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1982年のF1世界選手権

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1982年のF1世界選手権
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1982年のF1世界選手権(1982ねんのエフワンせかいせんしゅけん)は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第33回大会である。1982年1月23日南アフリカ共和国で開幕し、9月25日アメリカで開催される最終戦まで、全16戦で争われた。

1982年のFIAフォーミュラ1
世界選手権
前年: 1981 翌年: 1983
一覧: 開催国 | 開催レース
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1982年のF1世界選手権においてドライバーズタイトルを獲得したケケ・ロズベルグ

シーズン概要

要約
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ウィリアムズ FW08

チーム内の不和、不可解な裁定、大事故など騒乱が絶えないシーズンとなった。開幕戦では契約問題でドライバーが団結しストライキを決行(#ストライキ)。第2戦では1位と2位でゴールしたドライバーが車輌重量違反(ブレーキ冷却水の注ぎ足し)で失格となった(#水タンク事件)。これに反発したFOCA系チームの多くがサンマリノGPをボイコットした。

チャンピオン争いも稀に見る混戦となり、優勝者は11名(うち初優勝5名)、3勝以上を挙げたドライバーはいなかった。混戦の原因は有力候補の相次ぐ脱落にあった。前年王者ネルソン・ピケBMWターボの初期トラブルに悩まされ、カルロス・ロイテマンフォークランド紛争の余波で引退。開幕2連勝のアラン・プロストは9度のリタイアが災いし、地元フランスGPではルネ・アルヌーのチームオーダー無視で優勝を逃した。

好調のフェラーリ勢も、サンマリノGPのチームオーダー問題でジル・ヴィルヌーヴディディエ・ピローニが対立。続くベルギーGPでヴィルヌーヴが事故死、カナダGPではピローニに追突したオゼッラリカルド・パレッティが亡くなった。また、ドイツGPでは、この時点でポイント首位に立っていたピローニも大事故で選手生命を断たれ、ポイントはロズベルグに逆転され年間2位に終わる。フェラーリはコンストラクターズタイトルを獲ったものの、血塗られたシーズンとなった。

最終盤でタイトル争いに残ったのは、マクラーレンのベテランジョン・ワトソンと、ウィリアムズの苦労人ケケ・ロズベルグという伏兵2人だった。しかし、ワトソンは2勝ながら4連続リタイアが祟り、ピローニと同点の3位に留まる(上位入賞回数の多さでピローニが上位になる)。これに対し、ロズベルグは堅実にポイントを重ね、初優勝となるスイスGPの1勝のみでドライバーズチャンピオンとなった。

また、大波乱のレースとなったモナコGPリカルド・パトレーゼが、オーストリアGPでエリオ・デ・アンジェリスが、最終戦のラスベガスGPミケーレ・アルボレートがそれぞれ初優勝を挙げ、世代交代を思わせる年となった。

この年デビューした有力選手はテオ・ファビ。2度の王者ニキ・ラウダがマクラーレンの誘いで2シーズンぶりにカムバック。巨額の契約金が話題となりつつ、2勝を記録した。マリオ・アンドレッティヨッヘン・マスデレック・デイリーがこの年をもってF1から引退した。下位のコンストラクターフィッティパルディエンサインセオドールへ合流)が姿を消した。

シーズン後の12月にはロータスの総帥コーリン・チャップマンが54歳で急逝するというショッキングな出来事が起こる。さらに、FISAが翌年からのフラットボトム規定導入を発表し、グラウンド・エフェクト・カーの時代は終焉する。

ストライキ

今年度よりスーパーライセンスの発給手続きが変更になり、ドライバーが所属するチームのサインが必要となった。GPDA会長のピローニはFIAからこの決定を前年末に知らされていたが、その内容の重要さに気づかず放置したため、いざスーパーライセンス発給の段階で多くのドライバーが異議を申し立てた。GPDAは結束して開幕戦のストライキを宣言、ドライバーに不利な条項の撤回を求めた。FIAの裁定を仰ぐことになり、ドライバー側の言い分が通ったことから、開幕戦は予選1日目をキャンセルしたのみで開催された[1]。なお、テオ・ファビヨッヘン・マスはストライキ参加しなかった唯一のドライバーだった[2]

水タンク事件

ノンターボエンジンで戦うチームは、パワフルなターボエンジンを有するチームに対抗するため、マシンの軽量化を図ろうとした。

第2戦ブラジルグランプリにおいて、DFVエンジンを積むマクラーレン、ウィリアムズ、ブラバムの3チームは、約20〜30リットルの水タンクを積んで出場した。走りだすとこれをブレーキ冷却用に使用し、コース上にまき散らす。これで約20〜30キログラム車が軽くなり、レースが終わってから水を補給することで、車検で最低重量の規定をクリアできる[3]。しかしこの作戦を使用し1位でゴールしたピケと2位のロズベルグに対し、レース後にこの水タンクが車両規則に違反するのではと抗議が出され、結果2人は失格となり3位でゴールしたプロストが繰り上げ優勝という裁定が下された。もっとも次戦アメリカ西グランプリでは、軽量化のメリットをねらってターボエンジンを使用するルノーもこの水タンクを装着していた[1]

事件の背景には、FISAとFOCAとの対立があるとされる。裁定に不満を持ったFOCA側チームは、第4戦サンマリノグランプリをボイコットする。

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開催地及び勝者

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  • アルゼンチングランプリは3月7日に開催予定であったがキャンセルとなった[4]。これはFISAとFOCAの対立が影響したためであった。
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エントリーリスト

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ドライバー変更

  • ティレルのNo.4は第4戦からヘントンがドライブ
  • ウィリアムズのNo.5は第3戦のみアンドレッティが、第5戦からデイリーがドライブ
  • ロータスのNo.12は第11戦のみリースがドライブ
  • マーチのNo.17は第12戦からキーガンがドライブ
  • フェラーリのNo.27は第9戦からタンベイが、No.28は第15戦からアンドレッティがドライブ
  • アロウズのNo.29は第5戦からスレールがドライブ
  • セオドールのNo.33は第5戦-第7戦と第9戦-第11戦をラマースが、第8戦のみリースが、第12戦からバーンがドライブ

エンジン変更

  • ブラバムは、No.1は第1戦と第5戦以降から、No.2は第1戦と第5戦と第9戦以降、BMWにスイッチ。

1982年のドライバーズランキング

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1982年のコンストラクターズランキング

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参考文献

外部リンク

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