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第一次国共内戦

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第一次国共内戦
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第一次国共内戦(だいいちじこっきょうないせん、第一次國共內戰[注釈 1])は、20世紀前半の中国で発生した国共内戦のうち、第一次国共合作の破綻を機に生じた1927年から1937年にかけての内戦を指す呼称である[1]第二次国共合作の成立によって終わったが、国共内戦自体は日本の降伏を機に再発した(第二次国共内戦)。旧国民政府、現在の中華民国政府はこの戦争を剿共(共産党を剿滅)、剿匪(匪賊を剿滅)と呼ぶ。

概要 第一次国共内戦, 交戦勢力 ...

なお、単に「国共内戦」と言う場合には、一般に1946年から1950年にかけての第二次国共内戦を指すことが多い[1]

中華人民共和国の公式見解によれば、1921年中国共産党成立から第一次国共合作を経て、1927年の国共分裂までを「第一次国内革命戦争」、第一次国共内戦を「第二次国内革命戦争」、または「土地革命戦争」、第二次国共内戦を「解放戦争」、「人民解放戦争」、または「第三次国内革命戦争」という[1]

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内戦までの経緯

要約
視点

五・四運動の影響

1915年、第一次世界大戦中に連合国の一国であった大日本帝国対華21ヶ条要求を北京政府に要求した。1917年にはロシア革命が起きた。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議で敗戦国のドイツ帝国から山東省権益が戦勝国・日本に譲渡されたのを受けて、五・四運動が盛り上がった。以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大した[2]

五・四運動は、孫文にも影響を与え、「聯蘇容共・労農扶助」へと方針を転換した[3]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした[3]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[3]

第一次国共合作

1918年、孫文はレーニンに働きかけ、ロシア共産党員の「苦闘に対する深い敬意」を表明し、中ソ両国の革命党員が「団結して共に闘う」ことを望んだ。[4]:273

1921年12月末、コミンテルン代表スネーフリートは張太雷に付き添われて桂林で孫文を訪問し、3回にわたって長時間会談した。[4]:275

1922年8月、ソ連政府は極秘にスネーフリートを通じて孫文と連絡を取り[5]:33、スネーフリートと李大釗が何度も孫文と会い、国民党の興隆について協議した。[5]:29

1923年1月17日から26日にかけて[6]:325、ソ連政府全権代表としてヨッフェが上海で孫文と会談し、月末に『孫文・ヨッフェ共同宣言』を発表した。そこでは孫文の「連ソ」政策を確立し、次の項目を盛り込んだ:[5]:33

  • ソ連は中国統一を支援する
  • ソ連は不平等条約を破棄し、新たに中ソ交渉を開始する
  • 中東鉄道問題は中ソ協議で現状維持とする
  • ソ連は外モンゴルの独立を求めず、ソ連軍の即時撤退も要求しない

1923年8月16日、孫文は「孫逸仙博士代表団」をソ連に派遣し、政治および軍事顧問を広州に招いて中国革命を支援させた[7][8]:130

同年末、蔣介石が孫逸仙博士代表団を率いて帰国し、ロシア遊学の感想を報告した。その中で「ソ連の『世界革命』の策略と目的は、西欧植民地主義よりも東洋民族独立運動にとって危険だ」と述べたのに対し、孫文は過度な懸念だと反論し、次のように述べた:[9]:28~30

共産党員を本党の指導下に統一的に組織すれば、階級闘争を阻止して国民革命を妨げることはない。北伐に勝利すれば三民主義は予定通り実現でき、その後は共産党が内乱を企てても無力だ。さらにソ連は本党を唯一の革命指導政党と認め、共産党員の入党を勧めながらも、中国での共産主義実現は否定していない。だから『連ソ容共』の方針を維持すべきだ。
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中国国民党第1回全国代表大会

