トップQs
タイムライン
チャット
視点
ロビンソン・カノ
ドミニカ共和国とアメリカ合衆国のプロ野球選手 ウィキペディアから
Remove ads
ロビンソン・ホセ・カノ・メルセデス(Robinson José Canó Mercedes,[注釈 1] 1982年10月22日 - )は、ドミニカ共和国サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身のプロ野球選手(二塁手)。右投左打。リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル(メキシカンリーグ)のメキシコシティ・レッドデビルズ所属。愛称はドンチューノー[5]。
Remove ads
経歴
要約
視点
プロ入り前
父ホセ・カノも1980年にヤンキースとアマチュアFAで契約し、1989年にヒューストン・アストロズで6試合に登板した元投手である[6]。父はジャッキー・ロビンソンにちなんで息子に「ロビンソン」と名付けた[7]。自身はドミニカ共和国で育ち、サンペドロ・デ・マコリス市サンペドロ・アポストル高校で野球とバスケットボールの選手として活躍した。
プロ入りとヤンキース時代
2001年に同校卒業後、父と同じニューヨーク・ヤンキースとプロ契約を結び、プロ入りを果たした。マイナーリーグで徐々に力をつけていったが、シーズン打率3割やOPS8割を超えるような目立った活躍はなかった。
2005年はAAA級チームで24試合の出場で打率.333、OPS.942などの好成績を残し、5月3日にメジャー初昇格を果たす。同年、3年連続盗塁王に輝いた事もあるトニー・ウォマックから二塁手のポジション奪取に成功し、打率.297、14本塁打、62打点を記録。特に、チームの快進撃ともなった9月攻勢で活躍し、週間MVPや9月のルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞した。初めてのプレーオフとなるディビジョンシリーズでも全5試合にフル出場し、打率.263、5打点、3二塁打などと一定の活躍を見せた。同シーズンのアメリカンリーグ新人王投票ではヒューストン・ストリート(アスレチックス)に次ぐ2位に入った。
2006年はオールスターゲームの投票では二塁手部門で1位で選出されたが、膝の違和感から故障者リストに登録され、辞退した。しかし、怪我から復帰した8月8日以降の成績では打率、二塁打数、打点でリーグトップであった。欠場の影響で欠けていた規定打席にも9月末に到達し、首位打者争いに絡む活躍を見せた。また、9月のプレイヤー・オブ・ザ・マンスにも輝く。最終的に残した打率.342は同僚デレク・ジーターに1厘差に迫るリーグ3位の数字で、二塁打数もリーグ2位であった。オフのMVP投票では22位に入った。また、シルバースラッガー賞を受賞している。
2007年はロジャー・クレメンスがヤンキースに復帰する可能性を作るため、背番号を(クレメンスが去った後カノが付けていた)22番から24番に変更した。また、体重もメジャーデビュー時は80kgも無かったが、92kgに増やした。同年シーズンは前半こそ不調に陥ったが、最終的に打率3割を残し、本塁打・打点で自己最多を記録した。
2008年2月7日、球団と調停を回避し4年総額3000万ドルで契約を延長した。

(2009年4月8日)
2009年はシーズン開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のドミニカ共和国代表に選出された[8]。シーズンでは自己最多かつリーグ最多タイの161試合に出場し、打率は2年ぶりの3割を記録した。また、自身初となる200安打と25本塁打を記録した。オフのMVP投票では17位に入った。
2010年は、2年連続となる200安打を達成し、自身4度目の打率3割以上、自己最高の29本塁打、自身初の100打点以上を記録した。四球が自己最多を記録したことで、出塁率も自己最高を残した。また、自身2度目となるオールスター出場を果たした。シーズン終了後には、自身2度目のシルバースラッガー賞と自身初となるゴールドグラブ賞を受賞した。MVP投票ではジョシュ・ハミルトン、ミゲル・カブレラに次ぐ3位に入った。
