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特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った宣伝行為 ウィキペディアから
プロパガンダ(羅: propaganda)は、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為の事である。
情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。政治宣伝ともいう。最初にプロパガンダと言う言葉を用いたのは、1622年に設置されたカトリック教会の布教聖省(Congregatio de Propaganda Fide、現在の福音宣教省)の名称である[1]。ラテン語のpropagare(繁殖させる、種をまく)に由来する。
あらゆる宣伝や広告、広報活動、政治活動はプロパガンダに含まれ[1]、同義であるとも考えられている[2]。利益追求者(政治家・思想家・企業人など)や利益集団(国家・政党・企業・宗教団体など)、なかでも人々が支持しているということが自らの正当性であると主張する者にとって、支持を勝ち取り維持し続けるためのプロパガンダは重要なものとなる。対立者が存在する者にとってプロパガンダは武器の一つであり[3]、自勢力やその行動の支持を高めるプロパガンダのほかに、敵対勢力の支持を自らに向けるためのもの、または敵対勢力の支持やその行動を失墜させるためのプロパガンダも存在する。
本来のプロパガンダという語は中立的なものであるが、カトリック教会の宗教的なプロパガンダは、敵対勢力からは反感を持って語られるようになり、プロパガンダという語自体が軽蔑的に扱われ、「嘘、歪曲、情報操作、心理操作」と同義と見るようになった[1]。このため、ある団体が対立する団体の行動・広告などを「プロパガンダである」と主張すること自体もプロパガンダたりうる。
またプロパガンダを思想用語として用い、積極的に利用したウラジーミル・レーニンとソビエト連邦や、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とナチス・ドイツにおいては、情報統制と組み合わせた大規模なプロパガンダが行われるようになった[注釈 1]。そのため西側諸国ではプロパガンダという言葉を一種の反民主主義的な価値を内包する言葉として利用されることもあるが、実際にはあらゆる国でプロパガンダは用いられており[1]、一方で国家に反対する人々もプロパガンダを用いている[4]。あらゆる政治的権力がプロパガンダを必要としている[5]。
なお、市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)は、戦争や人種差別を扇動するあらゆるプロパガンダを法律で禁止することを締約国に求めている[6]。
報酬の有無を問わず、プロパガンダを行う人々を「プロパガンディスト(propagandist)」と呼ぶ[7]。
プロパガンダには大別して以下の分類が存在する。
アメリカ合衆国の宣伝分析研究所は、プロパガンダ技術を分析し、次の7手法をあげている[8]。
ネーム・コーリング | 攻撃対象をネガティブなイメージと結びつける[注釈 2]。 | 恐怖に訴える論証 |
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カードスタッキング | 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽、または捏造だと強調する。 | |
バンドワゴン | その事柄が世の中の趨勢であるように宣伝する[注釈 3]。 | 衆人に訴える論証 |
証言利用 | 「信憑性がある」とされる人に語らせることで、自らの主張に説得性を高めようとする。 | 権威に訴える論証 |
平凡化 | その考えのメリットを、民衆のメリットと結びつける。 | |
転移 | 何かの威信や非難を別のものに持ち込む[注釈 4]。 | |
華麗な言葉による普遍化 | 対象となるものを、普遍的や道徳的と考えられている言葉と結びつける。 |
また、ロバート・チャルディーニは、人がなぜ動かされるかと言うことを分析し、6つの説得のポイントをあげている。これは、プロパガンダの発信者が対象に対して利用すると、大きな効果を発する[9]。
返報性 | 人は「利益が得られる」という意見に従いやすい。 | |
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コミットメントと一貫性 | 人は自らの意見を明確に発言すると、その意見に合致した要請に同意しやすくなる。 また意見の一貫性を保つことで、社会的信用を得られると考えるようになる。 | |
社会的証明 | 自らの意見が曖昧な時は、人は他の人々の行動に目を向ける。 | |
好意 | 人は自分が好意を持っている人物の要請には「YES」という可能性が高まる。 | ハロー効果 |
権威 | 人は対象者の「肩書き、服装、装飾品」などの権威に服従しやすい傾向がある。 | |
希少性 | 人は機会を失いかけると、その機会を価値のあるものであるとみなしがちになる。 |
ウィスコンシン大学広告学部で初代学部長を務めたW・D・スコットは、次の6つの広告原則をあげている[10]。
J.A.C.Brownによれば、宣伝の第一段階は「注意を引く」ことである。具体的には、激しい情緒にとらわれた人間が暗示を受けやすくなることを利用し、欲望を喚起したうえ、その欲望を満足させうるものは自分だけであることを暗示する方法をとる[11]。またL.Lowenthal,N.Gutermanは、煽動者は不快感にひきつけられるとしている[12]。