1924年1月20日から30日まで広州で開かれた中国国民党第1回全国代表大会では[6]:340、孫文が開会演説で党の改組と革命・建国の道具化を強調した。[6]:343大会議長団は胡漢民汪兆銘林森李大釗、謝持の5人で構成され、ソ連顧問ボロディンも出席。大会決議で中共党員の個人入党を認める一方、三民主義順守と党綱党紀厳守を義務付けた。代表は百数十名、そのうち20名余が中共党員だった。[6]:347[5]:30

1924年1月下旬、中国国民党第1回全国代表大会が開かれた後、孫文は三民主義に多くの新意を付与した。しかしボロディンは依然として深い不満を抱き、報告にこう記した。「孫文は我々が国民党のために作成した革命綱領に同意し、意図的に我々に迎合した。しかし、我々と統一戦線を築くことを公にするのは認めなかった。そのため、彼は我々を完全には信頼していなかった」と。[10]:432一方、孫は第一次全国代表大会宣言にも満足せず、『国民政府建国大綱』を代わりの綱領にしようと考えた。ボロディンは強く反対し、孫文を説得しようとした。ボロディン自身の述懐によれば、彼は情熱を込めて孫文にこう諭した。「おまえは選択を迫られている。帝国主義陣営に属する1億5千万と共に進むのか、それとも帝国主義の圧迫を受ける12億5千万と共に進むのか。そろそろ決断すべきだ」と。延々と説得を続けるうち、孫文は異例に何度も頷いて同意を示した。[10]:475-476しかし「孫文はボロディンの多くの助言を受け入れたが、最終的にどうするかの決定権はあくまで彼にあり、二人の意見は常に一致したわけではなかった。時にはボロディンが孫文の考えを変えるのはほとんど不可能だと感じた」という[11]:288。ボロディンはやむなく認めざるを得なかった。「アメリカ精神が彼の頭の中に深く根付いている」[10]:383「一般に、孫文の考えを変えるのは難しい」[10]:567

1924年6月、鄧澤如ら11人が連名で孫文に上書し、中共を弾劾して中国国民党の改組に反対した。彼らは、中共が反帝・反軍閥の旗を掲げたことで中国国民党が「国際的な怨恨を買い」、国内の実力派の協力を断たれたと指摘した。孫文は「党綱は自分がボロディンに執筆を依頼したものだ」「疑心暗鬼に陥ってはならない」と諭し、「陳独秀ら中国の青年学生は自負心が強く、最初はロシア外交を独占し、我党とソ連の往来を阻止しようとした。彼らがロシアの援助を独占し、自党を対抗勢力として打ち立てた。もし我々が陳独秀を疑い、そのままソ連まで巻き込むなら、まさに陳独秀の策に嵌り、彼らの勢いを助長することになる。(陳独秀らが)党に従わなければ、私は彼らを切り捨てる」と述べた。[12]:35

一方で孫文は中共を国民党の路線に封じ込めようと努め、陳独秀が機関紙で幾度も自身の政策を批判したことを受け、スネーフリートに「共産党が国民党に加入した以上、党紀を守って国民党を公然と批判してはならない。従わない共産党員は除名する。もしソ連が中共を擁護するなら、ソ連にも対抗する」と語った。[13]松島宗衛の取材では「共産党が我党を撹乱する陰謀を持つなら、支援を断ち切り、民国の外へ一掃するだけだ」と断言し[14]:536、私的には劉成禺に「中共が我党の範囲に留まるなら容認する。留まらないなら処理方法を用意する」とも語った。[15]:224

国民党員が中共を弾劾した事件の後、孫文は抑えはしたが、断固として反対する態度は示さなかった。中共はこれを非常に不満に思い、孫文が国民党右派中国語版に敵意を向けたくないと見なした。[16]1924年7月、陳独秀はヴォイチンスキー宛の書簡でこう判断している。「今国民党を支持するということは、国民党の全ての機構を握る右派を支持するに過ぎない。孫文はすぐには我々を見限らないだろうが、反動派中国語版による我々への攻撃を止めようとは到底思っていない。我々は無条件かつ無制限に国民党を支持すべきではなく、左派が掌握する活動様式だけを支持すべきだ。さもなければ我々は敵を利し、反対派を利することになる」。その後まもなく、彼はヴォイチンスキーに宛てた別の書簡の中で次のように提案した。コミンテルンはボロディンに対し、孫文と接する際には十分慎重であるべきだと注意を促す必要がある。さもなければ、簡単に孫文の罠にかかってしまう[17][18]:84-85、119

