トップQs
タイムライン
チャット
視点

釈迦

紀元前の北インドの人物、仏教の開祖 ウィキペディアから

釈迦
Remove ads

釈迦(しゃか、旧字体釋迦サンスクリット: शाक्यमुनिŚākyamuni)は、北インド[5]の人物で、仏教開祖。ただし、存命していた時代については後述の通り紀元前7世紀紀元前6世紀紀元前5世紀など複数の説があり、正確な生没年は分かっていない。

概要 釈迦, 生地 ...
概要 ガウタマ・シッダールタ गौतम सिद्धार्थ, 在位 ...
概要 中国語, 繁体字 ...

釈迦は輪廻からの解脱を目指した。仏教の教義は多様化しているが歴史学的・宗教学的には「死後に天界を含めて、一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」を釈迦は目指していたと説明される(大乗非仏説参照)[6][7]

姓名はサンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ: गौतम सिद्धार्थ Gautama Siddhārtha[8][9])、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ[10]: Gotama Siddhattha)とも表記される。漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である[9][注釈 1]

仏舎利と言われる遺骨は真身舎利、真正仏舎利として今も祀られ、信仰を集めている。

Remove ads

名前と呼称

要約
視点

「釈迦」

シャーキヤ(: शाक्य Śākya)は、釈迦の出身部族であるシャーキヤ族[8]またはその領国である、シャーキヤ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキヤを音写[8]したものであり、旧字体では釋迦である[11]

シャーキヤムニ(: शाक्यमुनि Śākyamuni)はサンスクリットで「シャーキヤ族の聖者」という意味の尊称であり、これを音写した釈迦牟尼/釈迦牟尼仏(しゃかむに/〃ぶつ)[12]を省略して「釈迦」と呼ばれるようになった[8]天台宗や、臨済宗をはじめとする禅宗などで多く唱えられる念仏である「南無釈迦牟尼仏」も南無は「あなたにおまかせする」という意であるため「釈迦牟尼仏にすべてお任せします」という意味である[13][出典無効][14][出典無効]

姓名

パーリ仏典では、釈迦の父方の従兄弟・アーナンダもゴータマと呼ばれており、釈迦の母のマーヤーと母方の叔母で養母のマハー・プラジャーパティーはゴータマの女性形であるゴータミー(: Gotamī)と呼ばれている[15][16][17]

ガウタマ(ゴートラ)はアーンギラサ族英語版: aṅgīrasa)のリシガウタマの後裔を意味する姓であり、この姓を持つ一族はバラモンである。クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がガウタマであることは不自然であり、先祖が養子だったとする説などがある[18]

名のシッダールタは、古い仏典に言及が無いこと、意味が「目的を達成した人」と出来過ぎていることから、後世に付けられた名前とする説がある[19][20]

尊称・敬称・異名

ブッダ: बुद्ध buddha)は、「目覚める」を意味するブドゥ(: बुध् budh)に由来し、「目覚めた人」という意味である[10][注釈 2]。もともとインドの宗教一般において、すぐれた修行者や聖者に対する呼称であったが、仏教で用いられ釈迦の尊称となった[21]。このため、ゴータマ・ブッダ[10]ともいう。漢訳の音写は仏陀、旧字体では佛陀であり、意訳は覚者である。仏陀の略称がであり、「仏教」や「仏像」などの用語はこの尊称に由来する[22]。「仏陀」の発音については「ぶっ-だ」の他に「ぶつ-だ」とも読まれる。

釈迦の異名は多くあるが、その中でも十号がよく知られている[23]

タターガタ: तथागत tathāgata)は、「そのように来た者」または「そのように行った者」[24]を意味する釈迦の尊称である。音写は多陀阿伽度、意訳は如来であり[25][26]釈迦如来ともいう。また、バガヴァント英語版: भगवन्त् Bhagavant)は、世の中で最も尊い者を意味する釈迦の尊称であり[27]、音写は婆伽婆もしくは薄伽梵、漢訳は世尊である[27]

