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コンピュータゲームの歴史(コンピュータゲームのれきし)では、これまでのコンピュータゲーム関連の主な出来事を記す。コンピュータ囲碁/コンピュータ将棋/コンピュータチェスについては各リンク先で詳述する。
ゲーム機、アーケードゲーム、コンシューマーゲーム、携帯型ゲーム、日本におけるゲーム機戦争、パソコンゲーム、パーソナルコンピュータ史、携帯電話ゲーム、クラウドゲーム
1912年、スペインの技術者レオナルド・トーレス・ケベードが、チェスのオートマタ『エル・アヘドレシスタ』を発明した。自動でエンドゲームを行う装置で、歴史上最古のコンピュータゲームと考えられている。
1939年、ニューヨーク万博でエドワード・コンドンがニムのコンピュータゲーム『Nimatron』を展示した[1]。
1947年、en:Thomas T. Goldsmith Jr.とen:Estle Ray Mannが『陰極線管娯楽装置』を発明し、翌1948年に特許を取得した。
1950年、カナダ博覧会でen:Josef Katesが三目並べ(○×ゲーム)のコンピュータゲーム『Bertie the Brain』を展示した。同時期にクリストファー・ストレイチーがチェッカーのプログラムを開発した。
1951年、フェスティバル・オブ・ブリテンでフェランティ社がニムのコンピュータゲーム『Nimrod』を展示した。
1952年、ケンブリッジ大学のEDSACで、同大学の大学院生であったアレキサンダー・ダグラスが三目並べのコンピュータゲーム『OXO』を開発した。
1958年、ブルックヘブン国立研究所のウィリアム・ヒギンボーサムがテニスの試合をシミュレートするコンピュータゲーム『Tennis for Two』を開発した。リアルタイムインタラクティブ性のあるゲームであり、学術研究ではなく純粋に楽しませるために作成された最初のコンピュータゲームであるため、いくつかの定義において『Tennis for Two』は最初のコンピュータゲームとされる。
1962年、マサチューセッツ工科大学の学生であったスティーブ・ラッセルを中心に、DECのミニコンピュータ「PDP-1」上で『スペースウォー!』を発表。アメリカ中の「PDP-1」に広がり、多数の派生版を生み出した[2]。複数のコンピュータでプレイされた最初のコンピュータゲームである。
1971年、ノーラン・ブッシュネルが『スペースウォー!』をヒントに世界初のアーケードゲーム『コンピュータースペース』を製作・発売した。
1972年、ラルフ・ベアがマグナボックスから世界初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」を発表。オデッセイのデモンストレーションを見たノーラン・ブッシュネルは同年にアタリを創業し、『ポン』を発売。オデッセイに内蔵された『テーブルテニス』を模倣したゲームで、2人のプレーヤーが両側のパドルを操作してボールを打ち合い、得点を競う。パドルにボールが当たる位置により、跳ね返る速度・角度が変わる。ポンは商業的に大成功を収め、アメリカ、ヨーロッパ、日本で多くのコピーゲームが販売された。ポンは商業的に成功した最初のコンピュータゲームであり、コンピュータゲーム産業の発展・確立に貢献した。1975年、アタリは家庭用ゲーム機『ホーム・ポン』を発売し、大ヒットとなった。
1970年代のゲーム機はハードウェアにゲームが内蔵されているものが多く、ゲーム内容も『ポン』を元にしたゲームが多かった。1975年にエポック社が発売した『テレビテニス』は日本初の家庭用ゲーム機であり、1977年に任天堂が発売した『カラーテレビゲーム15』は任天堂初の家庭用ゲーム機で、カラーテレビゲーム15のヒットにより任天堂はゲーム業界へ参入した。
1974年、テーブルトークRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(略称:D&D)が発売。世界初のロールプレイングゲームであり、D&Dを元にしたコンピュータゲームが多数作られた。初期のコンピュータRPGである『dnd』や、『ダンジョン』にも多大な影響を与えた。
