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五十嵐信一
日本のプロ野球選手、コーチ (1959-) ウィキペディアから
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五十嵐 信一(いがらし しんいち、1959年8月29日 - )は、東京都杉並区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。愛称はシンさん、シン。
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来歴・人物
日大二高では、入学間もなくより一貫して遊撃手の正選手として活躍。2年夏の西東京大会では決勝へ進出し、甲子園で優勝することになる桜美林高に敗れた。1977年の西東京大会も準決勝まで進むが明大中野高に敗退。
同年オフに、ドラフト外で日本ハムファイターズに入団。二軍暮らしが長かったが、1979年4月には、「空白の一日」で入団した江川卓が二軍で初登板した試合で江川に初本塁打を浴びせたことで有名になる。
1981年には二塁手として一軍に定着、菅野光夫、鍵谷康司と定位置を争う。同年の日本シリーズでは第6戦途中出場して9回裏二死で江川にピッチャーフライに打ち取られ最後の打者となっている[1]。その後も内外野をこなすユーティリティープレイヤーとして起用されるが、内野は白井一幸、古屋英夫、田中幸雄が定着しており、1988年には本格的に外野手転向。主に右翼手として自己最多の103試合に出場し、規定打席には届かなかったものの打率.242、7本塁打を記録した。パ・リーグ東西対抗では2番・右翼手としてスタメンで出場して敢闘賞を受賞した[2]。1991年までは背番号4を着用していたが、オフには背番号15を着用していた武田一浩からの提案を受け、彼と背番号を交換する形で背番号を15に変更した[3]。
その後は準レギュラーとして起用されるが、1992年は主に5番打者、左翼手・右翼手として87試合に先発出場、打率.292を残す。年俸3,200万円(推定)で契約を更改している[4]。また、東京ドームMVPも受賞した。
体力・気力の衰えを感じ、1996年に現役を引退[5]。翌1997年は二軍で打撃兼外野守備コーチとなり、2005年まで主に二軍打撃コーチ、2006年から2009年までスコアラーを務めた。2010年から二軍監督に就任し、2011年はチームを7年ぶりのイースタンリーグ優勝に導いた。2012年退任。2013年からは日本ハムの査定担当となる[6]。
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詳細情報
年度別打撃成績
表彰
- 東京ドームMVP:1回 (1992年)
記録
- 初記録
- 初出場:1980年5月28日、対西武ライオンズ前期12回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に菅野光夫の代打として出場
- 初打席:同上、8回表に松沼博久の前に三振
- 初先発出場:1980年6月26日、対阪急ブレーブス前期12回戦(阪急西宮球場)、9番・二塁手として先発出場
- 初安打:同上 、3回表に関口朋幸から中前安打
- 初打点:1981年4月28日、対西武ライオンズ前期4回戦(西武ライオンズ球場)、2回表に杉本正から2点適時二塁打
- 初本塁打:1982年4月20日、対ロッテオリオンズ1回戦(後楽園球場)、2回裏に村田兆治からソロ
- 節目の記録
背番号
- 51 (1978年 - 1981年)
- 4 (1982年 - 1991年)
- 15 (1992年 - 1996年)
- 83 (1997年 - 2005年、2010年 - 2012年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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