孫文は共産主義について、マルクスを「社会病理学者」と見なしており、「社会生理学者」とは言えないと考えていた。彼は、マルクスが社会進化の問題点ばかりを見て、その原理を理解していないと批判した。[19]また、第一次国共合作の時期に広州大学で民生主義を講演した際、マルクス主義を批判し、「剰余価値」理論を否定した。[6]:350しかし孫文は、国民革命を成功させるにはコミンテルンの軍事支援とロシア共産党の党国体制が必要であると考えていた。[注 1]ただし、その軍事支援と党国体制の利用に限られ、中国を共産化する意図は持っていなかった。[23]孫文はこれについて、「私はソ連の体制の優れた点は活用できるし、その邪悪な面は切り捨てることができる」と宣言した。[24]:267-268孫文の死後、中山艦事件第三次上海暴動中国語版南京事件が発生した。特に南京事件は、コミンテルンが中国を共産化しようとしている意図を露呈させ、国民党によるその後の清党の伏線となった[25]

三民主義はレーニンとかのクズじゃなくて、ただ中国三千年にわたって漢民族が保ってきた「治国平天下」の理想を演繹しただけのもんだ。私は才能は高くないが、レーニンらのクズは受け入れない。それに共産主義なんて、中国古代が残した小さな理想に過ぎないだろ

—中国国民党総理の孫文( ある日本人との会話 1924年2月[26]より)

蔣介石の上海クーデターと国共合作の崩壊

孫文が北京で亡くなった後、ボロディンはこれが国民党右派を一掃し、左派が権力を掌握する絶好の機会だと考えた。[16]中国共産党中央委員会も各級党部に対し、ただちに党員を公募して左派の数を増やし、「中間派を圧迫して我々と協力させる」機会を狙い、後に開かれる国民党第二回代表大会で「右派と選挙で競合する」ことを目指すよう通知を出した。[27]:404共産党は孫文の「国民党左派」という身分をでっち上げ始め、晩年の少し左寄りの言論――1924年の海関関余問題や沙面ストライキ、商団事件での反帝宣言、北上時の軍閥制度廃止主張を重点的に宣伝して、彼を断固たる「国民党左派」として仕立て上げた。それまでの孫への批判はほとんど消え失せ、代わりに階級闘争精神をやたら讃える論調になった。さらに共産党は戴季陶ら国民党員と三民主義の解釈権を争い、「連ソ・連共・扶助工農ママ」が孫文晩年に発展させた「新三民主義中国語版」だと主張した[16]

南京事件の後、1927年4月6日、張作霖は北京で警察を動員し、ソ連大使館、極東銀行、中東鉄道事務所を捜索した。そこに潜んでいた中国人58名を逮捕し、その中には中国共産党の主要創設者の一人である李大釗も含まれていた。また、ソ連とコミンテルンが中国を共産化しようとした千余件の文書を押収して公表した。[28]

押収資料には、コミンテルンの大量の指令・訓令、転覆工作資料(馮玉祥との共同行動文書、紅銃会や農民扇動の記録、中国共産党文書など)、いわゆる「ソ連陰謀文証編」が含まれており、ソ連による中共への地下浸透活動や最近の街頭群众運動の状況が詳細に記されていた。[29]:42 その中に、当時の国民政府顧問ボロディン宛てのソ連共産党からの電報があり、「国民革命軍に中国を統一させてはならない」という指示が書かれていた。ソ連の狙いは北伐を利用して帝国主義諸国を牽制し、彼らが東方からソ連を攻撃できないようにすることだった。[30]:65 この事件を受けて中共とソ連は国民政府を非難し、両党の関係は緊張した