アドルフ・ヒトラーは、宣伝手法について「宣伝効果のほとんどは人々の感情に訴えかけるべきであり、いわゆる知性に対して訴えかける部分は最小にしなければならない」「宣伝を効果的にするには、要点を絞り、大衆の最後の一人がスローガンの意味するところを理解できるまで、そのスローガンを繰り返し続けることが必要である」と、感情に訴えることの重要性を挙げている[13]。また「大衆は小さな嘘より大きな嘘の犠牲になりやすい。とりわけそれが何度も繰り返されたならば」(=嘘も100回繰り返されれば真実となる)とも述べた。
杉野定嘉は、「説得的コミュニケーションによる説得の達成」「リアリティの形成」「情報環境形成」という3つの概念を提唱している。また敵対勢力へのプロパガンダの要諦は、「絶妙の情報発信によって、相手方の認知的不協和を促進する」ことであるとしている[13]。
有史以来、政治のあるところにプロパガンダは存在した。ローマ帝国では皇帝の名を記した多くの建造物が造られ、皇帝の権威を市民に見せつけた。フランス革命時にはマリー・アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と語ったとしたものや、首飾り事件に関するパンフレットがばらまかれ、反王家の気運が高まった。
プロパガンダの体系的な分析は、アテネで紀元前6世紀ごろ、修辞学の研究として開始されたと言われる。自分の論法の説得力を増し、反対者への逆宣伝を計画し、デマゴーグを看破する技術として、修辞学は古代ギリシャ・古代ローマにおいて大いに広まった。修辞学において代表的な人物はアリストテレス、プラトン、キケロらがあげられる。古代民主政治では、これらの技術は必要不可欠であったが、中世になるとこれらの技術は廃れて行った。
テレビやインターネットに代表される情報社会化は、プロパガンダを一層容易で、効果的なものとした。わずかな費用で多数の人々に自らの主張を伝えられるからである。現代ではあらゆる勢力のプロパガンダに触れずに生活することは困難なものとなった。
国家による大規模なプロパガンダの宣伝手法は、第一次世界大戦期のアメリカ合衆国における広報委員会が嚆矢とされるが、ロシア革命直後のソ連[14]で急速に発達した。レーニンは論文[15]でプロパガンダは「教育を受けた人に教義を吹き込むために歴史と科学の論法を筋道だてて使うこと」と、扇動を「教育を受けていない人の不平不満を利用するための宣伝するもの」と定義した。レーニンは宣伝と扇動を政治闘争に不可欠なものとし、「宣伝扇動(agitprop)」という名でそれを表した。十月革命後、ボリシェヴィキ政権(ソビエト連邦)は人民に対する宣伝機関を設置し、第二次世界大戦後には社会主義国に同様の機関が設置された[16]。またヨシフ・スターリンの統治体制はアブドゥルアハマン・アフトルハーノフによって「テロルとプロパガンダ」の両輪によって立っていると評された[17]。
1930年代にドイツの政権を握った国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、政権を握る前から宣伝を重視し、ヨーゼフ・ゲッベルスが創刊した「デア・アングリフ」紙や、フェルキッシャー・ベオバハター紙による激しい言論活動を行った。また膨大な量のビラやポスターを貼る手法や、突撃隊の行進などはナチス党が上り調子の政党であると国民に強く印象づけた。
ナチ党に対抗した宣伝活動を行ったドイツ共産党のヴィリー・ミュンツェンベルクは、著書『武器としての宣伝(Propaganda als Waffe)』において「秘密兵器としての宣伝がヒトラーの手元にあれば、戦争の危機を増大させるが、武器としての宣伝が広範な反ファシズム大衆の手にあれば、戦争の危険を弱め、平和を作り出すであろう」と述べている[18]。
ナチス党が政権を握ると、指導者であるアドルフ・ヒトラーは特にプロパガンダを重視し、ゲッベルスを大臣とする国民啓蒙・宣伝省を設置した。宣伝省は放送、出版、絵画、彫刻、映画、歌、オリンピックといったあらゆるものをプロパガンダに用い、ナチス・ドイツとその勢力圏における独裁体制を維持し続けることに貢献した。
第二次世界大戦中は国家の総動員態勢を維持するために、日本やドイツ、イタリアなどの枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連などの連合国を問わず、戦争参加国でプロパガンダは特に重視された。終戦後は東西両陣営の冷戦が始まり、両陣営はプロパガンダを通して冷たい戦争を戦った。特に宇宙開発競争は、陣営の優秀さを喧伝する代表的なものである。
1950年代、中華民国政府(台湾政府)が反共文芸を推奨し、趣旨に共鳴した「中華文芸奨金委員会」が活動していた。
コーポレートプロパガンダ(企業プロパガンダ)は、企業がその活動やブランドイメージに関する市場・消費者意見を操作するために行うプロパガンダの一種である。
