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ベン・オグリビー
パナマの野球選手 (1949-) ウィキペディアから
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ベンジャミン・アンブロシオ・オグリビー・パルマー(Benjamin Ambrosio "Ben" Oglivie Palmar, 1949年2月11日 - )は、パナマのコロン県コロン[1]出身の元プロ野球選手(外野手)。左投げ左打ち。
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経歴
1968年のMLBドラフト11巡目(全体の248番目)でボストン・レッドソックスから指名され、入団。
1974年にデトロイト・タイガース、1978年、ミルウォーキー・ブルワーズに移籍。1980年、41本塁打で本塁打王のタイトルを獲得。アメリカンリーグでは初となるアメリカ国籍でない本塁打王となる。
1987年に近鉄バファローズに入団[1]。なお、近鉄入団の数年前は、西武ライオンズが獲得に乗り出した時期があった。
同年、開幕直前の3月30日に突如無断で帰国していたことが判明し[2]、3年前にドン・マネーが突如退団した経験を持つ近鉄球団としては衝撃が大きかった[3]。その後本人は「家庭の事情」とだけ述べ、再来日の期待は薄いとも報じられていた[4]が、再来日して開幕3戦目からチームに合流した。これ以降、オグリビーにまつわる大きなトラブルは他になかった。
来日時に38歳であり、選手としては高齢なことから衰えを心配されたが、2年連続3割、本塁打20本と安定した成績を残して存在感を示した。本来の守備位置であるレフトは、ラルフ・ブライアントや淡口憲治などが守っていたため、指名打者としての出場が多かった。
1988年シーズン限りで退団、最終対ロッテ戦ダブルヘッダー(10.19)が最後の公式戦となった。10.19で優勝を逃した後に、祝勝会になるはずであった残念会の会場にオグリビーの姿が見えず、探したスタッフによるとホテルのトイレに身を隠して涙をこぼしていたという[5]。退団後はメジャー復帰を目指すものの、昇格することなく現役を引退[1]。
1998年 - 2006年までサンディエゴ・パドレスのコーチを9年間務める(2000年以外は傘下マイナーリーグのコーチ)。2007年はタンパベイ・デビルレイズ傘下のA級ベロビーチ・デビルレイズの打撃コーチ、2008年からはレイズ傘下のAA級モンゴメリー・ビスケッツの打撃コーチに就任。
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人物
本塁打王を獲得するなど15年以上にわたってMLBの第一線で活躍、オールスターゲームにも3回出場のスター選手ではあるがオグリビーは驕ることなく練習熱心でもあり、全力プレーで応えた。また、1988年5月12日のロッテオリオンズ戦で牛島和彦からサヨナラ本塁打を放った[5]際、はしゃぎながら塁を回り、インタビューで「つい興奮してガッツポーズをとったが投手に失礼なことをした。あやまりたい」とコメントする[6]など、紳士的な人柄でも知られた。
また、同時期に来日していた外国人選手達からも敬意を集める存在であった。同僚のブライアントは、直立不動でオグリビーを尊敬の念をこめて「サー」と呼んでいた。他チームの外国人選手もオグリビーの前では「イエス。サー」と返事をしている。また、パスポートの更新手続きを行う際は、パナマ大使館の職員が球場まで直接出向いて手続きを行ったという。当時を知る阿波野秀幸は「『イエス。サー』なんて言葉は映画の中でしか聞いたことがなかった。彼はパナマの英雄なんですね」と語った[5]。
前述の通り紳士的で日本人の同僚達からの信頼も厚かった。オグリビーが自身のミスで試合に負けて落ち込んでいたところ、金村義明や村上隆行らのチームメイトに風呂に投げ込まれ、お湯を掛け合うなどしてはしゃぎ「メジャー時代でも白人と黒人が一緒に風呂に入ることなどなかったのに」と言い感激していた。また、その際にあまりの嬉しさに浴槽の中で泳いでいたという[7]。
ただし1987年の阪急ブレーブス戦で古溝克之から頭部に死球を受け、激昂して古溝を追いかけた事もある。ベンチから両軍が飛び出したものの周囲の制止により乱闘寸前で済んでおり、近鉄コーチの池辺巌がオグリビーを制止した際に転んだシーンは同年のプロ野球珍プレー・好プレー大賞でも取り上げられた。
オグリビーの応援歌は後にフィル・クラークやフレッディ・ガルシア、ショーン・ギルバートらに流用され、球団がオリックスと合併してからもカリーム・ガルシア、フランシスコ・カラバイヨに受け継がれた。
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選手としての特徴
極端にグリップを後方に構えた独特のバッティングフォームや、打席内での特徴的な仕草は、当時の野球少年がこぞって真似するほどよく知られた。特に構える直前にバットを何度も回す動作は、30年以上経ってもモノマネをするタレントがいるほど強烈なインパクトを残した。かつての同僚である阿波野秀幸も、プロ野球ニュース(フジテレビ)に出演した際に物真似をしたことがある。
足が速いとは言い難かったが、積極果敢な走塁を行うことで知られた。内野ゴロでも全力疾走を欠かさなかった。
打席でも、守備でも、帽子の上にヘルメットを被ってプレーしていた。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
- 外野守備(MLB)
- 外野守備(NPB)
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- MLB
- 本塁打王:1回(1980年)
表彰
- MLB
- シルバースラッガー賞:1回(1980年)
- NPB
- 月間MVP:1回(1988年9月)
記録
- MLB
- MLBオールスターゲーム選出:3回(1980年、1982年、1983年)
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1987年4月14日、対日本ハムファイターズ1回戦(後楽園球場)、4番・左翼手として先発出場
- 初安打:同上、5回表に佐藤誠一から右前安打
- 初打点:同上、6回表に佐藤誠一から中前適時打
- 初本塁打:1987年5月2日、対日本ハムファイターズ4回戦(藤井寺球場)、8回裏に佐藤誠一から2ラン
- NPBその他の記録
- オールスターゲーム出場:1回(1988年)
背番号
- 4 (1971年)
- 14 (1972年 - 1973年)
- 22 (1974年 - 1977年)
- 24 (1978年 - 1986年、2000年)
- 10 (1987年 - 1988年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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