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斬首刑に処された共産党員

4月12日、蔣介石が上海で清党を引き起こした。汪兆銘が演説を行い、蔣介石の武力による排共を痛罵し、「反共はすなわち反革命だ」と表明した。蔣介石はそのまま南京国民政府を樹立し、これを寧漢分裂と呼ぶ。蔣介石は「清党」を命じ、国民党内の共産党員を一掃し、各地で大規模に中共関係者を逮捕した

5月中旬、李宗仁と朱培徳の調停で武漢と南京は戦闘を回避し、それぞれ北伐を継続することを決定した。月末、コミンテルンは中共の方針を変更し、工農を武装して新軍を結成し土地改革を行うと決議したが、中共は国民党内にとどまり、国民党および武漢国民政府を工農革命独裁機構に変えた。

同時に中共は湖南で流血を伴う土地改革を展開し、地主と闘争したため多くの国民党軍将校が不満を抱き、ついに何鍵と衝突した。何鍵や朱培徳らも排共を開始し、これを「馬日事変」と呼ぶ。事変中、中共および傾共民衆の死亡者は数百から千人余に達した。

7月13日、中共は宣言を発表し、武漢・広東の複雑な関係に鑑み、中共党員は国民党を離脱すべきだと表明した

7月15日、汪兆銘はソ連と中共の権力奪取計画を見破り、南京と平和的に分党することを決めた。緊急会議で『統一本党政策案』を可決し、国民政府や軍隊に所属する中共党員に直ちに中共離脱を宣言させ、宣言しない者は全職務を停止させると決めた

7月15日、汪兆銘率いる武漢国民政府は中共と分党した

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第一次国共内戦

要約
視点

中国共産党の武装蜂起の開始

1927年7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し国共合作の終了を宣言した。共産党は武力闘争を開始し、同年8月1日の南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返したが、国民党軍に鎮圧された。この時期の共産党が引き起こした武装闘争は、内戦と呼べるほどの規模の戦闘ではなく、局所的であり散発的であった。

国民政府主席に就任した蔣介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。1928年にはドイツ軍のマックス・バウアー大佐を招聘し、軍事顧問団を形成し、ドイツからの最新兵器を輸入する(中独合作を参照)。また国民党の北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒した。

南京国民政府でも反日世論が高まっていたが、蔣介石は日本との国力の差を考慮した上で国内統一による国力増強を最優先目標とし、反共主義の立場から、抗日政策より中国共産党との戦いを優先した。1930年2月 - 中国共産軍が瑞金江西省ソビエトを樹立し、5月に反蔣介石連合運動との内戦中原戦争が起こり、両軍合計100万の軍勢で30万の死傷者が出た[31]

7月27日、中原大戦の隙をねらって中国共産党軍が1万の兵力で長沙を占拠し、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した[32]。8月5日、中国中央軍が、紅軍から長沙を奪回、8月15日に閻馮軍から済南を奪回した。9月18日、張学良が蔣介石支持の態度を表明し、東北軍の関内進駐によって蔣介石軍が勝利し、蔣介石の勢力は強化された[31]

毛沢東ら中国共産党はソ連支援の下、農村を中心として支配領域を広げ、1931年11月7日に江西省に中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)を樹立した[32]

掃共戦と中独合作

蔣介石は共産党を「共匪」と呼び、1930年12月の第一次囲剿作戦から、5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開した[32]。1931年4月から5月まで第二次囲剿作戦、7月から9月まで第三次囲剿作戦を行うが、いずれも失敗した[32]。このときに軍事顧問団団長のゲオルク・ヴェッツェルが作戦助言をしていた。

1931年12月、25師73旅旅長董振堂、25師74旅旅長季振同らの指揮で、国民党軍の26路軍は、中共側に寝返り中国工農紅軍紅5軍団に改編された (寧都蜂起)[32][33]