特定の人間がその企業の製品やサービスに対して支持を表明することで、社会における好意的な印象形成に影響をもたらす。このようなコーポレートプロパガンダについてジークムント・フロイトの甥であるエドワード・バーネイズは著書『プロパガンダ』(1928年刊行)の中で詳細に解説しており、また一般大衆の稚拙さについても歯に衣着せず言及している。バーネイズは大衆向けのイベント、メディアや有名な俳優などを多用し、その影響力を駆使して大衆の意思決定を操り、大衆行動をクライアントの利益に結びつけてきた。叔父であるフロイトが示唆した、人間の潜在的な欲求に関する心理学理論を駆使し、バーネイズは人々に現実的には何の利益もない商品を一般大衆が自ら買い求めるように仕向けることに成功し、そのプロパガンダの手法を進化させていった。現実に、今日多用されているような有名人の広告への起用や、実際には偽科学的だが一見科学的な主張のようにみえる意見を利用した広告など、悪意的な現在の大衆操作に関する知識の多くは、バーネイズの開発したミーム論を利用した広告戦略に基づいたものであり、彼の著書『自我の世紀』に、その手法の多くが言及されている。大衆の世論操作に際してのプロパガンダの有効性について、バーネイズは次のように述べている。
もし我々が、集団心理の仕組みと動機を理解するならば、大衆を我々の意志に従って 彼らがそれに気付くことなしに制御し組織化することが可能ではないだろうか。プロパガンダの最近の実践は、それが可能であることを証明してきた。少なくともある地点まで、ある限界の範囲内で。 — エドワード・バーネイズ
宗教組織や企業、政党などの組織に比べて、強大な権力を持つ国家によるプロパガンダは規模や影響が大規模なものとなる。国策プロパガンダの手法の多くはナチス体制下のドイツ、大東亜戦争直前・戦中の日本、太平洋戦争直前・戦中のアメリカ合衆国、革命下のロシアやその後のアメリカ合衆国、ソビエト連邦、中華人民共和国など全体主義・社会主義の国のみならず資本主義諸国でも発達した。社会主義国や独裁国家では情報活動が国家によって統制・管理されることが多いため、国家による国内に対するプロパガンダは効率的で大規模なものとなりがちである。
どのような形態の国家にもプロパガンダは多かれ少なかれ存在するものだが、社会主義国家や ファシズム国家、開発独裁国家など、情報を国家が集中して管理できる国家においては、国家のプロパガンダの威力は強大なものがある。また、特定のグループが政治権力とメディアを掌握している国でも同じことが起こる。こうした国家では、国家のプロパガンダ以外の情報を入手する手段が著しく限られ、プロパガンダに虚偽や歪曲が含まれていたとしても、ほかの情報によって情報の精度を判断することが困難である。
さらに、こうした国家では教育とプロパガンダが表裏一体となる場合がしばしば見られる。初等教育のころから国民に対して政府や支配政党への支持、ナショナリズム、国家防衛の思想などを擦り込むことにより、国策プロパガンダの威力は絶大なものとなる。
しかし、こうした国家では情報を統制すればするほど、また国内向けのプロパガンダが効果を発揮すればするほど、自由な報道が保障されている外国のメディアからは疑惑の目で見られ、そのプロパガンダが外国ではまったく信用されないという背理現象も起こりうる。
また、国家のプロパガンダは国家、政府機関、政党などが直接手がけるとは限らない。民間団体や民間企業、個人が自主的、受動的、または無意識に行う例もある。
大衆の受容能力は極めて狭量であり、理解力は小さい代わりに忘却力は大きい。この事実からすれば、全ての効果的な宣伝は、要点を出来るだけ絞り、それをスローガンのように継続しなければならない。この原則を犠牲にして、様々なことを取り入れようとするなら、宣伝の効果はたちまち消え失せる。というのは、大衆に提供された素材を消化することも記憶することもできないからである。……
……大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである。 — アドルフ・ヒトラー「我が闘争」より
軍隊は国家が直接行動を命令できるため、プロパガンダに利用されやすい。このため本来軍事行動には必要の無い人員や装備が配備されている。
多くの軍隊では国民や諸外国に正当性や精強さをアピールするため、見栄えのいい宣伝用の写真や映像を多数公開しており、それらの撮影のために第301映像写真中隊(自衛隊)のような専門の部隊が編成されている。特にアメリカ軍は兵器が運用される様子から休憩中の兵士にいたるまでほぼすべての広報写真を無償で公開し、ウィキメディア・コモンズなどで自由に使えるようにしているが、公開されるのは軍に都合がいい写真だけである。アメリカ軍では第二次世界大戦時に隊員教育やプロパガンダ用の映画を制作するため第1映画部隊を編成し、映画業界人を徴兵扱いで多数動員していた。
第二次世界大戦時のアメリカによる日系人の強制収容に対し、日本は「白人の横暴の実例」として宣伝し日本の軍事行動は「アジアの白人支配からの解放」であると正当化した。アメリカではこれに対抗するため日系移民の志願者による部隊(第100歩兵大隊)を急遽創設した。
多くの空軍では実戦部隊以外にも曲技飛行による広報活動を任務とする曲技飛行隊を有している。これは曲技飛行を国民に披露し軍への関心を高めることに加え、パイロットの技量を外国へ誇示する目的もある。使用する機体は既存機の流用であっても武装の撤去、スモーク発生装置の搭載、派手な塗装を施すなど実戦には不適格な改造を施したり、すでに時代遅れとなった複葉機を曲技専用に配備するなど予算的に優遇されている。またアメリカ軍ではサンダーバーズ(空軍)、ブルーエンジェルス(海軍)、PACAF F-16 Demo Team(太平洋空軍)など複数の部隊が併存している。なおブルーエンジェルスは、第二次大戦終結により海軍航空隊への国民の関心が低下し、予算の減額や空軍との統合など権限縮小を危惧したチェスター・ニミッツ提督が「大衆の海軍航空兵力への関心を維持しておくこと」を意図して組織され、第1映画部隊はアメリカ陸軍航空軍司令官だったヘンリー・アーノルド将軍が陸軍航空軍の独立性を強調するためにも独自の撮影部隊が必要だと考え、宣伝映画を担当していた陸軍信号隊とは別の組織として映画業界人に依頼して編成されたなど、純粋な広報ではなく政治的な意図で創設された例もある。