1978年、日本ではタイトーが「スペースインベーダー』を発売。喫茶店を中心にテーブル型の筐体が出荷され、社会的な大ブームとなった。「インベーダーハウス」と呼ばれる、スペースインベーダーを並べた施設も人気を博した。一方でインベーダーブームは多くの犯罪のきっかけとなり、1979年6月からの取り締まり強化やマスコミによる報道によりブームは沈静化していった(スペースインベーダー#ヒットと社会現象も参照)。
1976年にフェアチャイルドが「チャンネルF」、1977年にアタリが「Video Computer System」(通称「Atari VCS」、後に「Atari 2600」に改称)を発売した。「チャンネルF」と「Atari VCS」はハードとソフトが一体化していたゲーム機とは違い、ロムカートリッジによりゲームソフトを交換して遊ぶことができ、ゲームソフトという新しい市場を切り開いた。
アタリはゲーム機とゲームソフトの両方を製造・販売し、「Atari VCS」により、アメリカの家庭用ゲーム機産業は大きく成長したが、1982年末にゲームソフトの大幅な値崩れを起こし、翌年の1983年には家庭用ゲーム機市場がほぼ消失してしまう。サードパーティによるゲームソフトの粗製乱造や、アタリが『パックマン』や『E.T.』を大ヒットを見込んで大量に注文・生産し、大量の売れ残り在庫を抱えたことが原因といわれている(アタリショックを参照)。
1970年代後半から1980年代にかけて、日本とアメリカの両方でアーケードゲームが商業的に成功し、ゲーム市場を牽引した。アメリカでは「アーケードゲームの黄金時代」と呼ばれている。
1978年、『スペースインベーダー』が発売され、日本とアメリカの両方で商業的な成功を収めた。スペースインベーダーは、その後の多くのシューティングゲームに影響を与えた。この時期の著名なゲームとして、『ギャラクシアン』、『アステロイド』、『センティピード』、『ディフェンダー』、『パックマン』、『ドンキーコング』、『フロッガー』、『ディグダグ』、『ギャラガ』などがある。パックマンは北米でアニメや音楽が大ヒットし、80年代のミッキーマウスと称された。
1980年代、アーケードゲームはゲーム業界の中心だったが、1990年代以降、家庭用ゲーム機や、パソコンゲームの普及により、アーケードゲームおよびゲームセンターは衰退していった。
1980年、任天堂が携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売。ソフト内蔵の電子ゲームで、多くのタイトルが発売された。全世界で合計4,340万台を売り上げ、任天堂のゲーム機として初の世界的大ヒットとなった。ゲーム&ウオッチのヒットにより、他社から多数の電子ゲームが発売され、流行した。
1981年に発売されたエポック社のロムカセット式家庭用ゲーム機「カセットビジョン」の成功で1983年には多くのロムカセット式ゲーム機が発売された。その中で任天堂の「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)が大ヒットし、急激にシェアを拡大した。1984年から多数のサードパーティが参入し、エニックスの『ドラゴンクエスト』シリーズは社会現象として多くのマスメディアで取り上げられた。1985年から、ファミコンは「Nintendo Entertainment System」(NES)として日本国外で発売された。NESはアタリショックで衰退した北米の家庭用ゲーム機市場で圧倒的シェアを占めた。
1977年にアメリカでAppleが「Apple II」を専門の技術者ではない一般人でも使えるホームコンピュータとして発売。多数のアプリケーションソフトウェアが開発され、1980年代にかけてパソコンゲームの標準的なプラットフォームとして多くのゲームが開発された。その後、Appleは1984年にMacintosh 128Kを発売し、Macintoshシリーズとしてブランド化した。
1981年にコモドールが「VIC-20」を発売。ゲームユーザーを狙った広告戦略が成功し、VIC-20は100万台以上を売り上げた世界初のコンピュータとなった。翌年の1982年にコモドールはVIC-20の後継機として「コモドール64」を発売した。名前の通り当時としては大容量の64キロバイトのRAMを搭載したパソコンで性能的にはApple IIに匹敵するが価格は大幅に安く、アタリショックの中でも売上を伸ばし、事実上の受け皿となった[3]。