2011年8月25日、オークランド・アスレチックス戦で記録された、MLB史上初の1試合1チーム3満塁本塁打の一員となった[9]。カノは5回裏に1本目の満塁本塁打を放った。カノに続いて、6回裏にラッセル・マーティン、8回裏にカーティス・グランダーソンが満塁本塁打を放ち、記録が樹立された。MVP投票では6位に入った。
2012年は、4番を任される事が多くなった。初めて30本塁打の大台をクリアし、シーズン最終戦まで9試合連続でマルチヒットを記録した[10]。ところが、10月14日のデトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第2戦でプレーオフ24打席連続無安打となり、1996年のボビー・ボニーヤを抜いてプレーオフのワースト記録を更新した。シーズン終了後に翌年の1500万ドルのオプションが行使され、残留が決まった[11]。MVP投票では4位に入った。
2013年はシーズン開幕前の3月に開催された第3回WBCのドミニカ共和国代表に選出され[12]、2大会連続2度目の選出を果たした。同大会のMVPになった[13]。この年でヤンキースとの契約最終年となる。4月2日には、音楽プロデューサーのジェイ・Zが経営するレーベルのロック・ネイションがビジネスをスポーツ事業まで拡大し、スコット・ボラスと契約を解除しロック・ネイション(Roc Nation Sports)と契約した[14]。レギュラーシーズンでは、7年連続159試合以上となる160試合に出場し、5年連続となる打率3割超えを記録。打点も2年ぶりに100の大台に到達した。9月13日のボストン・レッドソックス戦の1回表にシフトを逆手に取って三塁線へのバントによる二塁打を記録するという珍プレーがあった[15]。MVP投票では5位に入った。10月31日にFAとなった。
マリナーズ時代
2013年12月12日にシアトル・マリナーズと10年総額2億4000万ドル[16][17]で契約を結んだ[18]。

(2014年7月29日)
2014年は5年連続25本以上記録していた本塁打こそ14本まで減少したものの、打率.314を記録し、6年連続3割以上となった。また、自身初のシーズン2桁盗塁を決めた。MVP投票では5位に入った。また8月20日に日米野球2014の選抜メンバーに選出された[19]。11月15日に行われた第3戦で日本代表の西勇輝から右足小指に死球を受けて骨折し[20]、そのまま帰国した。
2015年は開幕から不振に陥り、6月終了時点で打率2割前半、4本塁打だったが、後半戦は打率.331、15本塁打を記録した。シーズンではメジャーに昇格してから初めて三振の数が100を超え、本塁打数は21まで戻したが、2009年から続いていた打率3割超えが6年で途切れた。
2016年は前半戦終了時点で、本塁打は昨年全体の数に並んだ。9月3日のロサンゼルス・エンゼルス戦で史上4人目[21]となる12年連続での30二塁打を達成[22]。最終的に161試合で自己最多の39本塁打を放った。守備面でもDRSで+11を記録し、3年ぶりのプラスに転じた。オフの12月5日に第4回WBCのドミニカ共和国代表に選出され、3大会連続3度目の選出を果たした[23]。MVP投票では8位に入った。

(2017年8月29日)
2017年はシーズン開幕前に選出されていた第4回WBCに参加。シーズンでは8月4日のロイヤルズ戦で史上63人目の通算500二塁打を達成した[24]。9月21日のレンジャース戦でキーオン・ケラから史上146人目の通算300本塁打を記録(二塁手としてはロジャース・ホーンスビー、ジェフ・ケントに次ぐ3人目)[25]。
2018年5月13日のデトロイト・タイガース戦で死球を右手小指に受けて骨折し、翌日から10日間の故障者リストに入った[26]。さらに5月15日にMLBコミッショナー事務局からフロセミドによる薬物規定違反で80試合の出場停止の処分が科せられた[27]。8月15日のオークランド・アスレチックス戦で復帰した。最終成績は打率.303、10本塁打、50打点だった。しかし出場試合数は自己最少の80試合、13年間続いていた連続シーズン30二塁打の記録は途絶えた。守備面では本来二塁手であるディー・ゴードンの移籍もあり、復帰後は一塁や三塁を守ることがあった。