軍楽隊が担ってきた国賓栄誉礼や軍の式典での音楽演奏は、現代では録音した曲を流すことで代用できるが、多くの軍楽隊では国歌や行進曲を生演奏させるために、音楽大学などで専門教育を受けた者を演奏専業の軍人として雇用している。これは警察音楽隊や消防音楽隊の多くが一般職員の有志で編成されているのとは対照的である。軍楽隊は国民向けの広報演奏を行うこともあるが、その際は流行しているポップスなど国民の関心が高い曲を演奏することが多い。自衛隊では毎年大規模な音楽イベント「自衛隊音楽まつり」を開催しているが、その演奏曲目の中で行進曲や旧軍歌・自衛隊歌は一部にすぎず、大半はポップス、テレビドラマのテーマ音楽、アニメソング、民謡など自衛隊とは無関係な曲である。
戦傷は名誉の負傷とされ、パープルハート章のような戦傷章の授賞式はマスコミを通じて報道される。さらに戦死者は二階級特進のほかに英雄的な扱いを受け、戦時中には英霊・軍神など神格化されることも多く、軍神広瀬中尉や爆弾三勇士のように愛国心を煽るために軍の宣伝として利用される例が多い。
戦時中には軍需工場で働く労働者を英雄視する報道もされる。アメリカでは第二次世界大戦に軍需工場で働く女性(ロージー・ザ・リベッターをモチーフとしたプロパガンダ写真が多く撮影された。工場を経営する企業でも労働意欲を高めるためのポスターをイラストレーターに発注するなどしていた。ウェスティングハウス・エレクトリックではWe Can Do It!などのポスターを工場に掲示していた。
民間人の顕彰や激励のために軍を活用することもあり、新型コロナウイルス感染症に対応する医療従事者等への感謝と激励を送るためとして、アメリカ軍はサンダーバーズとブルーエンジェルスを各都市で飛行させるアメリカ・ストロング作戦と称するデモンストレーションを行った。日本、カナダ、イタリアでも軍の曲技飛行隊が都市部でデモ飛行を行っている。
観兵式(観閲式)や観艦式は、会場への兵力の移動やガチョウ足行進に代表される非実戦的な訓練が必要なため軍事的には無駄であるが、一糸乱れぬ行進は軍の規律や訓練の成果として、兵器が並ぶ姿は軍事能力をアピールする目的で定期的に行われている。多くの軍隊では式典のための礼装用の軍服が複数規定されており、実戦には使わない大量の衣服を用意している。北朝鮮のように車両や航空機の燃料を調達することも難しい状況ながら、大規模な軍事パレードを定期的に行う国も存在する[19]。
軍では退役した車両や航空機を展示する広報施設を整備したり、博物館に寄贈したりするなどしている。自衛隊では陸上自衛隊広報センター、海上自衛隊佐世保史料館・呉史料館、航空自衛隊浜松広報館と陸海空それぞれ別の広報施設を有している。
駐屯地などの軍事施設に部外者を立ち入らせることには警備上の問題が多いが、国民の理解を得るという目的で多くの軍隊では特定の日に基地祭として公開している。特に駐屯地や基地周辺の住民に対しては別にツアーを用意していることが多い。
最新兵器の公開についても、情報漏洩や敵国の警戒を招くことにもなるが、軍の能力を宣伝するため、画像や性能を一部隠蔽加工するなどバランスをとって公開している。
多くの軍隊ではマスコミを駐屯地、航空機、艦船へ招待し訓練の様子を報道させているが、これも事前にプログラムが組まれたツアーであり、軍は都合のいい部分だけをマスコミに見せることができる[19]。海上自衛隊ではマスコミや要人を接待する専用艦「はしだて」を保有している。
戦況の全体を把握しているのは軍のみであるが、戦時下において戦況を国民にどのように報道するかは非常に難しい問題である。外国からの報道と著しく乖離した報道は国民が軍や政府に不信感を持つことにもつながるが、あまりにも正直に作戦の失敗や敗北を伝えても国民の士気が落ちる。一般的に勝っているときにはほぼ正確な戦果がマスコミを通じて報道され、負けると過小な犠牲と過大な戦果を宣伝する傾向がある。第二次世界大戦において、地続きの大陸での戦争であったヨーロッパにおいては、戦況の隠ぺいは困難で比較的に正確な戦況が国民に伝えられたが、隔絶した海戦主体の日本においては、過剰に盛った戦果報道が行われた。「台湾沖航空戦」や「バルクマンの曲がり角」などほぼ創作に近い戦果報道で国民の戦意を鼓舞しようとすることもある。
軍の広報部隊は自軍の宣伝の他にもマスコミ対策を担当している。
アメリカ政府はベトナム戦争時には戦争の正当性をアピールするためマスコミの取材に協力的で、航空機への同乗や前線で部隊への帯同を許可するなどほぼ自由に報道させていた。しかし、悲惨な戦闘の様子や戦闘に巻き込まれた民間人の様子や規律の緩んだ自軍兵士の不祥事がそのまま報道され、国内での反戦運動を誘発する結果となった。それに懲りたアメリカ政府は、以降の戦場取材では都合がよい報道しかなされないように情報をコントロールするようになった。
戦争映画の製作に協力することもあるが、軍が美化されるなどの作品には協力するが都合の悪い作品には協力しないなど、軍側で協力の可否や程度をコントロールしている。1964年の米国映画『未知への飛行』では、アメリカ軍の核兵器が適切に管理されていないことが前提の作品であるため協力を得られず、航空機の映像は一般公開されていた資料映像に頼っている。1978年の角川映画『野性の証明』も自衛隊が悪役であるため協力を得られず、アメリカ陸軍州兵の演習場などで映像を収録している。アメリカ国防総省では映画会社が中国の検閲を受け入れている場合、撮影に協力しないとしている[20]。
