美保 純(みほ じゅん、1960年8月4日 - )は、日本の女優、コメンテーター。本名、曽根 ちよ美(そね ちよみ)[1][2]。
概要 みほ じゅん 美保 純, 本名 ...
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静岡県静岡市(現葵区)出身。ノックアウト所属。
静岡市出身。実家は木工業を営み、父は家具職人[3]。兄と姉がいる[4]。中学生時代、部活はバレーボール部に所属[5]。
静岡精華学園高等学校中退[6][3][2]。静岡市内のデパート勤務の後、1980年に「ディスコ・クィーン・コンテスト」へ出場して優勝する(審査員の1人は小林克也だったことをオフィシャルブログ内で明かしている)。その後上京して広告代理店でアルバイト中にスカウトされ[3](スカウトしたのはテレビドラマや映画のプロデューサーで、1983年当時美保の所属していたプロダクションの社長でもあった大曲暎一[7])、1981年に映画『制服処女のいたみ』で主演デビューする。1982年には映画『ピンクのカーテン』でブルーリボン新人賞を獲得した。
「隣のお姉さん」的な親しみやすいキャラクターで、週刊誌のグラビアなどに登場して人気を博し、デビューから約1年後には一般映画にも出演した。『男はつらいよ』でタコ社長(太宰久雄)の娘・あけみ役などに抜擢される。
現在も多くの映画、テレビドラマ(『菊次郎とさき』、『クライマーズ・ハイ』)、バラエティ(『Dのゲキジョー』パネラー)に出演し、活躍している。
- デビュー前、静岡市内にあった西武百貨店に勤務していた。そのデパートの目の前で静岡駅前地下街爆発事故が発生した。大騒ぎの最中、店内に美保の姿がなく、確認が取れなかった。もしや店外に出た際に爆発に巻き込まれたのではないか? と懸念の声が上がっていたまさにその現場に、周囲が騒いでいる光景に驚いた顔をしている美保が現れた。実は事故が起きた時間帯は美保の昼休み時間に当たっており、恋人と狐ヶ崎ヤングランドに出掛け、デートを楽しんでいたという。同僚や上司は安堵するやら、呆れるやらだったという。美保自身も自著で「当日、休みだったら巻き込まれていたかもしれない」といったようなことを振り返っている[8]。
- デビューした当初は、公式プロフィールの年齢を1歳サバ読んでいた。デビューが決まった当時20歳だったが、「10代でヌードになるのと20歳でなるのとではインパクトが全然違う」と当時のマネージャーから言われ、19歳でデビューしたようにされていた[3][注釈 1]。
- デビュー前は一時期、コメディアン志望だった頃もあった[2]。
- 1982年に日清食品「焼そばUFO」のテレビCMに出演した。にっかつロマンポルノでデビューした女優がCM出演することは当時では珍しかった。また、同年国鉄夜行バス「ドリーム号」のポスターに採用された。掲示していたポスターが粗方盗まれるほどの人気ぶりだった。
- 1989年5月5日、当時のボーイフレンドが運転するオープンカーに同乗していた時に電柱に衝突する事故に遭い(「本人が運転していて事故を起こした」は誤った情報)、その際、フロントガラスに頭から突っ込んでしまい、破片が頭部や顔面を激しく裂傷する怪我を負ったため事故の治療のため8針ほど縫った。またその後、女優でタレントであることを考慮し、傷痕や引き攣りなどを修正するため美容外科で手術を施した[9][注釈 2]。
- 『5時に夢中!』では中村うさぎとの掛け合いの絶妙さから「うさじゅん」コンビと呼ばれていた。
- ポルノ女優時代のことを隠そうとはしておらず、『5時に夢中!』でも自ら当時の裏話や思い出話をすることが多い。
- 周囲には女優を続けていくと思っていた者は少なく、初めてテレビドラマのレギュラーをもらった時には、共演の火野正平に「早く300万円くらい貯まったら、やめろ。なっ。」と早々の引退を勧められていた[10]。
- 小顔のため、デビュー当時のニックネームは「干し首ミイラ」だったとのこと[11]。
- 「美保純」という芸名の由来について、名字の『美保』は三保の松原から取ったものであり(名付け親は映画監督の渡辺護)[12]、名字は「松原」も候補になったが響きが良いということで三保→美保の方を選んだ[13]。下の名前の『純』はデビュー当時に“レイコ"や“ジュンコ”といった芸名が流行っていたことからジュンコを取り、「ミホジュンコ」だと語呂が悪いので“子”の部分を省いて「美保純」となったという[13]。
- 2013年の『あまちゃん』が人気ドラマとなったため、同年のNHK紅白歌合戦に出演メンバー一同でゲスト出演することになったが、美保は「ハンテン着せられて踊るだけでしょ? 3秒くらいしか映らないのに、大みそかに待機してたくない」と出演を断り、趣味も兼ねて裏番組の新日本プロレス特番(BS朝日)に出演していた。そのため、宮藤官九郎脚本のショートコントでは「東京までは一緒に来たけど、一人だけどっか遊びに行ってしまった」と語られていた。
- 1982年 - ブルーリボン賞・新人賞(『ピンクのカーテン』その他)
- 1982年 - ゴールデン・アロー賞・グラフ賞
- 1983年 - 日本アカデミー賞・新人俳優賞(『ピンクのカーテン』シリーズ)
- 1987年 - 日本アカデミー賞・助演女優賞 (『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』『キネマの天地』)
テレビドラマ
NHK
日本テレビ
テレビ朝日
TBS
フジテレビ
テレビ東京
WOWOW
BS松竹東急
tvk
ラジオ
- 美保純のほのぼのピンク→美保純のほんのりピンク→美保純の気楽にいこうよ(文化放送)
レコード
- 裏切り人形(ドール) 1982年発売デビュー曲[26]
- C/W 恋哀劇
- やっぱ酔うしかないよね
- C/W Shadow Dancer
- 憎みたいほど...SUKI
- C/W ベッドでSUNRISE
- O・KA・TA・ZU・KEの唄 1984年12月16日発売
- C/W ブライダル・コンプレックス
- 二人のメラメラ(鶴 & JUN)片岡鶴太郎とデュエット
LPレコード
- プライベート・シアター 1983年発売 8ページ写真集付
- O・KA・TA・ZU・KE 1984年 全6曲
注釈
『風に吹かれて』巻末(p.220)のプロフィールも「1961年(昭和36年)生まれ」となっている。また年齢の1歳詐称は、平成に入るまで続いていたようである[1]。
美容目的というよりは、元に戻すことを前提にした内容であったという。また、美容外科医から美容目的の内容も勧められたと言うが「これ以上治す(手を加える)と美保純ではなくなってしまう」と拒否したことも告白した。
出典
週刊テレビ番組(東京ポスト)1989年10月13日号 p.46「プロフィール」
河北新報 1982年7月10日夕刊 8面「登場」コーナー
週刊文春 2007年2月15日号「新・家の履歴書」(p.110 - 113)
週刊テレビ番組(東京ポスト)1989年10月13日号 p.46
週刊テレビ番組(東京ポスト)1982年11月26日号「芸名由来記」56頁
“相関図”. 【ドラマ24】錦糸町パラダイス〜渋谷から一本〜. テレビ東京. 2024年9月1日閲覧。