メッツ時代
2018年12月1日に2対5の大型トレードが成立し、ヘルソン・バウティスタ、ジェイ・ブルース、ジャレッド・ケルニック、アンソニー・スウォーザック、ジャスティン・ダンとのトレードで、エドウィン・ディアス、及び金銭2000万ドルともにニューヨーク・メッツに移籍した[28]。
2019年は故障に悩まされ、107試合の出場に留まった。5月7日には通算2500安打に到達し、7月23日のサンディエゴ・パドレス戦では3本塁打を放ったが、最終成績は打率.256、13本塁打、39打点で、打点は自己最少、三振率は自己ワーストだった。
2020年は打率が2年ぶりに3割を超えるなど復調した。オフの11月18日に薬物検査で禁止薬物のスタノゾロールが検出され、1年間の出場停止処分を受けた[29]。期間中は年俸2400万ドルも支払われない。

(2022年4月15日)
2022年に2年ぶりに公式戦に復帰したが、打率が2割を切るなど不振で、5月2日にDFAとなり、そのまま自由契約となった[30]。
パドレス時代
2022年5月13日にサンディエゴ・パドレスと契約した[31]。移籍後は更に調子を落とし、6月2日にノマー・マザラのメジャー昇格に伴いマイナーへ降格し、そのまま自由契約となった[32]。しかし、同月10日にマイナー契約で再契約した[33]。
ブレーブス時代
2022年7月11日に金銭トレードでアトランタ・ブレーブスへ移籍し、同日中にメジャー契約を結びアクティブ・ロースター入りした[34]。8月1日にDFAとなった[35]。
ブレーブス退団後
2023年3月に開催された第5回WBCのドミニカ共和国代表に選出され、4大会連続4度目の選出を果たした。9月15日にベースボール・ユナイテッドの共同オーナーとして参入した[36]。
メキシカンリーグ時代
2024年3月1日にリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル(メキシカンリーグ)のメキシコシティ・レッドデビルズと契約を結んだ[37]。
Remove ads
選手としての特徴
広角へ打ち分けるシュアな打撃が持ち味。一定の長打力も併せ持ち、逆方向へ強い打球を放てる[38]。
人物
前述の通り、実父のホセ・カノも元メジャーリーガー(投手)であり、また10歳離れた実弟のホセリト・カノは2019年にルートインBCリーグの新潟アルビレックスBCに所属した投手という野球一家である。
詳細情報
年度別打撃成績
- 2022年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
WBCでの打撃成績
- 太字は大会最高
年度別守備成績
- 2022年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
表彰
- MLB
- シルバースラッガー賞(二塁手部門):5回(2006年、2010年 - 2013年)
- ゴールドグラブ賞(二塁手部門):2回(2010年、2012年)
- プレイヤー・オブ・ザ・ウィーク:3回(2005年9月、2007年7月・8月)
- ルーキー・オブ・ザ・マンス:1回(2005年9月)
- MLBオールスターゲームMVP:1回(2017年)
- ドミニカ共和国代表
記録
諸記録
- 連続シーズン30二塁打:13年(歴代2位、2005年 - 2017年)※スタン・ミュージアルの16年に次ぐ
- 2011年8月25日のオークランド・アスレチックス戦で記録された、MLB史上初の1試合1チーム3満塁本塁打の一員となっている[9]。カノは5回裏に1本目の満塁本塁打を放った。カノに続いて、6回裏にラッセル・マーティン、8回裏にカーティス・グランダーソンが満塁本塁打を放ち、記録が樹立された。
背番号
- 22(2005年 - 2006年、2014年 - 2018年)
- 24(2007年 - 2013年、2019年 - 2020年、2022年)
代表歴
Remove ads
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads