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高英傑
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高 英傑(こう えいけつ、カオ・インチェ、Ying-Chieh Kuo, 1955年10月20日[1] - )は、台湾の嘉義県嘉義市出身の元プロ野球選手(投手、外野手)。左投左打。
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来歴・人物
台湾の東亜高工(現・東呉工家)、台北体専、空軍を経て、李来発と共に1980年に練習生として合作金庫から南海ホークスに入団。
李ともども、台湾球界では幼少時より活躍し、当時左腕投手が欠乏(1980年には高を含め4名しか在籍していなかった)していた南海では貴重な左の速球投手で、主にカーブ、シュート、フォークボール、チェンジアップを武器としていた。打者としても台湾球界では「王貞治二世」の異名をとった強打者であった。日本入り当初は豪速球を投げる左腕と噂されたものの、制球力を向上させるためにノーワインドアップにフォームを改造したところ、持ち味の荒々しさがなくなってしまった。当時は外国人枠が一軍登録2名以内と現在よりも厳しく、なかなか一軍昇格の機会は訪れなかったが、7月に王天上が退団・帰国すると、代わって支配下登録され、早速一軍入りを果たした。
同年は6試合に登板し(うち先発登板は3試合)、3勝1敗の成績を挙げた。なお、その年南海の左腕投手があげたのは合計5勝のみであった。
1981年には1試合に登板したが、シーズン途中で肩を故障し、打者に転向。早速一軍でも30試合に出場し、打率.180ながら日本での唯一の本塁打を記録。1982年は31試合に出場し、打率.243、3打点。1983年はジム・ライトル、李と3人で2枠の外国人枠を争う形となったが、この年9試合で打率.083に終わり、オフに李共々退団し、帰国した。なお、この年ウエスタンリーグの打点王となる。
帰国後は指導者として活躍。ナショナルチームのコーチを務め、郭李建夫を指導し、李が監督を務めた1992年バルセロナオリンピックでの銀メダル獲得に貢献。その後もコーチとして活躍を続け、王建民を育てた。その後は台北市立体育学院の監督を務めた。
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詳細情報
年度別投手成績
年度別打撃成績
記録
- 初登板:1980年8月11日、対ロッテオリオンズ後期7回戦(川崎球場)、8回裏から4番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初勝利:1980年8月13日、対近鉄バファローズ後期3回戦(大阪球場)、5回表1死から2番手で救援登板・完了、4回2/3を4失点(自責点3)
- 初先発登板:1980年8月17日、対ロッテオリオンズ後期10回戦(大阪球場)、5回0/3を6失点(自責点5)で敗戦投手
- 初先発勝利・初完投勝利:1980年10月5日、対近鉄バファローズ後期12回戦(日本生命球場)、9回2失点
- 野手として初出場:1981年6月9日、対阪急ブレーブス前期6回戦(大阪球場)、8回裏に岩木哲の代打として出場
- 初打席・初安打・初打点:同上、関口朋幸から適時打
- 初先発出場:1981年6月19日、対日本ハムファイターズ前期12回戦(後楽園球場)、6番・左翼手で先発出場
- 初本塁打:1981年6月28日、対阪急ブレーブス前期11回戦(大阪球場)、2回裏に今井雄太郎からソロ
背番号
- 30 (1980年 - 1983年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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