国家が戦争を遂行するためには、国民に戦争以外の選択肢はないことを信じ込ませるために国策プロパガンダが頻繁に行われる。アーサー・ポンソンビーは、第一次世界大戦でイギリス政府が行った戦争プロパガンダを分析して、主張されることに関する10の要素を以下のように導き出した[21]。
フランスの歴史家アンヌ・モレリは、この十要素が第一次世界大戦に限らず、あらゆる戦争において共通していることを示した[18]。そして、著書『戦争プロパガンダ10の法則』の序文中で、「私たちは、戦争が終わるたびに自分が騙されていたことに気づき、『もう二度と騙されないぞ』と心に誓うが、再び戦争が始まると、性懲りもなくまた罠にはまってしまう」と指摘している。
もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。 — ヘルマン・ゲーリング[注釈 5] ニュルンベルク裁判中、心理分析官グスタフ・ギルバートに対して
プロパガンダにはさまざまなメディア・媒体が利用されるが、マスメディアは、一度に多くの対象に強烈なメッセージを送ることができるため、プロパガンダの要としてもっとも重要視されている。権威主義的国家では、インターネットメディアを含むマスメディアに対するさまざまな統制が行われ、実質体制の宣伝機関となっているところもある。ナチスドイツでは国民啓蒙・宣伝省が設置され、報道や芸術文化活動など幅広く管轄下に置き、厳しく統制した。
自由主義国家では利益関係はさらに複雑なものがあり、体制からの圧力だけではなく、私企業・外国・政党・宗教・団体の影響を受け、自主的にプロパガンダを行うこともある。また、新聞社や雑誌社、テレビ局のオーナーの個人的信条や経営方針が影響を与えることがある。
1933年当時、ドイツ国内のラジオ受信機の市場価格は大体250マルク前後であった。これに対して宣伝大臣ゲッベルスの後押しで発売された「国民ラジオ」の価格は76マルクときわめて安価であり、どれほどラジオ宣伝の重要性を認識していたかがうかがえる。
日本では1925年の放送局発足後、太平洋戦争における日本の降伏に伴う改組(1952年6月の民間への電波開放)まで、唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKの前身)は政府の宣伝機関であった。
第二次世界大戦開戦後、ドイツはベルリンからアイルランド人のホーホー卿が対英宣伝放送を担当し、枢軸サリーと呼ばれるアメリカ女性が対米宣伝放送で活躍した。また日本も英語に堪能な女性パーソナリティ(通称:東京ローズ)を起用し、太平洋戦域のアメリカ軍兵士向けに宣伝放送を行った。戦後彼らはともに反逆に問われた。支那事変時の中華民国では『南京の鶯』を放送した。その後の戦争でも朝鮮戦争でのソウルシティ・スー、ベトナム戦争でのハノイ・ハンナなどのプロパガンダパーソナリティが活躍した。
ソ連では第二次世界大戦中から国外への対外宣伝を行う機関としてドイツ語や日本語によるモスクワ放送(現在のロシアの声)と呼ばれる積極的な対外放送を行った。また、アメリカもボイス・オブ・アメリカやラジオ・フリー・ヨーロッパ、ラジオ・フリー・アジアによる対外放送を行っている。
近年は頻度が減ったが、朝鮮半島の軍事境界線を挟んで、複数スタックさせた高出力の拡声器を使用した宣伝放送が相互に行われていた(拡声器放送)。
ルワンダ虐殺を煽ったラジオ局のように、普段は音楽などを流すラジオ局が政治的扇動を行うこともある。
プロパガンダを目的として国家や軍、政治団体やその支援者が映画を直接製作したり、積極的に協力していることがある。
ソ連ではレーニンの「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えのもと、世界で最初の国立映画学校が作られ、共産主義プロパガンダ映画の技法としてモンタージュ理論が発明された。特にエイゼンシュテインの作品がその代表である。1920年代のソ連映画は当時としては非常に革新的であり、ダグラス・フェアバンクスなどのハリウッドの名士、のちのドイツの宣伝相ゲッベルスを絶賛させている。また、このころのソ連では、宣伝映画を地方上映できるよう、移動可能な映写設備として映画館を備えた列車・船舶・航空機を製造・活用している[注釈 8]。編集することで対象を操作しようとしたモンタージュ理論は現代の映画にも生かされている。『ベルリン陥落』のようにスターリンを神格化する国策プロパガンダ映画も作られた。同作はあまりにもプロパガンダ色が強く、スターリン批判によりソ連国内でも上映禁止となる。
アメリカの映画産業は政府の要請よりも利潤追求が優先される。投資家に利益を還元する目的で経営者が選ばれ、市場においても資本の合併と分割が営利を目的に繰り返される。憲法も裁判所も政府からの映画産業への介入を禁じている。しかし第二次世界大戦下には数多くのプロパガンダ的作品が製作され、『カサブランカ』(1942年)は政府からのホワイトプロパガンダとの関連も指摘される。
アメリカ映画は基本的にアメリカ人の時の視点によっている。暴力的で敵に対して容赦をしない姿勢と、自由主義の裏側を鋭く描く自己を告発する両面でバランスを取ってきた結果として発展を遂げた。この意味でアメリカ人気質を飲み込んだ製作者が成功を収め権力と大衆の橋渡しを務める場合がある。大衆文化史におけるミッキーマウスなどがこの例である。観客も当然アメリカ人を対象としている。登場人物は英語を話し、アメリカの価値観と信条を守る不文律で形成される。映画の主題もこの原則からは不即不離の関係にある。商品として輸出される場合は音楽や文芸と同様に文化の先遣隊としての役割を果たす結果となる。また、時の視点により過去は味方として扱われた対象が、その後敵、もしくは憎悪の対象として扱われるケースも多い。
