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ラファエル・ベタンコート
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ラファエル・ホセ・ベタンコート(Rafael José Betancourt, 1975年4月29日 - )は、ベネズエラ・スクレ州クマナ出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
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経歴
要約
視点
レッドソックス傘下時代
1994年から1996年までの3年間は遊撃手で、1997年に投手に転向。1999年11月18日にレッドソックスを解雇された。
日本球界時代
2000年、横浜ベイスターズは抑え投手として主力であった佐々木主浩がシアトル・マリナーズに移籍した穴を埋めるためにベタンコートを獲得したがオープン戦で結果を残せず開幕二軍スタートとなった、一軍登録初登板は先発投手として上がり1勝を挙げたが先発としてはスタミナ不足で先発からは外され後半戦リリーフの再編で中継ぎ登板もしたが目立った活躍はできず、シーズン終了後に解雇された。
レッドソックス傘下復帰
2000年12月13日、再びレッドソックスと契約した。
2001年5月にヒジを故障し、7月に手術を行ったためほとんど投げられず、その年限りで自由契約となった。
インディアンス時代
2003年1月20日、クリーブランド・インディアンスと契約。同年7月13日のシカゴ・ホワイトソックス戦でメジャーデビュー。翌年にはリリーフの一角として頭角を現す。
2005年7月8日、ステロイド剤の使用が発覚し、10試合の出場停止処分を受けた[1]。登板数は54と前年より減ったものの、シーズンを通して安定した投球を見せた[2]。
2006年開幕前の3月に第1回WBCのベネズエラ代表に選出された[3]。
2007年、ジョー・ボロウスキーへのセットアップマンとしてスコット・シールズとともにリーグ最多タイの31ホールドを記録。

(2009年4月10日)
年俸調停権を得たベタンコートは2008年の年俸として250万ドルを要求。それに対し、球団は175万ドルを提示したが、調停を避け、2008年1月23日に2年総額540万ドルの契約で合意[4]。2008年は自己最多の69試合に登板したが、防御率5.07は自己ワーストとなった。
ロッキーズ時代
2009年7月24日にコナー・グラハムとのトレードで、コロラド・ロッキーズへ移籍。打者天国のクアーズ・フィールドを本拠地としてからも好成績を維持した。
2010年と2011年は2年連続でWHIPが1.00を切った。
2012年1月25日、2年総850万ドル(3年目はオプション)でロッキーズと契約を延長した[5]。シーズンでもクローザーとして自己最多の31セーブを記録した。
2013年8月にトミー・ジョン手術を受け、オフにFA となる。
2014年4月25日にロッキーズとマイナー契約で再契約[6]。7月から傘下のマイナーで実戦復帰するが、メジャーでの登板なくシーズンを終える。
2015年1月30日にロッキーズとマイナー契約で再契約し、4月1日にメジャー契約を結び開幕25人枠入りする。8月22日にDFAとなり[7]、27日に自由契約となった。
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投球スタイル
![]() | このプロ野球選手の特徴に関する文献や情報源が必要です。 (2009年7月) |
インディアンス及びロッキーズでは、リリーバーの役目を担っている。武器としている球種は、しばしばスライダーと間違えられるカーブ、時速90-94マイルを記録するフォーシーム・ファストボールである。カッター、チェンジアップも投げる。イニング数と同等の奪三振数を記録しており、与四球も少ない。ヒジには、手術に際に埋め込まれた金属板と6本のねじが入っている。
ベタンコートは、ワインドアップポジション時の動作が変わっていることで知られている。走者がいるとき、投球動作に入るまで絶えず足で投手板を軽くタップし続ける。また、次の投球までの間は、常に帽子のつばを引っ張ったり手をあちこち動かしている。このワインドアップポジション時の動作はリーグで最も長い部類である。投手による故意の遅延を避けるため、投手は多くとも12秒以内に投球をしなければ自動的に投球判定がボールとなるルールがあるが、それが適用された数少ない一人である。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 「-」は記録なし
記録
- NPB
背番号
- 22 (2000年)
- 63 (2003年 - 2013年、2015年)
代表歴
脚注
関連項目
外部リンク
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