仏教では、釈迦牟尼仏[28][29]、釈迦牟尼如来[28]、釈迦牟尼世尊[30]としたり、またそれらを省略して、釈尊[9]牟尼[31]釈迦尊仏様お釈迦様と呼ぶ。

Remove ads

生涯

要約
視点

釈迦について同時代の一次史料は乏しく、人種さえ不明である。

大乗仏教上座部仏教のどちらにおいても釈迦は六神通を使う超人的な存在として捉えられている。そのため経典が伝える釈迦の生涯(仏伝)は超人的な逸話が多いうえに、大乗非仏説に基づけば、大乗経典は後世に成立した信仰や教義に合わせて仏伝を改変する傾向もあるとされるため、実在の人物としての釈迦の生涯を知る上では注意して取り扱わなければならない。釈迦の生涯を体系的に網羅した書籍としては『ブッダチャリタ』が著名である。

本項の以下の記述は、伝統仏教の信仰的説話の内容(高等批評に基づけば後世の創作とされるもの)も含むものである。

誕生から青年期

Thumb
十六大国時代のインド(紀元前600年
Thumb
白象懐胎(大英博物館所蔵、製作年代は1世紀から2世紀頃)

釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国属国であるシャーキヤラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである[32]。マーヤーは、出産のための里帰りの途上、カピラヴァストゥ郊外のルンビニで子を産んだ[9][注釈 3]

仏教の教義では、釈迦は六道輪廻の中で善行を積み天界兜率天)に転生していたが、成道のため現世に降下することにし、釈迦は白象に化して母マーヤーの胎内に宿り、産みの苦しみを与えないためマーヤーの産道を通らず右の脇腹より生まれ出たとされる[33]。そして生誕した釈迦は七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と宣言したとされる。釈迦は生誕時には過去世の記憶を保っており上記の宣言をしたが、その後普通の人間と同じく過去世の記憶を失った。時は流れて釈迦が悟りを開いてブッダになると六神通を得て、六神通の一つである宿命通によって釈迦は過去世の記憶を全て取り戻した、と説明される。

白象懐胎についてキリスト教の教義と混同した西欧人学者によって「マーヤーは処女懐胎によって釈迦を受胎した」と説明されることもあるが、梶山雄一は、『方広大荘厳経』には白象懐胎によってシュッドーダナとの性行為によらずマーヤーが釈迦を受胎したとの記述は見られるものの、釈迦を受胎したときマーヤーが処女であったとする記述は仏典には見られないとしている[33]

上座部仏教の『パーリ仏典希有未曾有法経では釈迦の生誕時の言葉について「私はこの世界で最上の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」、すなわち私はこれまで輪廻転生を繰り返してきたが、前世で功徳を累積し誰も到達したことのない悟りに最も近い者である、兜率天から降下し今世の生で悟りを得て解脱涅槃に入ってみせるという釈迦の決意表明だが、上座部仏教より後に成立した大乗仏教では久遠常住などの教義にそぐわないためか後半の「これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」が省かれて前半のみの「天上天下唯我独尊」となり意味合いが分かりにくくなっていると説明される[34](詳しくは大乗非仏説参照)。

サーリプッタが言った。 「私は未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。このように美わしき師、衆の主(釈迦)が兜率天から来りたもうたことを。

眼ある人(釈迦)は、天の神々と世人が見るように、一切の暗黒を除去して独りで法楽を受けられた。
スッタニパータ』八つの詩句の章(抄)[35]

マーヤーは釈迦を出産した7日後に死去した[36]。マーヤーが出産した子はシッダールタと名付けられた[32]。シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられた[9][32][注釈 4]

釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけるが[要出典]、「教えることが無くなりました」と教師が辞任を申し出たという話があるほど聡明であったと言われている[37]。16歳または19歳で母方の従妹の[要出典]ヤショーダラーと結婚し、跡継ぎ息子としてラーフラをもうけた[9]