1981年にIBMが「IBM Personal Computer」(型番5150)を発売。1983年に後継機である「PC/XT」、1984年に「PC/AT」を発売し、IBMのブランド力により米国市場を席巻した。IBM PCシリーズは汎用的な部品を採用し、オープンアーキテクチャであったため、IBM PCクローン機を販売するベンダーが多数登場し、1980年代以降、PC/AT互換機はパーソナルコンピュータのデファクトスタンダードとなった[4][5]。
1980年代、日本電気(NEC)のPC-8800シリーズ、富士通のFM-7シリーズ、シャープのX1シリーズが御三家と呼ばれ、日本のパーソナルコンピュータ市場でシェア競争を繰り広げた(8ビット御三家も参照)。1983年、アスキーとマイクロソフトがパソコンの共通規格「MSX」を発表。多くの日本の電気機器メーカーが参画した。MSXは御三家と比べて価格が安かったことや、多数のゲームソフトが発売されたこともあり、ファミコンなどの家庭用ゲーム機と比較され、競合した。1985年にはMSX2が発表された。1990年代に入ると16ビット機への移行が進み、NECのPC-9800シリーズが日本でデファクトスタンダードとなり、ほぼ寡占状態となった。
多くのゲーム雑誌が創刊された。パソコンゲームでは『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社)、『月刊ログイン』(アスキー)、『コンプティーク』(角川書店)、家庭用ゲーム機では『Beep』、『ファミリーコンピュータMagazine』(徳間書店)、『ファミコン通信』(アスキー)、『ファミコン必勝本』(JICC出版局)、『マル勝ファミコン』(角川書店)、アーケードゲームでは『ゲーメスト』が創刊された。
1985年、『スーパーマリオブラザーズ完全攻略本』(徳間書店)が120万部のミリオンセラーとなり、書籍ベストセラーの1位となる。さらに翌1986年も1位となる[6]。
子供向け漫画雑誌『コロコロコミック』が1985年にハドソンと提携し開催した全国キャラバンで当時ハドソン所属の高橋名人が「16連射」を披露し、ファミコン名人として子供たちを中心に一世を風靡した。
1987年にNECホームエレクトロニクスが「PCエンジン」、1988年にセガが「メガドライブ」(MD)、1990年に任天堂が「スーパーファミコン」(SFC)を発売した。これらのゲーム機はファミコンの次世代機であり、第四世代に分類される[注 1]。
日本国内では、SFCがファミコンの圧倒的なシェアを引き継ぎ、2世代連続でハードとソフトの両方でトップシェアとなった。PCエンジンは本体を周辺機器で拡張させる「コア構想」により、多くの本体と周辺機器が発売された。1988年に周辺機器・CD-ROM2を発売し、CD-ROMをゲームソフトとして採用した世界初の家庭用ゲーム機となった。日本国内の販売台数はSFCが1,717万台、PCエンジンシリーズが590万台、MDが358万台だった。
MDは日本国内では苦戦したが、1989年に「SEGA GENESIS」として北米市場に参入し、本体の値下げや、積極的な広告戦略により、任天堂の「Super Nintendo Entertainment System」と互角以上のシェア争いを繰り広げた。
1989年、任天堂が携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」(GB)を発売。同年に発売された『テトリス』が大ヒットし、出荷台数を牽引した。1996年に『ポケットモンスター 赤・緑』が社会現象となり、市場が再活性化した。1996年に「ゲームボーイポケット」、1998年に「ゲームボーイカラー」が発売され、ゲームボーイシリーズは任天堂のゲーム機として初めて世界累計で1億台を売り上げた。
1989年にナムコが3次元コンピュータグラフィックス(3DCG)に特化したアーケードゲーム基板「SYSTEM21」を開発し、『ウイニングラン』、『スターブレード』、『ソルバルウ』などを製作。1992年にセガが「MODEL1」を開発し、『バーチャレーシング』『バーチャファイター』などを製作した。ナムコとセガによって、多くのアーケードゲームが3DCGへと移行した。家庭用ゲーム機でも、1994年のセガサターン(セガ)、PlayStation(SCE)、1996年のNINTENDO64(任天堂)は全て3D描画機能を備えている。以降、3DCGのゲームがアーケードと家庭用の両方で普及した。
1991年、アーケードゲーム『ストリートファイターII』(カプコン)が日本とアメリカの両方で爆発的ヒットを記録し、対戦型格闘ゲームブームを起こした。1990年代に多くの格闘ゲームが流行し、『バーチャファイター』、『闘神伝』のヒットにより、1990年代後半には『鉄拳』、『ソウルエッジ』、『デッド オア アライブ』など多くの3D格闘ゲームが登場した。
1994年にセガが「セガサターン」(SS)、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が「PlayStation」(PS)、1996年に任天堂が「NINTENDO64」(N64)を発売した。
1994年に発売されたPSとSSは本体の価格競争が激化し、本体の値下げを繰り返した。他にも同時期に、3DO社の「3DO REAL」や、NECの「PC-FX」、SNKの「ネオジオCD」、バンダイ・Appleの「ピピンアットマーク」など多くのゲーム機が発売され、次世代機戦争と呼ばれた。新規参入したゲーム機のほとんどが商業的に失敗し、ゲーム機市場から撤退した。これ以降、家庭用ゲーム機はソニー・任天堂・セガ(セガ撤退後はマイクロソフト)による寡占状態が続いていく。
第五世代ゲーム機の多くがソフトウェア媒体にCD-ROMを採用した。CD-ROMはロムカセットと比べて大容量・低コストが特徴で、1万円を超えることもあったゲームソフトの価格をCD-ROMでは6000~7000円台まで下げることができた。任天堂もN64はロムカセットだったが、2001年の「ゲームキューブ」では光ディスクを採用している。CD-ROMの普及と、PSとSSの性能差が比較的少なかったことから、『ときめきメモリアル』、『Dの食卓』などPSとSSの両方でクロスプラットフォーム展開をするサードパーティが増えた。一方でドラゴンクエストシリーズやファイナルファンタジーシリーズといった大作シリーズは一つのゲーム機のみの独占販売を維持し、『ファイナルファンタジーVII』がPS独占で発売されたことはPSとSSのゲーム機競争に影響を与えた。
1990年代以降、アーケードゲームと家庭用ゲーム機の性能差が小さくなり、アーケードゲームのタイトルが登場後、すぐに家庭用ゲーム機に移植されることが多くなった。ゲーム市場のアーケードゲームが占める割合は少なくなり、家庭用ゲーム機が売上と技術の両方で市場を牽引するようになった。
1994年の『ときめきメモリアル』(コナミ)は1992年の『同級生』(エルフ)と共に「恋愛ゲーム」というジャンルを確立した。『ときめきメモリアル』はPCエンジンSUPER CD-ROM2向けに発売され、1995年にPlayStation版が発売されると、大ヒットとなり、関連作品やキャラクターCD、グッズ、フィギュアが発売され、人気を博した。
1996年の『ポケットモンスター 赤・緑』は漫画、アニメ、トレーディングカードゲームなど多くのメディアミックス展開により、世界的ブームとなった。アニメ映画『ミュウツーの逆襲』は世界各国で公開され、大ヒットした。アメリカでの週末の北米興収ランキングで1位となった初の日本映画となり、興行収入は8570万ドルを記録した。
1990年代以降、ゲーム作品のメディアミックスは一般的となり、2000年代に入ると漫画やアニメがゲーム化される事例も増えた。
1992年の『Wolfenstein 3D』(id Software)は3Dシューティングの始祖と呼ばれ、ファーストパーソン・シューティングゲーム(FPS)というジャンルを確立した。id Softwareは『Wolfenstein 3D』の後継作品として1993年に『DOOM』、1996年に『Quake』を発売した。『DOOM』は火星を舞台にしたFPSで、シューティングだけでなく、探索しゴールを目指すというアドベンチャーゲームとしての要素もある。北米で発売されると、すぐに大ヒットを記録し、その後の多くのシューティングゲームに影響を与えた。
『モータルコンバット』や『ナイトトラップ』の残虐な描写が問題視され、論争となったことで1994年にコンピュータゲームのレイティング審査を行う団体「エンターテインメントソフトウェアレイティング委員会」(ESRB)がアメリカで設立された。『DOOM』や、ガンシューティングゲームの『リーサルエンフォーサーズ』も社会的影響を懸念され、批判された。
1990年代後半に『DOOM』、『Quake』のMODが公開され、流行した。MODとは、ゲームのグラフィックやデータを改造するファイル・プログラムで、改造・変更という意味の「modification」の短縮形である。ゲームのほぼ全てを変更する大規模なMODは「トータルコンバージョン」と呼ばれる。『ハーフライフ』をチーム制のオンラインゲームに改造した『カウンターストライク』は世界中の『ハーフライフ』ユーザーから支持され、人気を博した。『DOOM』、『Quake』、『ハーフライフ』はインターネット上でMODコミュニティが形成され、多くのMODが作成された。
1996年に発売された電子ゲーム「たまごっち」(バンダイ)が大ヒットし、社会現象となった。同年に発売した「テトリン55」(ゲームテック)と共にキーホルダー型の電子ゲームが流行し、バンダイは1997年にたまごっちの亜流シリーズとして「デジタルモンスター」を発売した。1998年の「てくてくエンジェル」(ハドソン)、「ポケットピカチュウ」(任天堂)など、歩数計機能を備えた電子ゲームが人気を博したほか、メモリーカードに液晶とボタンを搭載し、家庭用ゲーム機と連携できる「ビジュアルメモリ」(セガ)、「PocketStation」(SCE)も発売された。
1991年11月、フェアリーテールのアダルトゲーム『沙織 -美少女達の館-』を中学生が万引きした事件に端を発し、発売元など関係各社を京都府警が家宅捜索した(沙織事件)。コンピュータソフトウェア倫理機構設立のきっかけとなる。
1992年2月、公正取引委員会がゲームソフト卸売会社藤田屋に対し、『ドラゴンクエストIV』の抱き合わせ販売について独禁法違反として排除措置命令を審決(藤田屋事件)[7]。
1992年4月、アメリカの発明家ジャン・コイルがセガを相手取り提起していた特許侵害訴訟で、セガに43億円(当時)の支払いを命ずる判決が下る[8]。
1994年5月、「Nintendo Entertainment System」用チートシステム「ゲームジニー」を巡って争われた「Galoob vs. Nintendo」について、アメリカの合衆国控訴裁判所はゲームジニーが著作権を侵害していないとの判断を下す[9]。
1994年にPlayStationを発売し、ゲーム業界に参入したSCEはSMEの流通網を使い、在庫を少なく維持し、リピート発注によりメーカー(SCE)と小売店との直接取引により、PSのソフトを流通させた。SCEは小売店に対し、「値引き販売禁止(再販売価格維持)」「中古品売買禁止」「同業他社への在庫横流し禁止」を小売店に要請した[10]。1998年1月、SCEは小売業者及び卸売業者の事業活動を制限した事実が認められたとして、独占禁止法違反で排除勧告を受けた[11][12]。
1996年にゲームソフトメーカーの団体コンピュータエンターテインメントソフトウェア協会(CESA)が設立された。1997年にCESAはゲームソフトの中古販売は一切許可していないと主張し、中古ソフト撲滅キャンペーンを大々的に展開した。1998年に中古ゲームの販売会社に対し、ソフトの販売差し止めを求めて提訴した[13]。2002年に最高裁判所は、メーカー側の上告を全て棄却し、中古ゲームソフトの売買は合法であると認められた[14](テレビゲームソフトウェア流通協会を参照)。
1999年3月、『三國志III』のゲームデータ改造ツールを巡って争われた三國志III事件について、東京高裁は『三國志III』は著作権法上の「映画の著作物」に該当せず、そのゲームデータ改造ツールは著作権を侵害しないという判断を示す[15]。
1999年4月、『ときめきメモリアル』の改造済みセーブデータの入ったメモリーカードの販売を巡って争われたときめきメモリアルメモリーカード事件について、大阪高裁は『ときめきメモリアル』は著作権法上の「映画の著作物」に該当し、その改造済みセーブデータの入ったメモリーカードの販売は著作権を侵害するという判断を示す[16]。なお、2001年3月18日に控訴棄却により判決が確定した[17]。
