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古川清蔵
日本の野球選手 (1922-2018) ウィキペディアから
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古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 2018年10月17日)は、鹿児島市下荒田町出身[2]のプロ野球選手(外野手、1942年のみ捕手)・競馬評論家。
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来歴・人物
鹿児島二中から、鹿児島商業学校に進学、八幡製鉄を経て、赤嶺昌志の勧誘で1941年に名古屋に外野手として入団[2]。
捕手を務めていた三浦敏一、服部受弘が2人とも応召されてしまったため、1942年は開幕から捕手として起用される[2]。5月12日の対南海軍戦で川崎徳次からサヨナラ本塁打を放つと、5月24日の大洋戦では、2点ビハインドの9回に野口二郎から同点本塁打を放っている。この試合はそのまま延長戦に入り、当時世界最長の延長28回の末、4対4で引き分けている。7月18日の対阪急戦では西沢道夫のノーヒットノーランに貢献した。同年は初の規定打席(13位、打率.216)にも達し、本塁打王(8本)にも輝いた。翌1943年は外野手に戻り、シーズン4本ながら2年連続の本塁打王となった。同年オフに兵役により退団。
戦争が終わると復員し、1945年11月23日の戦後初のプロ野球試合となった職業野球東西対抗戦(明治神宮野球場)に出場した。1946年に中部日本に復帰するも、翌1947年オフに赤嶺昌志球団代表の解任を受けて、その後を追って退団。
1948年に阪急ブレーブスへ移籍。中心打者として起用され、1949年には自己最高の打率.291(リーグ19位)を、翌1950年には木塚忠助に次ぐリーグ2位の56盗塁を記録した。1953年8月30日の対南海ホークス戦で延長戦の参考記録ながらNPBタイ記録の1試合7安打を記録[3][4]、同年は打率.285(11位)の好成績を挙げた。1959年に引退。通算370盗塁は日本プロ野球歴代12位の記録であるが、盗塁王を獲得出来なかった選手としては、歴代最多である[5]。
その後、妻(阪神・淡路大震災で死去)の父が中央競馬の調教師(伊藤勝吉)である縁から競馬評論家になり、サンケイスポーツで予想コラムを書いていた[1]他、野球解説者・評論家を兼業した時期もあった。日本中央競馬会の「平成26年度顕彰馬記者投票名簿」に「会友」として名前が掲載されており、投票権を有していた[1]。
2018年10月17日午前5時15分、老衰のため、兵庫県宝塚市内で死去。96歳没[1]。
古川の死去により、判明している限りで戦前のプロ野球を経験した選手は、全員が故人となった[6]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 名古屋(名古屋軍)は、1944年に産業に、1946年に中部日本に、1947年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更
年度別守備成績
- 外野守備
- 捕手守備
タイトル
- 本塁打王:2回(1942年、1943年)
記録
背番号
- 24(1941年 - 1943年、1946年 - 1947年、1949年 - 1959年)
- 12(1948年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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