出家

当時のインドでは沙門といった修行者が出現し、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、アーリア人による伝統的価値観とは異なる新思想運動を展開していた[38]

釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、四門出遊の故事がある[9]。釈迦が初めてカピラヴァストゥ城から外出したとき、最初の外出では老人に会い、2回目の外出では病人に会い、3回目の外出では死者に会い、この身には老いも病も死もある、との避けられない苦しみを感じた(四苦)[39]。4回目の外出では一人の沙門に出会い、老いと病と死にとらわれない違った生き方を知り、出家の意志を持つようになった[40]

なぜ私は、みずからの法(ダルマ)を有する者でありながら生まれるものを求め、みずから老の法を有する者でありながら老いるものを求め、みずから病の法を有する者でありながら病めるものを求め、みずから死の法を有する者でありながら死ぬものを求め、みずから憂の法を有する者でありながら憂いを求め、 みずから煩悩の法を有する者でありながら煩悩を求めているのだろうかと。[41][42]

釈迦は王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家した[9][42]。ラーフラが産まれて間もない頃、深夜に釈迦は王城を抜け出した[9]。当時の大国であったマガダ国ラージャグリハを訪れ、ビンビサーラ王に出家を思いとどまるよう勧められたがこれを断った[9]。また、バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天界に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天界の幸いも尽きればまた六道輪廻すると悟った(天人五衰も参照)[43]。釈迦は、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず[9]、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。この三人の師は釈迦の優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、釈迦はこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った[44][43][9][45]

Thumb
6年の苦行の後に山から出てくる釈迦を表した像。室町時代の15世紀から16世紀の作。奈良国立博物館蔵。

そしてウルヴェーラーヒンディー語版の林へ入ると、父のシュッドーダナは、釈迦の警護も兼ねて五人の沙門(のちの五比丘)を同行させた。その後6年の間に様々な苦行を行った[9][45]断食修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごした[44]。断食修行によりシッダールダの心身は消耗し、骨と皮のみのやせ細った肉体となっていた[44]

私はこれらの辛い苦行によっても、人法を超えた聖なる智見殊勝を証得しなかった。菩提のためには、別の道があるのではないだろうか。[44]

しかしスジャーターの施しを得たことで(乳粥供養)、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟って釈迦は苦行をやめた(苦行放棄[9][44]。その際、五人の沙門は釈迦を堕落者と誹り[44][9][45]、彼をおいてワーラーナシーサールナート[要出典]去った[9]

悟り

Thumb
ブッダガヤの大菩提寺ゴータマ・ブッダの菩提樹

釈迦は、悟りを開く直前に悪魔(マーラ)による様々な誘惑を受けたが、それをすべて退けた(降魔成道)[9]

釈迦は、ガヤー(現在のガヤー県内)の近くを流れるナイランジャナー川英語版沐浴したあと、村娘のスジャーターから乳糜布施を受け[11][9]、体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となったとされる(成道)[9]。悟り得た釈迦は六神通を体得した。

解脱したとき、「解脱した」という智が生じました。
「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。(漏尽通によって)もはや二度と生まれ変わることはない」と了知したのです。[44]

この後、釈迦は宿命通で自身の過去世を回想し、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの余韻を味わった。そののち縁起十二因縁を悟ったといわれる。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わったという。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた[46]。その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、「を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至り、そのまま涅槃に入ることも考えた[47][41][44]

ところが梵天が現れ、衆生に法を説くよう繰り返し強く請われたとされる(梵天勧請[44][41][47]。3度の勧請の末[47]、釈迦は世の中には煩悩の汚れも少ない者もいるだろうから、そういった者たちについては教えを説けば理解できるだろうとして開教を決意した[41]

Thumb
五比丘

釈迦はまず、修行時代のかつての師匠のアーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタに教えを説こうとしたが、二人はすでに死去していたことを知ると[48][45]、ともに苦行をしていた五人の沙門(五比丘)に説くことにした[48][45]

ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五人の沙門に対して中道四諦八正道を説いた(初転法輪[48][9][47][45]。五人は当初、釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが[48][45]説法を聞くうちに解脱した[48][9]。最初の阿羅漢コンダンニャであった[48][47]。法を説き終えた結果、世界には6人の阿羅漢が存在した[48]

釈迦の本来の教えと目指したものは輪廻からの解脱、すなわち死後に天界を含めて一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」だったというのが宗教学上の定説である(大乗非仏説[49][50]佐々木閑は「この世を一切皆苦ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」と説明している[51]。釈迦の教えは輪廻からの解脱を望む人々のための教えで、一切衆生の救済を対象とするものではなかった[52]

教化と伝道

Thumb
ラージャグリハ霊鷲山
Thumb
ラージャグリハ竹林精舎

釈迦は自らブッダ(目覚めた者)を名乗り、主に北インドを中心として教化活動を行った。釈迦の説く法は自ら悟り得たもので「私に師はいない」と釈迦は称した。

バラモンのセーラは言った。「あなた(釈迦)は見るも美しい修行者(比丘)で、その皮膚は黄金のようです。このように容色が優れているのに、どうして求道者となる必要がありましょうか。あなたは転輪聖王(世界を支配する帝王)になって全土(インド全土)の支配者となるべきです。クシャトリヤや地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(釈迦)よ。王の中の王として、人類の帝王として、統治をなさってください。」

師(釈迦)は答えた、「セーラよ。わたしは王だが、真理の王である。真理によって法輪を回すのである。」

セーラは言った。「あなたは目覚めた者(ブッダ)であると、みずから称しておられます。ゴータマ(釈迦)よ。あなたは「真理の王」だと説いておられます。では誰があなたの将軍なのですか? 師の相続者である弟子は誰ですか?あなたが回された法輪を、誰があなたに続いて回すのですか?」

師(釈迦)が答えた。「セーラよ。わたしが回した輪、すなわち無上の法輪はサーリプッタが回す。わたしは、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断った。それ故に、わたしは目覚めた者(ブッダ)である。
スッタニパータ』大いなる章、Sela Sutta(抄)[53]

釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパナディー・カッサパガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は釈迦の六神通を目の当たりにして改宗した[54]。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いていたため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。

釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ビンビサーラは竹林精舎を教団に寄進した[54]。このころサーリプッタマウドゥガリヤーヤナ倶絺羅マハー・カッサパらが改宗した。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。

Thumb
舎衛城祇園精舎

これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラアーナンダアニルッダデーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国のカンマーサダンマ (kammāsadamma) や、ヴァンサ国コーサンビーなどである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティー祇園精舎で開かれた。

このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aṅga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathurā)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (pañcālā)、ヴァンサ (vaṃsa) などの諸国に及んでいる。

入滅までの1年間

アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた荷車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。[55]

最晩年の記録

釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、入滅前の1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。

シャーキャ国の滅亡

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれている。

プラセーナジットの王子ヴィドゥーダバが挙兵して王位を簒奪した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。

ヴィドゥーダバは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。 その後、このヴィドゥーダバも河で戦勝の宴の最中に洪水または落雷によって死んだ。

釈迦はカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。

自灯明・法灯明

釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(: ambalaṭṭhika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

パータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を渡り、コーティ村に着いた。 次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。

この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、

比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。アーナンダよ、如来の教法には、(弟子に何かを隠すというような)教師の握り拳(ācariyamuṭṭhi、秘密の奥義)はない。[56]

と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。

アーナンダよ、汝らは、自(みずか)らを灯明とし、自らをより処として、他のもの(añña)をより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とすることのないように[56]

と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、

ではアーナンダよ、比丘が自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassī)、熱心につとめ(ātāpī)、明確に理解し(sampajāno)、よく気をつけていて(satimā)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。[56]
アーナンダよ、このようにして、比丘は自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである[56]