アメリカ政府は基本的に国内における人気が支持基盤に直結する点を熟知しており、大衆に対して正義、公正、真実を守るための運動を提唱し賛同を求めようとする。ここでは事実の強さ、迅速さ、正確さが優先される「ニュース」が主眼であり「映画」の順位は相対的に低い。近年はアメリカ国内における階層格差が深刻化した結果、統合させる思想面の弱体化を普遍的価値観の一つである「家族愛」[注釈 9]で代用することがあからさまになってきている半面、同時にマイケル・ムーアなどの社会告発的な映画が暗い面を指摘するなど全体としての先細りも指摘される。
満州国では満州映画協会により日満友好の国策宣伝映画が数多く製作され、日本や満州などで上映された。人気女優の李香蘭は中国語が堪能な日本人であったが、中国人女優、また歌手として絶大な人気を集めた。また、同盟国である日本とドイツの友好関係を醸成するために、日独共同で『新しき土』などの映画が制作されている。
日本では1939年、国策に則った映画を製作させる映画法が制定されている。これにより設立された日本映画社が『日本ニュース』などのプロパガンダ映画の制作に関与。特に太平洋戦争の開戦後は戦意高揚映画と称される戦争映画が盛んに制作され、東宝が製作した『加藤隼戦闘隊』は陸軍が全面協力で実物の戦闘機が多数登場するほか、円谷英二が開発した特撮技法が駆使されるなど日本映画史においても重要な作品が多数撮影されている。また予科練を描いた『決戦の大空へ』は映画だけでなく挿入歌『若鷲の歌』も大ヒットを記録した。1945年の敗戦後はこのような国策映画は撮影されなくなったが、1990年代以降、防衛省・自衛隊が『ゴジラ』など怪獣映画、『男たちの大和/YAMATO』などの戦争映画、『守ってあげたい!』などの自衛隊をテーマにした映画に協力しているが、これらは映画を利用した自衛隊の宣伝という指摘もある。
イギリスの植民地であった香港では、1997年に中華人民共和国に返還されるまで、映画の上映が始まる前にイギリス国歌の演奏が必ず行われたほか、地元資本のゴールデン・ハーベストの作品においても、イギリス植民地軍や警察は常に「正しき側」として扱われた。さらに映画の内容はイギリス植民地政府の検閲を必ず受けることとなっており、これらの映画はいわばイギリスによる植民地支配のツールの一つとして機能していた。
ドイツのナチス政権は絵画、音楽など古いメディアだけでなく、新しいメディアである映画も重視した。国策として映画産業を積極的に支援する反面、映画産業は宣伝省の管轄下に置かれて厳しく統制された。ナチス政権時代には1100本に上る映画が制作された[23]。レニ・リーフェンシュタールによる『意志の勝利』や『民族の祭典』などは、その大胆な映像美から戦前は世界的に高く評価された。しかし、戦後は一転して「典型的なナチプロパガンダ」と酷評されるようになる。また、『コルベルク』のように大戦末期にもかかわらず、多くの資金や資材、多人数の軍人エキストラを動員して撮影された作品もある。『タイタニック』は強欲なイギリス人と清廉なドイツ人という対比で描いたプロパガンダ映画で大金と多くのエキストラが注ぎ込まれた超大作であったが、完成試写をしたゲッベルスの、連合国軍の空襲が激しくなっている現状で大勢の人々が死ぬ映画の公開は国民の士気を下げるという判断によりドイツ国内での上映は禁止され、ドイツ占領地でのみ上映許可された。
建国から15年ほど経った北朝鮮において、映画など娯楽産業の宣伝効果を知り所轄ポストの席を狙った金正日と朝鮮労働党甲山派との間で党内抗争が起こった。詳細は、甲山派#北朝鮮国内文化事業を巡る金正日との闘争を参照のこと。
俳優や女優、歌手は大衆にとって親しみやすい対象であるため、彼らへの好感を彼らが支持している対象への好感にすり替えることができる。現在もイラク戦争においてアメリカが使う手段として、キャンペーンやアピールに俳優や女優、歌手を起用したり、彼らを戦地へ慰問させ、士気を高める手法などがある。
タイでは本編上映前に、必ず国歌演奏とともに国王肖像が投影され、観客はこれに対し総員起立で表敬することが義務づけられている。
言論統制により新聞や書籍でもプロパガンダ的手法がとられる場合がある。第二次世界大戦中の日本の新聞やイギリスのタイムズ紙などが行った例では、記事の構成や社説などを操作し、対象への印象を悪化させたり、好ましい印象を与えたりする[注釈 10]。例として産経新聞は保守層と財界のために、財政支援を受ける代償として論調を転向した。
国家が書籍を検閲し、発禁処分等を行うことで反対意見を封殺することもある。ナチス政権下のドイツの焚書が代表的である。
内外を問わず白書、各種政党機関紙や団体の宣伝冊子、国営新聞や政党新聞はその政党の主張に則った報道を行うが、民間の新聞でもその新聞社の思想的背景や株主や広告主などの資金源、または個人的信条からプロパガンダとなる報道を行うこともある。アメリカでは新聞社も、立場が保守とリベラルに分かれることが許容されており、またそれが当然視されている。
また、政府のみならず企業によっても、意図的な言葉や単語の言い換え、使い換えも行われる。たとえば、第二次世界大戦後のドイツにおいては、ナチス党が自由選挙によって(つまりドイツ人の意志として)選ばれたにもかかわらず、「ナチス政権下において行われたことはナチス党とその関係者のみが行ったことで、ドイツ人の総意として行われたわけではない。つまり、近隣諸国やユダヤ人のみならず、ナチス党政権下のドイツ人もまた被害者である」という理論のすり替えがなされ、それを象徴する言葉として、「ナチス・ドイツ」という造語が「ドイツ」という国家と切り離されて使われ、結果的にこの理論を手助けすることとなっている。
