が当主であった牛込市ヶ谷の辻家には、新次が江戸に上った際に世話になっている。

年表

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栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許
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脚注

参考文献

関連文献

外部リンク

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