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。

これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。

入滅

Thumb
涅槃

やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと六神通について説いた[57]

托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagāma) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigāma)、アンバ村 (ambagāma)、ジャンブ村 (jāmbugāma)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (pāvā) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。激しい腹痛に見舞われた釈迦だったが立ち止まることなく、カクッター河で沐浴したのちマッラ国クシナガラへ向かった。釈迦はクシナガラで自らの最期が近いと覚り、クシナガラ近くのヒランニャバッティ河のほとりへ行って横たわり、そこで入滅して涅槃に入った。80歳であった。佐々木閑は釈迦の説く涅槃の意味合いについて「解脱し悟りを開いた者だけが到達できる特別な死であり、二度とこの世に生まれ変わることのない完全なる消滅を意味する」と説明している[58]。『ブッダチャリタ』では涅槃に入った釈迦について「地上においては老・死の恐怖はなく、天上においては天界から落ちる恐怖はない。(中略)生があれば不快が生じる。再び輪廻に生まれないことによる非常な快以上の快はない。」と述べている[59]

悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ、私は説いていたではないか。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在ではないかと。[60][61]

アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「」が、私の滅後は、あなた方の師である。[60]

釈迦の最期の言葉は以下であった。

さあ比丘たちよ、いまあなたたちに伝えよう。

さまざまの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。 [60]

滅後

釈迦の滅後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓。独楼那、徒盧那とも[62])というバラモンの調停を得て仏舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

その八大国とは、

  1. クシナーラーマッラ族
  2. マガダ国のアジャタシャトゥル王
  3. ベーシャーリーリッチャビ族
  4. カピラヴァストゥシャーキャ族
  5. アッラカッパのプリ族
  6. ラーマ村のコーリャ族
  7. ヴェータデーバのバラモン
  8. バーヴァーのマッラ族

である。

弟子たちは釈迦の遺した教えと戒律に従って跡を歩もうとし、何度か結集して、釈迦の教法と律とを阿含経典群にまとめた。

Remove ads

生涯についての歴史学的検証

要約
視点

釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で、一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。

阿含経典群のうち、いずれが古層であるかについて、中村元パーリ仏典の『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし[63]、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲している。

文献

釈迦の生涯を伝える経典

注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のことで、続く数字は巻数とページ数である。

  • 修行本起経 〔大正・3・461〕
  • 瑞応本起経 〔大正・3・472〕 - これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。
  • 過去現在因果経 〔大正・3・620〕 - 普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。
  • 中本起経 〔大正・4・147〕 - 成道から晩年までの後半生について説く。
  • 仏説衆許摩房帝経 〔大正・3・932〕
  • 仏本行集経 〔大正・3・655〕 - これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。
  • 十二遊経 〔大正・4・146〕 - 成道後十二年間の伝記。
  • 方広大荘厳経(普曜経) - これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている[要出典]
  • 仏所行讃 〔大正・4・1〕(梵:Buddha-carita) 馬鳴
  • マハーヴァストゥ
  • 遊行経 『長阿含経』中
  • 仏般泥洹経 白法祖訳
  • 大般涅槃経 法賢訳 - 以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの。
  • 自説経(ウダーナ)』 - パーリ語による仏典[注釈 5]
Thumb
アショーカ王の建てた石柱には、ブラーフミー文字で『ブッダ生誕地なのでルンビニでは税を免除する』と刻まれている。

遺跡

ルンビニ

1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラー英語版ネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。

カピラヴァストゥ

シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教イスラム教にとってかわられ、釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。

ネパール中南部のティロリコート英語版と、インド側ではネパールとの国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワー英語版の両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で、位置を巡って論争になっている。

1898年にイギリス駐在官W・C・ペッペが、ピプラーワーから、「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている[64]。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている[65]