1920年代に実用的な小型カメラが開発されたことから報道写真が急速に発展した。これに対応し政治家や独裁者の報道写真が新聞や雑誌、ポスターに使われるのみならず、肖像写真が出回ることになる。
例として、イタリアのファシスト党党首のベニート・ムッソリーニは、自らのサイン入りのブロマイドを全国にばらまいたほか、中華人民共和国やソビエト連邦、北朝鮮などの一党独裁制の共産主義国家を中心に、独裁者の正統性や権威を高めるために合成写真が作られたり、逆に失脚した有力者を集合写真から削除することすら行われた[注釈 11]。
また、報道写真の発展に伴い、フォトモンタージュなど多くの撮影、編集技法や利用法が生み出される。多くの民間写真雑誌(グラフ誌)が創刊されたが、国家や軍などもその宣伝効果に着目し、機関誌や国策会社からの出版という形で世界中で創刊された。これら国策で出版された雑誌は、採算を度外視して資材や人員を投入したため、非常に技術的完成度が高いものが多い。しかし第二次世界大戦後、テレビの普及により徐々に衰退する。
ネット風評監視サービスも参照のこと。
現実世界で既存の集団・国家・勢力が道具・手段として利用するケースのほか、近年の傾向として、掲示板サイトそのものが歪んだ連帯意識・独自の思想を育み、書き込みが自由である他掲示板サイト・ウィキ(Wiki)・ブログのコメント・投票形式サイトに支持掲示板で大勢を占めている価値基準に則った記事やレスポンスを大挙書き込み(あるいは不正連続投票し)、力を誇示(甚だしい場合は乗っ取りを目論む)するケースも増えつつある。
国家や団体などによるインターネット・プロパガンダ組織には、中国の五毛党、韓国のVANK、アメリカ合衆国のOEV、ロシアのWeb brigades、ユダヤのJIDFなどがある。インターネットの普及により先進国の軍はサイバー戦の専門部隊のほか、広報や募集のためにインターネットを活用するようになった。
公共性や価値が高く、きわめて広く流通するため、支配権の誇示に用いられる。紙幣や硬貨に国家指導者の肖像が彫刻・印刷で入れられることが多い。古代ギリシャ、古代ローマ時代より西欧では貨幣に神の横顔、のちに国家元首の横顔を刻むのが伝統となっており、国内や勢力範囲の住民に統治者を意識させていた。その伝統にのっとり、イギリスやイギリス連邦各国で切手に国王(2015年現在は女王)の横顔のシルエットが入れられているのをはじめ、アメリカ合衆国のアメリカ合衆国ドルなど、共和制国家では歴代の国家指導者の肖像画を紙幣や硬貨に入れて使用している国も多い[注釈 26]。そのため、1979年にイラン・イスラム革命で国王が失脚したイランでは、紙幣に描かれた国王の肖像をすべて塗り潰した。
逆に日本では、皇太子(徳仁親王・雅子親王妃)夫妻の肖像が記念切手に使われた例が1度あるのみで、在位中の天皇の肖像が硬貨に刻まれたり切手肖像になったりしたことはいっさいない。「“陛下のお顔が手垢にまみれるなど畏れ多い”という菊タブーがあるためである」とか、「明治天皇が自身の肖像を切手や硬貨に載せることを嫌ったからだ」といわれるが、東洋では一般的に統治者の顔を民衆に公表する伝統がないので、歴史的に見ても統治者の肖像画も少なく貨幣に刻印することもほとんどない。
戦後、日本では国家主義や皇室礼賛を標榜する右翼団体による街宣車を使った公道での街宣活動がしばしば見られる。使用される街宣車は、大判の日章旗や菊花紋章旗を掲げ、団体名が大書された黒塗りの大型車であることが多い。取りつけられたスピーカーから大音量で軍歌や演歌を流す、あるいは自らの政治的思想等を喧伝する[29]。
選挙活動中に立候補者や政党が名前等を連呼するために使用される選挙カーも、現代日本における一つの街宣およびプロパガンダといえる[注釈 27]。
なお、日本のように威圧的なものではないが、アメリカのロビー活動を行う団体の中はワシントンD.C.周辺などを自動車で周回し、特定の政策の宣伝活動を行う事例が存在する[30]。
国歌に愛国的な歌詞や他国を攻撃するような歌詞、元首を称える歌詞を挿入し、繰り返し聞かせ、また歌わせることで洗脳していく。また、イギリスにおける「希望と栄光の国」やアメリカにおける「ゴッド・ブレス・アメリカ」などの「第2国歌」的な「愛国歌」や、共産主義国における「インターナショナル」のような「革命歌」や「党歌」をあえて制作し、戦時のみならず平時においても、国威発揚のためのツールとして、国家とともにさまざまな場面で流したり合唱させることも多い。いわゆる「軍歌」もこの手法の1つと言える。
日本でも戦時になると、庶民的人気を誇る「流行歌」に対する厳しい取り締まりが行われ、戦意高揚を狙った戦時歌謡や軍国歌謡が政府や軍の主導だけでなく民間でも自主的に製作され、ラジオを通じて放送された。戦後になると、左派による「うたごえ運動」として反戦歌、労働歌や革命歌などが広く歌われ、左派の政治活動と深く結びついた。
敵国の音楽を悪い文化の象徴であると喧伝する手法もあり、ナチス・ドイツではアメリカで始まり1920年代にはイギリスでも流行していたジャズをシュレーゲムジーク(ドイツ語で「変な音楽」の意)と呼び、アメリカ人が広める退廃的な文化であるというプロパガンダを流していた。ソビエト連邦など共産主義国家でも同様にジャズやロックなどの西側の音楽を敵視するプロパガンダを流していた。
ソ連や共産主義国家においては社会主義革命を正当化させ、人民の団結を奨励する「革命歌」が作られた。これらの曲は、事実上の共産党の「党歌」であり、ほかの共産主義国のみならず、資本主義国における左翼的な労働組合運動においても歌われることがあった。なお、ドイツのナチス党も「旗を高く掲げよ」のような「党歌」を国家内に広めた。
軍隊においても愛国心や団結精神の高揚を狙った隊歌が部隊単位で制作され、式典の際に唱和される。
代表的な「第2国歌」や「革命歌」、「党歌」としては、次のようなものがある。
かつて日本においても、君が代に代わり得る新国歌や第2国歌を作るいくつかの運動が起こり、各種の企業・団体が公募などで集めた歌より選び、世に広めようとしたが、GHQの占領政策の影響もあり、その後の世代に伝えられなかった。
第二次世界大戦時の日本では、国家の統制管理下に芸術家らを置き、政府直轄の芸術家協会(報国会)に所属させ表現を利用した。反体制主義の芸術家は投獄、協会へ所属しない者は即召集とされた[注釈 31]。日本の植民地であった台湾島での実話をもとに誇張、脚色した「サヨンの鐘」など愛国美談として語られ製作されたものもある。
ナチス党政権下のドイツでは、抽象画やモダンアート、アバンギャルド芸術やコンテンポラリー・アートを「退廃芸術」と称し、かつて美術館が買い入れた作品を集め、「退廃芸術展」という美術展を各地で開催した。作品は粗末に扱われ、罵倒に満ちた解説と、国による購入価格も並べて展示された。退廃芸術展の総入場者数は300万人を超え、史上最大の観客数を集めた美術展となった。また、音楽分野でも「退廃音楽展」が開かれている。
一方で、ナチス党が奨励する芸術を集めた「大ドイツ芸術展」も開かれている。その内容はヒトラー好みの分かりやすい内容であり、その描写方法や内容は敵であるはずのソ連の社会主義リアリズムにも類似する。
古代から芸術家は権力者から庇護を受けることで芸術活動を行い、作品が後世に残される可能性が高まる。現在、名作とされる作品にも権力者の依頼により製作されたものが多くあり、その権力者を礼賛するために制作された作品も少なくない。近代以降、芸術の大衆化により芸術家は必ずしも権力者から庇護を受ける必要はなくなったが、商業上の成功を目的として作家自身が大衆の求めに応じる形で意図せずプロパガンダを助長する作品を製作する例も多い。また、権力や時流により不本意ながら体制を称える作品を製作せざるを得なかった芸術家もいた。逆に体制に便乗して、多少の不満は抑えて自分の才能を積極的に売り込むことを意図した芸術家もいた。
また、ロシア・アヴァンギャルド運動やプロレタリア文学のように、芸術の表現により政治的な変革を目指すといったプロパガンダと不可分な芸術活動も存在する。
一方でこうした芸術家は、プロパガンダに協力したということで、のちに不当に低い芸術的評価を受けることもある。藤田嗣治は戦時中に戦争画を描いたことで、戦後になって日本の美術界を追放され、フランスで制作活動に従事せざるを得なくなった。
それに対し、体制側が自己が主張する政治信条に合わせた芸術を嗜好する傾向も見られる。たとえば、まったく新しい体制を目指す場合は新進の芸術運動を保護し、復古的体制を目指す場合には復古的芸術運動を保護する。
旗や紋章はその所属する立場をわかりやすくし、プロパガンダの効果を高める。古代から洋の東西を問わずに用いられてきた。軍隊の軍旗などが典型例である。ドイツのナチス党によって使用されたハーケンクロイツは特に有名であり、現在もナチスの象徴として広く知られている。そのため欧米では似通った模様の「卍」の使用すら忌避される傾向がある。
巨大建造物の建設は古代から為政者にとり、自己の権力を誇示し、己の世界観を視覚的に宣伝する手段として広く用いられてきた。現代でもそれは変わらず、為政者の権力を誇示し、イデオロギーを視覚的に宣伝する手段として、特に権威主義的中央集権国家でこれらの構造物が多くみられる。たとえば新古典主義建築はナポレオン・ボナパルト治世下のフランスやナチス党政権下のドイツ、ファシスト党政権時代のイタリアで多数建てられている。スターリン統治下のソ連でも、壮大な巨大建造物が国家の肝いりで次々と建てられた。それらの建築群をスターリン様式と呼ぶ。
また、古代から国家や民族の創始者とされる人物や英雄、君主、信仰対象である神や仏の像も、集団のあり方を具体的に提示し権力者の権威を示すものとして用いられている。特に西欧では君主の像が古代ローマの甲冑をまとわせるなど、正統なローマ帝国継承者を想起させる演出もなされたほか、君主の肖像画を公共の場に掲示して、被支配層にも君主の顔を公示する伝統がある。
一方で貧困などの不都合な事実を隠すために、立派な外観の建物やモデル村落などを作り、外国人や報道陣などに公開する場合もある。こうした見せかけだけの建物は「ポチョムキン村」と呼ばれる。
山や岩、海、川なども民族や国家の象徴としてプロパガンダとなる。アメリカのラシュモア山のようにプロパガンダとして自然物に手を加え、環境破壊が発生することもある。
ファッションは発言者の印象を大きく左右するために、イメージを向上させるためにさまざまな工夫が施される。また、独自の衣服を着ることでイメージを定着させる方式もある。集団で独自の衣装を着、集団内での団結力の向上や、示威作用を得ることもある。黄巾の乱や紅巾の乱、ボリシェヴィキの革服[31]、ファシスト党の黒シャツ隊、国家社会主義ドイツ労働者党突撃隊の茶色開襟シャツ、毛主席語録が必携でこれを掲げて練り歩いた紅衛兵、日本の国旗や旭日旗を掲げてデモ行進する行動する保守の事例が知られる。
建国神話は国家の正当性を表すため、重要な位置を占める。また、人々に広く知られる伝説や物語はプロパガンダに利用されるものがある。ただし、革命により成立した共和制の人工国家は神話は持たない[注釈 48]。
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