1999年8月、ソニー・コンピュータエンタテインメントがPlayStationのエミュレータ「bleem!」の販売差し止めを求めていた訴訟で、サンフランシスコ連邦地裁が販売継続を認める判決を下す[18]。
2000 | PS one(SCE) |
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PlayStation 2(SCE) | |
2001 | ニンテンドーゲームキューブ(任天堂) |
Xbox(マイクロソフト) | |
2002 | |
2003 | |
2004 | XaviXPORT(新世代) |
2005 | Xbox 360(マイクロソフト) |
2006 | PlayStation 3(SCE) |
Wii(任天堂) | |
2007 | |
2008 | |
2009 | Zeebo(Tectoy&Qualcomm) |
2000 | ワンダースワンカラー(バンダイ) |
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2001 | スワンクリスタル(バンダイ) |
ゲームボーイアドバンス(任天堂) | |
ポケモンミニ(ポケモン) | |
GP32(GamePark) | |
2002 | |
2003 | ゲームボーイアドバンスSP(任天堂) |
N-Gage(ノキア) | |
Tapwave Zodiac(Tapwave) | |
Leapster(LeapFrog) | |
2004 | N-Gage QD(ノキア) |
ニンテンドーDS(任天堂) | |
PlayStation Portable(SCE) | |
2005 | Gizmondo(タイガー・テレマティクス) |
ゲームボーイミクロ(任天堂) | |
GP2X(GamePark) | |
2006 | ニンテンドーDS Lite(任天堂) |
2007 | |
2008 | ニンテンドーDSi(任天堂) |
2009 | GP2X Wiz(GamePark) |
ニンテンドーDSi LL(任天堂) | |
Dingoo(Dingoo) | |
PlayStation Portable go(SCE) |
2010 | ZONE(AtGames&セガ) |
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2011 | |
2012 | Wii Mini(任天堂) |
Wii U(任天堂) | |
2013 | OUYA(OUYA, inc.) |
GameStick(PlayJam) | |
M.O.J.O(Mad Catz) | |
PlayStation 4(SCE→SIE) | |
Xbox One(マイクロソフト) | |
PlayStation Vita TV(SCE) | |
2014 | |
2015 | |
2016 | Xbox One S(マイクロソフト) |
PlayStation 4 Pro(SIE) | |
2017 | Xbox One X(マイクロソフト) |
Nintendo Switch(任天堂) |
2010 | パンドラ (ゲーム機)(OpenPandora) |
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2011 | ニンテンドー3DS(任天堂) |
Xperia PLAY(ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ) | |
PlayStation Vita(SCE) | |
2012 | ニンテンドー3DS LL(任天堂) |
Archos GamePad(Archos) | |
NEOGEO X(SNK) | |
2013 | ニンテンドー2DS(任天堂) |
Wikipad(Wikipad) | |
2014 | Newニンテンドー3DS(任天堂) |
Newニンテンドー3DS LL(任天堂) | |
2015 | |
2016 | Arduboy(Arduboy Inc.) |
2017 | Newニンテンドー2DS LL(任天堂) |
2018 | |
2019 | Nintendo Switch Lite(任天堂) |
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