生没年

釈迦の没年は、アショーカ王の即位年(紀元前268年ごろ)を基準に推定されている。しかし、釈迦の死後何年がアショーカ王の即位年であるかは典拠によって違いがあり、特に北伝仏教南伝仏教経典で100年以上の差があるが、いずれが正確であるかを具体的に確認する術はない[注釈 6]

宇井伯寿中村元は北伝仏教の経典に基づき、タイスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国や欧米の学者の多くは南伝仏教の経典(パーリ経典)に基づいて没年を推定している。一方、『大般涅槃経』その他いずれの典拠においても釈迦が80歳で死去したとする記述は共通しているため、没年を決定できれば自動的に生年も導けることになる。

主な推定生没年は、

等があるが、他にも様々な説がある[注釈 7]

考古学による調査結果からの推定もあり、2013年にルンビニで紀元前6世紀の仏教寺院の遺構が見付かったと報道された[68]。この遺構の年代が正確であれば、釈迦は遅くとも紀元前6世紀またはそれ以前に存命していたことが確実となり、釈迦の生年を紀元前5世紀とする宇井説や中村説は否定されることになる。ただし、問題の遺構は必ずしも仏教寺院のものとは限らないとする反論もある[69]

Remove ads

評価

上座部仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方大乗仏教では三身説をとり、姿・形をもたない宇宙の真理たる法身仏、有始・無終の存在で衆生を救う仏である報身仏(人間に対する方便として人の姿をして現れることもある)に対して、応身仏である釈迦は衆生を救うため人間としてこの世に現れた仏であると説明される。

他宗教

釈迦の死後、インドで仏教とヴェーダの宗教は互いに影響を与え、ヴィシュヌ派プラーナ文献に釈迦はヴィシュヌアヴァターラとして描写されている。ただし、ヴェーダを否定した釈迦は、神の化身とはいえ、必ずしも肯定的な評価ではない。

この件に関して、20世紀新仏教運動を興したアンベードカルはヴィシュヌ派による釈迦の扱いを「偽りのプロパガンダ」と呼んで非難している[70]。一方で、新ヴェーダーンタ学派英語版サルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、『法句経』を英訳した際の註釈で、釈迦の思想が極端に誇張されて伝わったのは当時とそれ以降の時代背景のせいで、釈迦の思想はウパニシャッドから派生したもの、と評価している[71]。なお、インド憲法でも仏教はシク教・ジャイナ教と並んでヒンドゥー教の分派のひとつとして扱われている[72]

マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。

マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」[73]あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう」[74]としている。また『東方見聞録』の記述では仏教という言葉は無く、アブラハムの宗教以外の宗教は全て「偶像崇拝教」と記述されているが、その偶像崇拝の起源は、釈迦の死後にその生前の姿を作ったのものとしている。釈迦はマルコ・ポーロの時代より1世紀前に、ローマ教会よりヨサファトの名で聖人として加えられていた(仏教とキリスト教)が、マルコ・ポーロはそんな事はまったく知らなかった[75]

Remove ads

釈迦の像

初期の仏教では釈迦の姿を直接描くことは忌避されていた。そのためいわゆる仏像が制作されることはなく、釈迦の生涯が描かれる際も「7つの足跡(誕生の場面)」「人の乗っていない馬(出家の場面)」など、釈迦のみが透明になったかのような情景描写がされている。

仏像が作られるようになったのはヘレニズムの影響によるものである。そのため初期のガンダーラ系仏像は、意匠的にもギリシアの影響が大きい。しかし、ほぼ同時期に彫塑が開始されたマトゥラーの仏像は,先行するバラモン教や地主神に相通ずる意匠を有しており,現在にも続く仏像の意匠の発祥ともいえる。

ラホール博物館英語版[76]ラホール)には苦行する釈迦の像が所蔵されている[77]

釈迦を題材にした作品

小説

漫画

アニメ

ゲーム

映画

実写ドラマ

写真

音楽

演劇

Remove ads

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads