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香川京子

日本の女優 (1931-) ウィキペディアから

香川京子
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香川 京子(かがわ きょうこ[3]1931年昭和6年〉12月5日[出典 1] - )は、日本女優。本名は、牧野 香子まきの きょうこ茨城県[4]行方郡麻生町(現行方市)生まれ。東京都立第十高等女学校卒業[1]。身長162 cm、体重45 kg[7]

概要 かがわ きょうこ 香川 京子, 本名 ...
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来歴・人物

要約
視点

茨城県行方郡麻生町(現・行方市)で生まれる。生まれてすぐに父親の仕事の都合で兵庫県の芦屋へ移る。

小学校に入る1年前に東京に戻るも、女学校に上がった1944年に空襲を避けるため、茨城県の下館に疎開。間もなく母親が麻生町に疎開したため、自らも麻生町に戻る。

女学校時代は勤労奉仕ばかりで、勉強することはあまりなかった。

1945年に東京に移り住む。

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1949年

1949年東京都立第十高等女学校を卒業。東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」で 約6000名の中から合格し、新東宝へ入社する[1][5]。女学校卒業時に漠然と将来を考えた際に、当初は英語の勉強をしたいと考えていたが家庭の事情で断念。『白鳥の湖』を観賞してバレリーナになりたいと考えるも、専門家から、目指すには遅すぎると指摘され、どうしようか考えあぐねている時に新聞のニューフェイス募集記事が目に止まって応募したという。一般会社の入社試験も同時進行で受けており、最終面接とニューフェイスのカメラテストでの最終試験が重なってしまうが、母の助言もあり、女優の道に進むことになる。

同年、映画『帰国』でデビュー[5]

芸名は映画会社で用意されていたものがしっくり来ず、家族と自身で考えたもの。本名の「香」と言う文字はどうしても用いたく、「きょうこ」という音も用いられるために決定したという。

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1954年
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『サンケイグラフ』1954年9月5日号より

映画会社専属が当たり前だった時代だが、大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになった[1][8]おかげで、各映画会社の黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演する[9]。本人は「個性のない普通の雰囲気が使いやすかったのだと思う」と謙遜して答えている[要出典]

ひめゆりの塔』への出演が転機になったようで、女優としての意義を意識するようになった。監督の今井正からは役作りのために役になりきってひめゆり学徒隊に志願した理由を書く作文を書かされ、とても勉強になったと述べている[10]

続いて成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、さわやかな演技で人気女優となる。

溝口健二監督の『近松物語』ではヒロインを演じ、初の人妻を演じる。当時は未婚であったため、溝口監督独特の演技指導しない演出も重なって、既婚者の動作が中々演じられなかったという。本人の思い出に残る作品であり、監督に「芝居は相手の言葉や動きに反射してでてくる。反射して下さい」と言われ[11]、「できるまでやらされ死ぬほどつらかったが、芝居の基本を教えてもらいありがたかった」と振り返っている[1][11]

黒澤明監督の作品にも多く出演し、黒澤作品の看板役者であった三船敏郎の恋人役や妻役を演じることが多かった[注釈 2]。黒澤作品において、三船とは9回の共演回数を誇る[注釈 3]。特に思い出深い作品は『悪い奴ほどよく眠る』であるという。

モスラ』(1961年)で共演した小泉博は、香川について明るく知的で、お嬢さん役として素晴らしいという定評であったと証言している[13]。東宝の照明技師であった高島利雄は、現場で一緒に撮った写真をわざわざ送ってくれるなど、気さくな人物であったと述懐している[14]

1963年、読売新聞記者の牧野拓司と結婚[15]

1965年、『赤ひげ』に出演して以降、出産を経験。夫の海外赴任先であるニューヨークへ同行し、映画の世界を3年ほど離れることになる[注釈 4]。ニューヨーク在住時には1965年北アメリカ大停電を経験している。

1968年に帰国。 映画が斜陽になり、テレビドラマ・舞台へも活動の場を広げる。

テレビドラマでは石井ふく子橋田寿賀子両者の作品に多く出演した。

1998年には紫綬褒章2004年には旭日小綬章をそれぞれ受賞した。

映画撮影時の記念アルバムなどの資料は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、展示室で公開されている。そうした映画保存活動への貢献が評価され、2011年10月24日に第24回東京国際映画祭の会場で日本人・アジアの映画女優として初となるFIAF賞(国際フィルム・アーカイヴ連盟賞)が授与された[16][2]。FIAF賞受賞記念として、映画祭で、「香川京子と巨匠たち」として9作品特集上映され、また、東京国立近代美術館フィルムセンターで、「映画女優 香川京子」として45作品特集上映され、企画展示室にて「映画女優 香川京子」展として特別展示された[2]

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エピソード

出演作品でのエピソード

  • 小津安二郎監督の『東京物語』では、小津作品に出演できる嬉しさより、大ファンだった原節子と共演できる喜びの方が大きかったという。原の人気は凄まじく、尾道でのロケ日にはロケ地である尾道駅に人が殺到していたそうである[17]
  • 溝口健二監督の『近松物語』では、当初、南田洋子が演じた役を演じる予定だったが『山椒大夫』での演技力から、ヒロインの人妻・おさん役に抜てきされたという[18][19]。京都の言葉や着物で歩くことや人妻役も初めてで、「当時は何も分からないでおさん役をやることになった」と語っている[18]。また、母親役の浪花千栄子京言葉の指導を受けたり、衣裳部から着物を借りて旅館で歩く練習もしたと振り返っている[19]
  • 黒澤明監督の『悪い奴ほどよく眠る』では、撮影中に車から降りるシーンで、シートベルトをしておらず誤って車がブレーキをかけて止まった反動で、フロントガラスに頭から突っ込んでしまい、顔を何針も縫うほどの大怪我を負ってしまった。傷も大きかったので、香川は「もう女優の仕事はダメかもしれない」と引退を本気で覚悟したという。このとき香川が運ばれた病院にマスコミが集まってくるが、三船敏郎が香川の病室のドアの前に立ち、すべての取材を断ったという[20]
  • 40代後半から50代にかけて、個性のない母親役を演じる事が多くなり、一時期女優をやめようか悩んでいた事もあった。しかし、熊井啓監督の『式部物語』で初めて老女の役を演じた事が転機となり、自分に迷いがなくなり再び楽しい気持ちで仕事に向き合えるようになったという[21]
  • 石井ふく子とは新東宝時代からの長年の親友(石井が2年先輩[22])で、プライベートではよく2人で旅行もした[23]。また、石井がプロデューサーとして初めて手掛けたテレビドラマ『橋づくし』で香川に出演を依頼した際には、五社協定がある中で所属先の映画会社と喧嘩してまで同作に出てくれたという[24]

その他

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出演

映画

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『東京のヒロイン』(1950年)
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東京物語』(1953年)
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香川とヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞のトロフィー(1954年9月、受賞作品は『山椒大夫』)
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『女囚と共に』(1956年)
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森と湖のまつり』(1958年)
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『つづり方兄妹』(1958年)
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悪い奴ほどよく眠る』(1960年)

テレビドラマ

舞台

  • 「おんな太閤記」より 旦那さま大事

テレビ番組

ラジオ

朗読

CM

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ディスコグラフィー

シングル

著書

  • 『ひめゆりたちの祈り 沖縄のメッセージ』(1992年、朝日新聞社)のち文庫
    • 『ひめゆりたちの祈り 沖縄のメッセージ』(1993年、朝日新聞社〈朝日文庫〉)
  • 『愛すればこそ スクリーンの向こうから』勝田友巳 編(2008年、毎日新聞社
  • 『凛たる人生 映画女優香川京子』香川京子 述, 立花珠樹著. (2018年、ワイズ出版

関連書籍

受賞歴

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脚注

参考文献

外部リンク

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