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江戸市中への飲料水が流れていた上水道 ウィキペディアから
玉川上水(たまがわじょうすい)は、江戸市中への飲料水が流れていた上水道。江戸の六上水の一つ。
江戸時代前期の1653年(承応2年)に多摩川の羽村から四谷までの高低差92.3メートルの間に全長42.74キロメートルが築かれた[1]。取水口から送水先までは全て現代の東京都内にあり、一部区間は現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。
羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、現在の四谷四丁目交差点付近にあった四谷大木戸に付設された「水番所」(水番屋)を経て、江戸市中へと分配されていた。羽村市から大木戸までの約43キロメートルは全て露天掘りで、水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道である。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている[2]。
1722年(享保7年)以降の新田開発によって、野火止用水や千川上水など多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した。
井の頭の湧水を利用する為に、鈴木氏と秦氏(久我山氏)の両豪族によって井の頭池から高井戸の区間が掘削され、更に高井戸から北沢用水として上北沢方面へ分水がされていた。『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀より6000両(600,000,000円)もしくは7500両(750,000,000円)[3]が拠出された。
幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは承応2年(1653年)の正月で、同年4月4日に着工した[注釈 1][5]。
羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど、浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「かなしい坂」参照)。2度目は福生を取水口としたが、同様に水喰土によって[6][7]、もしくは岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み―」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み―」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立―」を立案した。
この第3案に従って工事を再開した。しかし工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところで幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は畑や家を売って費用に充てた[8]。追加資金は3000両だった[5]。承応2年(1653年)11月15日、着工から約8カ月後(承応2年は閏年で6月が2度ある)に羽村・四谷大木戸間を開通させた[注釈 2][5][9]。そして承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された[注釈 3]。
庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。
なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い[注釈 4]。安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。
玉川上水の給水地域は『御府内備考』に簡略で分かり易く説明されている。
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水上修復料銀が費用に充てられていた。
江戸の飲料水の貴重な水源であり、水質を守るため、洗い物、漁撈、水浴び、塵埃(ごみ)の投棄はご法度として厳重に取り締まられ、水路の両側幅3間での樹木や下草の採取も禁止されており、その旨を伝える元文4年(1739年)の高札が現存している[11][注釈 5]。
羽村、代田村(現在の京王線代田橋駅付近)、および四谷大木戸には水番所(水番屋)が置かれ、水番人が詰めて塵芥の除去などを行っていた。このほか大木戸の水番所は、市中への配水量を調節しつつ、余った水を渋谷川(穏田川)[注釈 6]へと放流する役割も行っていた。
近代になるとより多数の「水衛所」が置かれ[12]、同様の管理を行ったが、淀橋浄水場の閉鎖とともに多くの水衛所は役割を終えた。現在は小平監視所が水質監視・管理の業務を行っている。
上水沿いには桜(ヤマザクラ)の木が多く植えられた。花見客に堤を踏み固めてもらうのと、桜の花びらが水質を浄化すると信じられていたことによる。なかでも「小金井の桜」は評判を得、江戸時代から第二次世界大戦前にかけて多くの花見客で賑わった[注釈 7]。大正13年に国の名勝に指定された。
この節では、玉川上水の流路について、現在の状況に基づいて概観する。
現在の玉川上水は、保存状態・利用状況の違いによって、おおまかに3つの区間に分けて考えることができる。 すなわち、上流から順に「多摩川からの導水路として今も供用されている区間」「清流復活事業によって少量の水を流している区間」「大部分が暗渠化され、水路としても水辺としても利用されていない区間」である。 以下では便宜的に、これらの区間をそれぞれ「上流部」「中流部」「下流部」と呼ぶこととする。
江戸時代同様、多摩川から取水した水がそのまま流れ、水量も豊富な区間である。
羽村取水堰(東京都羽村市)からしばらくは多摩川にほぼ並行して南南東へ流れるが、拝島駅のすぐ東で向きを変え、以降は西武拝島線のやや南を東へ向かう。北から南へ流れる残堀川を立体交差で越え[注釈 8]、玉川上水駅(西武拝島線・多摩都市モノレール)のすぐ南で多摩モノレールをくぐり、ほどなく小平監視所に至る。
多摩川水系は現在でも東京の上水源の1/3ほどを占めており、毎秒17.2立方メートルの水が水道用水の原水として利用されている。羽村取水堰で取水された水の大部分は、下流約500メートルに位置する第3水門(座標:北緯35度45分11.60秒 東経139度18分45.94秒)から埋設鉄管によって山口貯水池(狭山湖)・村山貯水池(多摩湖)へ送水され、最終的には東村山浄水場(東村山市)で利用される。
残りの水はさらに下流、玉川上水駅付近の清願院橋から300メートルほど下流にある小平監視所(旧称:小平水衛所)で取水され、東村山浄水場、および現役の農業用水路である新堀用水の双方に送水されている。なお、小平監視所は、かつては玉川上水と野火止用水の分水地点であった。
東京都の清流復活事業に従って再生水を流している区間である。古くからの樹木がよく茂り、豊かな木立に覆われている箇所が多い。
小平監視所より下流は、かつては多量の水が淀橋浄水場まで送られていたものの、1965年(昭和40年)の同浄水場廃止とともに送水を停止し、以降は水道施設としての利用はない。その後、長く“空堀”状態であったが、1986年(昭和61年)、都の策定した「清流復活事業」により水流が復活した。昭島市宮沢町にある東京都下水道局多摩川上流水再生センターにて下水に高度二次処理を施した再生水が、このために送水されてきている。途中、JR武蔵境駅北方の境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)付近で分水して千川上水へも再生水の20%を分流させている。
流路は一貫して東流、ないしは南東流を続ける。北方には石神井川(荒川水系)、南方には仙川(多摩川水系)が流れる。一橋大学小平キャンパスの傍らにある商大橋地点から前述の境橋までは五日市街道と併走。その後境浄水場の脇を流れ、三鷹駅の直下を潜り抜けて井の頭公園を横断し、神田川の500メートルばかり南方を並ぶようにして流れる。途中の牟礼橋(むればし)付近からは、流路を東京都市計画道路放射第5号線(東八道路と接続)の上下線が挟む形で並行する。
京王井の頭線富士見ヶ丘駅の南方、往時には橋が架かり浅間橋(せんげんばし)と呼ばれていた地点の付近で中央自動車道にぶつかる。開渠区間は浅間橋の200メートルほど上手でひとまず終わっており、清流復活事業の区間も当地点までとなっている。
この区間では、一部の例外を除いて、水路のほとんどが暗渠化されている。しかしながら、道路の下になってしまった一部の区間を除き、大半の区間では流路の痕跡を辿ることができる。現在では、その多くは緑道や公園として整備されている。
浅間橋からしばらくの区間は、中央自動車道の下に隠れる形になり、同道建設時に暗渠化されている。 流水は1キロメートルほど地下を流れた後、環状八号線と交差するかつての中の橋地点にて同線に埋設された鉄管へと導かれ、京王井の頭線高井戸駅前付近で神田川に放流されている。
京王線上北沢駅北方地点から、流路は中央自動車道を離れ、公園として整備された形態がしばらく続く。京王井の頭線との交差地点では玉川上水が線路をまたぐ形になっており、地上に露出した巨大な鋼管を見ることができる。そのすぐ東には、流路の真上に立地する形で東京都水道局の和泉水圧調整所が設置されている。ここはかつて旧上水と玉川上水新水路との分岐点であった。北方にはそれまでと同様に神田川が流れ、南方には目黒川・渋谷川が流れる。
京王線代田橋駅付近から笹塚駅付近にかけては、一部区間(3か所)が暗渠化を免れて残っており、流れはほとんどないものの水を湛えていて、鯉や亀などの姿が見られる。これは付近の地層から湧出した地下水が流下しているものである。
京王線幡ヶ谷駅・初台駅間にある渋谷区の本町一丁目交差点地点から文化学園大学東方の西新宿二丁目交差点地点までは、1936年(昭和11年)以来、京王線の敷地として利用されている。当初は玉川上水に並行して電車が走っていたが、その後上水は暗渠化されて路線用地に転用された。現在は路線も地下化され、地上部は遊歩道などに再転用されている。
新宿駅近辺より東では、玉川上水の面影は再び途絶えるように見えるが、流路は地下に保全されている[13]。1986年(昭和61年)の清流復活事業に際し行われた東京都の通水試験では終点の四谷大木戸まで通水可能であった。終点に近い新宿御苑付近では、旧上水は御苑北縁の道路下に埋設されていて、大雨時などの下水越流時には千駄ヶ谷幹線(穏田川)へ連なる排水路として利用されている。 地上には新宿区により「玉川上水を偲ぶ流れ」(玉川上水・内藤新宿分水散歩道)の整備が進められ[14][15]、2012年3月に完成した[16]。この流れの水源には新宿御苑トンネル共同溝内に湧出した水を使用している[17]。
玉川上水の終点である旧四谷大木戸地点には東京都水道局新宿営業所及び新宿区立四谷区民センターがあり、傍らに「水道碑記」(すいどうのいしぶみのき)が建てられている。往時、ここに水番所があり、ここから先は埋設された石樋・木樋を通して江戸市中各地へと配水していた。
1898年(明治31年)、淀橋浄水場の新設に伴い、現在の和泉給水所地点から浄水場まで定規で引いたような一直線の水路が開削され、これを新水路と呼んだ。1921年の龍ヶ崎地震で一部が損壊したが、後に旧水路から新水路への揚水用ポンプ8台が畠山一清による寄付で設置された[18]。関東大震災の発生時には、隧道部の損壊や盛土が崩壊して水路が決壊したため[19]、旧水路と揚水用ポンプが利用された[18]。1937年(昭和12年)には、代わりとなる導水管が甲州街道の下に埋設され、新水路は廃止された[19]。跡地のほとんどは、水道道路と都営住宅に転用されている。
『上水記』によれば、玉川上水からは飲料および灌漑目的で33の分水が作られ、武蔵国内で新田や畑の開発が行われる。明治3年(1870年)には、複数の分水口をまとめる分水口改正が行われ、取水箇所の整理が行われた。一方、明治期に新たに開設された分水も存在する。
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ほかに恋ヶ窪用水、田無用水、鈴木用水、仙川分水、原宿村分水など。
玉川上水は、近世初期における優れた測量技術に基づいた長大な土木構造物であり、当時の水利技術を理解していく上で重要であり、さらに、大都市江戸の用水供給施設として、また武蔵野台地における近世灌漑用水としても貴重な土木遺産であることから、2003年(平成15年)8月に国の史跡に指定された。指定範囲は、羽村取水口から四谷大木戸までの水路敷のうち開渠部分の約30.4キロメートルである。
約70団体が「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」を組織しており、2019年に「市民が選んだ玉川上水・分水網関連遺構100選」をまとめ、世界遺産登録を目指している[26]。
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