5月、汪兆銘らが広東国民政府を樹立し、6月に 中村大尉事件、7月に 万宝山事件が起きた。9月に満洲事変が勃発。日本の関東軍満洲地域一帯を掌握した。1932年1月より2月にかけて、第一次上海事変が起き、3月1日に満洲国が建国された。これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蔣は抗日より中国共産党の掃討が大事として[34]掃討作戦を優先し、強化した。つまり蔣介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつ、共産党に対して激しい攻撃を加えた。

日本軍の動きによって、第四次掃共戦は同年5月へと延期され、すでに6月には15万の兵力で共産党中央部を包囲した。しかし共産党は遊撃戦を展開、1933年4月には蔣介石は撤退した。5月には、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェルの招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蔣介石の上級顧問となった。ゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蔣介石に進言し[35] 、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蔣介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになるが、しかし、蔣介石は対日戦よりも対共戦を優先させた。

1933年夏、ドイツ軍事顧問団も作戦に参加し、包囲網とトーチカ建造とを組み合わせた戦術を練る。10月16日、第五次掃共戦が開始。蔣介石は80万の兵力を投入し、またトーチカは3000個も築造された。

1934年1月22日、共産党は会議において、毛沢東の指導者辞任と張聞天の就任を決定。毛沢東の遊撃戦に代わって、ドイツ出身のソ連軍人で、コミンテルンからの指示で三年にわたって共産党を指揮していたオットー・ブラウンの提唱する陣地戦へと切り替えた。これは共産党軍も攻撃拠点にトーチカを設け、敵をトーチカから誘い出し、突撃する作戦で、短促突撃と名付けられた。

1933年10月16日、蔣介石は第五次囲剿作戦を開始、兵力80万で共産軍15万を攻撃した[36]。国民党軍は翌1934年4月28日、共産軍から広昌を、5月16日に建寧を8月31日に駅前[どこ?]を、10月に石城、興国を奪回し、共産党は壊滅寸前の状態に追い込まれた[36]。10月14日から中国共産党の長征が始まった。

1934年1月には、中国内のドイツ軍事産業を統括する「Handelsgesellschaft fur industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリンで設立され、同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任し[37]、ドイツ製武器を装備した二十個師団の形成、教導総隊、中央士官学校、陸軍大学校、化学戦学校、憲兵訓練学校、防空学校などを南京に設立していく。また同年4月、広昌の共産党トーチカは、蔣介石によって攻略され、共産党軍は4000人の戦死者を出す。

1934年8月23日、ハプロと中国との間で、対等条約である「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」が調印され、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と交換に中国産の軍需資源の提供を約束した。国民政府は、中国共産党との内戦で軍事費が増大して財政赤字が膨らんでおり、外国からの借款が難しい状況だったので、この物々交換は中国とドイツの双方に利益をもたらした。

同年10月14日、共産党軍は、瑞金から脱出したが、蔣介石に追撃され、共産党は65000の兵士を失い、35000兵までに減少した。第五次掃共戦は、国民党の圧勝であった。共産党は西部奥地ソ連国境に近い延安へ逃れた(共産党の言い方では長征)。

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長征

1936年2月17日、突然、中共軍が山西省内に侵入し3分の1を占領、国民革命軍中央軍7個師、商震軍2個師が派遣されると、5月5日に回師宣言(撤退)をして引き揚げた[38]。3月12日、ソ連が外蒙古と相互援助協定を締結、外蒙古との軍事同盟を固めた[38]。4月9日、張学良は、東北軍が中国共産軍よりも対日戦を望んでいたことを背景に周恩来と秘密会談を行い、中国内戦の停止に合意した[39]

西安事件 (1936年)

1936年12月7日、張学良蔣介石に対し、国共内戦を停止し対日戦に向かうことが救国となると勧告したが、蔣は張学良は共産党に惑わされていると一喝した[39]。12月12日、張学良の親衛隊が宿泊先を襲撃して蔣介石を拘束拉致した。西安に拘禁された蔣介石は国民党と共産党の再合作を迫られた[39]。蔣介石は共産党周恩来らとの会談で反共姿勢から抗日姿勢への転換を受諾した[39]。共産党の翻意で張学良は蔣介石に恭順して、12月26日に蔣介石と張学良が連立って南京に帰還したことで、西安事件は一旦は収まった。張学良が提案した内戦停止と一致抗日統一戦線結成は世論の支持を受け、蔣介石も無視できなくなった。それゆえ、1937年2月に開かれた中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議では、2月15日に赤化根絶決議を採択し[40]、日本側へコミンテルンとの連絡をやめない限りは共産党の存在は認めないと伝えた[40]。西安事件後を契機に壊滅寸前の共産党は、コミンテルンの方針もあり国民党との合作に活路を見つけようとした。しかしながら、国民党内の共産党不信は根強く合作の交渉を捗らなかった。4月12日、ソ連大使ボゴモロフが上海で国民政府に対し、英米仏など太平洋関係諸国と集団互助協定を締結するか、中ソ相互不可侵協定の締結を提案し、協定が締結されなくともソ連は5000万元の武器を供与できると提案した[40]

日中戦争と第二次国共合作

1937年、日中戦争(日本側の当時の呼称:支那事変)が勃発した。7月7日、北京郊外盧溝橋で日中両軍の小規模な衝突が発生した(盧溝橋事件)。共産党は発生の翌日全面交戦を呼掛けたが、現地で停戦協定が結ばれ(7月11日)戦火の拡大は防がれた。しかしながら軍事的な衝突はその後も各地で発生し、終には上海で日中両軍は航空戦を含む全面的な戦闘状態に入った(8月13日、第二次上海事変)。

日本軍との軍事的衝突の矢面に立たされた蔣介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結 (8月21日、同29日発表)と共産党の合法化で共産主義勢力との連携で難局を打開を試み、第二次国共合作に入った (1937年-1945年)。滞っていた共産党との交渉は、中ソ不可侵条約の締結翌日に共産党軍の国民政府軍への編入となり、日中両軍が激戦中の9月22日に、共産党が国民党に出した「国難に赴く宣言」(国民党政府への忠誠宣言)と、それを受けての蔣介石談話が放送されて、ようやく対立抗争の終結が宣言され、紅軍(共産党軍)が国民革命軍第八路軍(八路軍)として形式上は国民党軍の指揮下に組み込まれた。ただし、抗日戦争中より国民党と共産党の間に衝突も起こっており、両者の共闘が必ずしも成功していたわけではない。また近年、第二次国共合作の成立は疑わしいとする説もある(国共合作を参照)。

国民政府は、米英の物資援助も入れて、精鋭部隊をつぎ込んだ全面戦争を行なった。アメリカは、蔣介石の妻の宋美齢によるフランクリン・ルーズベルト大統領への強い働きかけを受けて「義勇軍」という形を取って1941年から中華民国軍に武器や軍事顧問の派遣などの形で援助を行ったほか、同年12月の日本との開戦後には中国共産党軍にも武器などの軍事支援を行った。

1943年、蔣介石が「中国の命運」という文章を発表すると、毛沢東は「反共産主義、反自由主義」だとして批判した[41]。戦争終結直前の1945年5月には、蔣介石国民党は第六回全国大会で孫文の提唱していた革命三段階論のうち,軍政、訓政の次の段階である憲政に入ると宣言した[42]。これに対抗して共産党側は第七回党代表大会で「連合政府論」構想を打ち出し、国民党政権を糾弾した。

年表

1926年(昭和元年)

1930年(昭和5年)

1931年(昭和6年)

1932年(昭和7年)

1933年(昭和8年)

1934年(昭和9年)

1935年(昭和10年)

1936年(昭和11年)

1937年(昭和12年)

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中国軍による上海フランス租界避難民への爆撃[44]
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脚注

参考文献

関連項目

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