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安彦良和

日本の漫画家、アニメーター ウィキペディアから

安彦良和
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安彦 良和(やすひこ よしかず、1947年12月9日 - )は、日本漫画家アニメーターキャラクターデザイナーアニメ監督イラストレーター小説家北海道紋別郡遠軽町出身。埼玉県所沢市在住。

概要 やすひこ よしかず安彦 良和, 生誕 ...
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遠軽高校弘前大学を経て、1970年虫プロ養成所に入りアニメーターとなる。虫プロ倒産後はフリーとなり『宇宙戦艦ヤマト』『勇者ライディーン』『超電磁ロボ コン・バトラーV』『無敵超人ザンボット3』など数多くのアニメ作品に携わる。その中でもキャラクターデザインおよび作画監督を務めたアニメ『機動戦士ガンダム』は、その後放映された劇場版とも併せ社会現象ともいえるブームを巻き起こし、2022年の時点でも根強い人気を誇る[2]

1990年以降、アニメ製作現場を離れて専業漫画家となり、『ナムジ』『虹色のトロツキー』『王道の狗』など主に歴史ものを描いて第19回日本漫画家協会賞優秀賞(『ナムジ』)、第4回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(『王道の狗』)[3]などを受賞した。

2001年から2011年まで漫画雑誌『ガンダムエース』で連載した『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』は、累計発行部数1,000万部を超えるヒット作となり[4]、同作のアニメ化作品『機動戦士ガンダム THE ORIGIN I 青い瞳のキャスバル』(2015年2月公開)では総監督を務め、約25年ぶりにアニメの現場に復帰した[5]

日本漫画家協会会員。日本SF作家クラブ会員だったが[6]2023年5月時点では退会している。

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経歴

要約
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生い立ち

1947年北海道オホーツク管内遠軽町東社名淵(ひがししゃなふち、現在の若松)に、姉三人、兄二人(ただし長男は生後間もなく亡くなった)、妹一人の三男として生まれる[7]。曽祖父は福島県伊達郡半田(現・桑折町)の半田銀山で絵図面描きをしていたといい、1891年に祖父が屯田兵として遠軽町に移り住み、開拓を始めた。それまで「あびこ」と名乗っていた姓の読みを「やすひこ」に変更する[8]。安彦の父は東社名淵のハッカ作りの代表格で、1938年から1942年までは町会議員もつとめており[9]、自身いわく「普通の、裕福でも悲惨でもない農家」であったという[7]

幼いころから3歳年上の兄が買っていた学年誌を読むなどして漫画に興味を持ち、小学校3年生のころには鈴木光明の『織田信長』に惹かれ「川中島の合戦」のシーンを自己流でノートに鉛筆書きしていた[10]。漫画はもっぱら友人から借りて読むことが多く小学校5・6年のころには横山光輝の『鉄人28号』が好きで、ノートの余ったページなどに誰に見せるでもなく漫画を描いていた。安彦の父はそれを「ポンチ絵」と呼んで人に見せるなど無邪気に喜んでいたが、母は「そんなしょうもないことしてるんなら家の手伝いをしろ」と嫌がっていた[10]。またこの頃見たアニメ映画『白蛇伝』が安彦が初めて見たアニメ映画であった。

小学校6年のとき、赴任してきた校長が個展をひらくほど絵が好きで安彦も絵のみならず様々なことを教わった。安彦は中学・高校を通じて絵の指導を受けたことがなく、アニメの世界に入っても誰かに教わったということがないため「僕の絵に、お師匠さんはいないんです。あえて探せば、この校長先生だけですね」と語っている[10]

また小学校時代には手塚治虫の『漫画の書き方』を読んで「ケント紙に墨で書く」という技法を真似て20数ページの漫画を描き、漫画誌『冒険王』に投稿したこともある[11]

中学・高校時代

1960年に社名淵中学校に入学[12]。このころ手塚治虫の『フウムーン』に触発され、スパイと女の子が国家権力に殺されるという、後の映画『レオン』のような漫画も描いていた[12]。中学1年のとき安彦の父が脳梗塞で倒れ、半年間の入院後、安彦が中学2年のときに亡くなった[12]

1963年、安彦は北海道遠軽高等学校に入学し、同時に安彦の兄も遠軽高校から北海道大学に進学した。兄が進学で遠軽を離れ農家を継ぐ者がいなくなった安彦家は、ハッカ作りをやめ離農し一時は安彦の姉が住む湧別町に移り住んだ。だが半年後には安彦の母が家を建て遠軽に皆で戻ったという[12]。安彦はこれを「意地だったんでしょう。おふくろは『夜逃げしたんじゃない』とよく言ってました」と振り返っている[12]

なお、遠軽高校の2学年下に湖川友謙がいたが、当時は面識がなかった。また、湖川の作ったアニメ制作会社ビーボォーの出身で、『Ζガンダム』や『ガンダムΖΖ』、『閃光のハサウェイ』に作画監督として関わる恩田尚之も同校の卒業生である。

高校時代、教師からは「お前の兄は優秀だった」と比較されることが多々あり、実際勉強も趣味も何をやっても勝てないと感じていた安彦は兄に劣等感を覚えていた[13]。一方で弁論大会でのスピーチや部活の壮行式司会などの生徒会活動で顔が知られていたためか、3年のときには生徒会長もつとめている。当時の(現在も)友人が日本民主青年同盟(民青)の活動を少し行っており、安彦もその影響を受け"左傾化"したという[13]

中学生ごろまでは「漫画家になりたい」という思いもあったが、このころから「そんな夢みたいなことを言っててもしょうがない」と諦めをつけ[13]、卒業後の進路には、内地の国立大学のなかで北海道にはない「お城」がある街がいいとして金沢大学弘前大学などを希望し、合格した隣県の弘前大学に入学した[13]

学生運動

1966年、北海道遠軽高等学校卒業、弘前大学人文学部西洋史学科に入学。このとき弘前大の同郷会で後の妻となる女性と出会っている[14]。高校時代の友人の影響で大学でも民青の集まりにも参加したが、やがて活動が型どおりでつまらないと民青を抜け、1968年、ベトナム戦争に反対する学生団体「ベトナムの平和を守る会」を結成し、ベトナム戦争反対の講演を企画するなど反戦運動を展開した[14]。当時既にパターン化していたアジビラや街頭演説、ファッション化していたヘルメット姿などを嫌い、普通にしゃべって普通に書くという活動をしたところ「お前の話は分かりやすい」となり、一般学生への説明などに駆り出され[14]全共闘のリーダー的な存在になっていった[15]

1969年1月の安田講堂事件では安彦自身は「極端に金がなく上京できなかった」が仲間が逮捕され、「僕だけおとなしく大学に残って勉強する気になんかならん」として授業にも出席しなくなった。同年9月、弘前大本部を全共闘が3週間占拠し、機動隊による封鎖解除の後占拠当初半月ほど校舎にいたが東京での「活動」のため途中で抜けている[15]。安彦も後に建造物侵入、不退去罪の疑いで逮捕された。この結果1970年1月に弘前大学から退学処分を受ける[16][17][18][注 1]。このときの安彦は「もう終わった。反戦も左翼運動もどんづまり。それまでの22年間、何のために生きてきたんだ」という思いであったという[17]

保釈後、「もう弘前にはいられない」と上京し友人の協力もあって写植屋に3か月ほど勤めた。だが写植の仕事はどうしても好きになれず、そのときにたまたま目にした虫プロの求人新聞広告に子供の頃に漫画家になりたかった事を思い出し応募した。面接では高校時代まで大学ノートに描いていた漫画を見せて合格した[17]

アニメーター時代

1970年、新聞広告をみて旧虫プロダクション虫プロ養成所の2期生として入社。養成所教官の沼本清海から「高橋信也に女の描き方を習え」と言われ、まだ動画マンであったにも拘らず『さすらいの太陽』で作画設定に抜擢される[19]。その後、先輩アニメーターの進藤満尾、同じく新人だった川尻善昭との3人チームで『新ムーミン』に原画マンとして参加。オープニング冒頭のムーミンが逆立ちするカットが初の原画仕事となった[20][21][22][23]

1973年虫プロの倒産後はフリーとなって、オフィス・アカデミーサンライズの前身の創映社に活動の場を移す。オフィスアカデミーでは、『宇宙戦艦ヤマト』の絵コンテ、創映社(日本サンライズ)では『ゼロテスター』(1973年 - 1974年)、『勇者ライディーン』、『超電磁ロボ コン・バトラーV』などのSF、ロボット作品、『ろぼっ子ビートン』『わんぱく大昔クムクム』といったギャグ、ファンタジー作品などに携わる。

根っからのアニメ好きというわけではなかった安彦は、学生運動時代の友人から「アニメやってどうすんの? 世の中変えられるの?」と言われ、「ただの絵描きじゃなく(中略)責任領域を広げてやりがいを拡大しないと合わせる顔がなかった」とアニメの仕事に罪悪感のようなものも覚えていた[23]。だが1974年に『ヤマト』の仕事を手掛けるようになってからは西崎義展プロデューサーの影響もあり「いい大人が本気でやってもよい仕事なんだ」と感じるようになったという[24]。『わんぱく大昔クムクム』では自ら企画書を出し、脚本、演出、作画にも関わった。この主人公クムクムは、1973年に生まれた安彦の長男(中学生時代は安彦と兄弟に間違われたという[25])がモデルとなっている[24]。 なお3歳下の[25]次男は現在安彦のアシスタントを務めている[26]

創映社が日本サンライズになり制作された『無敵超人ザンボット3』ではキャラクターデザインを担当。1978年の「さらば宇宙戦艦ヤマト」をもってヤマトとは「それこそさらばだ」と思っていた安彦であったが、西崎プロデューサーの強い慰留にあい後のテレビシリーズなどにも参加した[27]。だが1979年に『機動戦士ガンダム』が始まった際についに電話で大げんかして『ヤマト』と袂を分かつ[27]

1979年4月から放映された『機動戦士ガンダム』ではキャラクターデザインおよび作画監督を務めた。だがテレビシリーズ制作中に病気(肋膜)で5か月ほど入院したため、全43話中最後の10話には参加していない[27]。その後、映画化された際に、この10話を含めた修正を行ったという。

1983年、劇場用アニメ『クラッシャージョウ』で初監督をつとめる。原作の高千穂遙は安彦の友人でもあり断れる雰囲気ではなかったが、後に本人としては「必ずしもやりたくなかった」「スペースオペラって面白さがいまいち分からなかった」と語っている[28]。原作・監督をつとめた1984年の『巨神ゴーグ』は商業的に振るわず、「アニメ屋としての気持ちが切れた」[28]

1979年に『リュウ』誌(徳間書店)に『アリオン』を発表し漫画家デビュー。1986年には劇場用アニメ『アリオン』を自ら監督。数年間アニメと漫画の二足のわらじをはいていたが、1989年に『ヴイナス戦記』を監督した以降は専業漫画家になる。

アニメ業界をやめた理由は二つあり、一つは『風の谷のナウシカ』や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を見て、そのクオリティの高さにとても敵わないと思ったこと。もう一つは自ら監督した『巨神ゴーグ』を演出的に盛り上げられず、能力の限界を感じたためであるという[29][注 2][31]。その後も、キャラクターデザイナーとしていくつかのアニメに参加。イラストや小説も手掛ける。

1982年に『アニメージュ』に連載したエッセイ「月づきの雑記帳」の中で、当時その内容をめぐって議論を呼んでいた東映の劇場アニメ『FUTURE WAR 198X年』について批判的な意見を記した。これに対する読者からの反応の多くが、安彦の主張を確認した上でそれが正しいかどうかは自分で考えてみるという「真摯なもの」であることが嬉しかったと連載の最終回で記している[32]。また、安彦は「事が政治というようなことになると、どうしても自分の30‥年の人生、その中での政治体験というようなものが、発言の中身にならざるを得ない。そういう発言は(中略)若い人たち(読者の方たち)に向けたものとしてはついつい高飛車なモノいいになってしまう」とも記している[32]

1989年の『ヴイナス戦記』では「お客がそこそこ来たらもう一本つくろう」との思いもあったが、同作品は振るわず、不本意ながらもアニメを辞めざるを得なかった[28]

漫画家時代

1989年、『ナムジ』(1989年-1991年)で専業漫画家としての活動を始める。その後『虹色のトロツキー』(1990年-1996年)、『王道の狗』(1998年-2000年)、『韃靼タイフーン』(2000年-2002年)などを手掛け、第19回日本漫画家協会賞優秀賞(『ナムジ』、1990年)、第4回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(『王道の狗』、2000年)などを受賞した[33]。後に、「『ナムジ』が日本漫画家協会賞を受賞したことで、漫画家として認められてもらった気がする」と『ヤマトタケル』6巻の後書きにて記している。

2001年6月、アニメーター時代に主要スタッフとして関わった作品『機動戦士ガンダム』をコミカライズした『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の連載をガンダム専門の月刊誌『ガンダムエース』にてスタートさせる。連載は2001年6月号から2011年8月号まで約10年間におよんだ。執筆動機について、アニメのガンダムがヒットし一部ファンや自称評論家が「ニュータイプが世界を変えるのがガンダムのテーマ」と発言しているのを耳にし、これは学生運動時代に聞いた「革命的な党をつくったら革命ができる」といった観念を弄ぶような言葉と同じもので非常に危ない、「最初につくって裏表知る人間が知らん顔しちゃいけない」「当時、どんな考えでガンダムが作られたか自分は知っている。それを描けるのは僕だけだ」としてこの仕事を引き受けたという[33]

2006年、神戸芸術工科大学メディア表現学科教授に就任[34]。2015年3月まで教員を勤めた[35]

2012年3月、北海道新聞夕刊において、自らの半生について語った「私のなかの歴史」を連載[36]。また、2013年11月11日から12月28日まで中日新聞東京新聞夕刊などで連載されている自身の半生やエピソードを綴るコラム「この道」を執筆した。

2014年5月、OVA『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の総監督を務めることが発表された。アニメ制作に携わるのは約25年ぶりである[5]

2018年に始まった「乾と巽 -ザバイカル戦記-」を最後の連載作品としている[37]

2019年12月14日、安彦が住む所沢市と、ガンダム関連の書籍を出版するKADOKAWAが主催する「第5回ところざわ文化創造会議」(COOL JAPAN FOREST構想の一環として開始した会議)にて、講演を行う。

2022年に公開された機動戦士ガンダム_ククルス・ドアンの島を最後のアニメ作品としている[38]

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作風

  • 漫画作品には、歴史や神話を題材としたものが多い。『王道の狗』『天の血脈』『虹色のトロツキー』のように近現代史を舞台として、実在の人物を実名で登場させた作品もある[39]。雑誌連載のほかに、イエス・キリストジャンヌ・ダルクを題材に全ページ彩色した漫画を描き下ろしで発表している。
  • 本人曰く筆圧が高いので、ペンではなく削用筆を使って作画を行なっている。一部を除き、極細の線もすべてこの筆を使っており職人芸と評されている。『THE ORIGIN』では作品の性格上から一部にCG処理も導入されているものの、独特のタッチとアナログで力強い彩色を行なった。
  • 劇画が嫌いで、劇画調の『科学忍者隊ガッチャマン』や『ゼロテスター』は苦手であった[40]。また手塚治虫の画風も駄目だと考えており、自身の画風は永井豪の画風が近いと述べている。
  • S字型に腰を前方突出させた立ち姿を描き、その独特の色気のある立ち姿は、ファンから「やすひ腰」「安彦立ち」(主に「ガワラ立ち」、「カトキ立ち」との対比で呼ばれる)と親しまれているが、本人曰く「虫プロ在籍時代に習った」とのこと。
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評価

幾原邦彦

アニメーション監督で音楽プロデューサーの幾原邦彦は、『アリオン』や『ヴィナス戦記』を例に挙げた上で、男性が主役の場合、いつも傍にいる幼なじみの女性と結ばれるストーリー展開が多く、マザコンの極致であるとして、「よく考えると、非常に気持ち悪い話ですよね」と語り、年上で食わせ者の女性に、年下の男性が惹かれるパターンの心理描写を全く理解していないのではないかと推察している[41]

受賞歴

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作品リスト

要約
視点

漫画作品

さらに見る 作品名, 出版社/巻数/発行年月 ...

このほか、アボジ、ネオデビルマン週刊マンガ日本史第34号『勝海舟』などがある。

小説

  • 『シアトル喧嘩エレジー』徳間書店、1980年
  • 『蒼い人の伝説―ルウは風の中で』角川書店・カドカワノベルズ、1988年/角川文庫 1990年
  • 鋼馬章伝』全5巻 カドカワノベルズ徳間デュアル文庫 2002年 - 2003年
    • ボナベナの騎士 鋼馬章伝I 1988年
    • ザオの騎士王 鋼馬章伝II 1988年
    • ガンゴトリの疾風(かぜ) 鋼馬章伝III 1989年
    • ノルブの光輪 鋼馬章伝IV 1990年
    • クルガンの竜 鋼馬章伝V 1990年
    • 伝説の鋼馬(ドルー) 鋼馬章伝後章 - ファンタジー王国II(カドカワノベルズ) 所収
  • 『テングリ大戦』 全4巻 カドカワノベルズ 1990年 - 1992年
  • 『聖王子ククルカン』(上・下) 角川スニーカー文庫 1993年

対談・討論

アニメーション作品

監督作品

デザイン

作画・演出スタッフとして参加の作品

カバーイラスト・挿絵

CM

その他

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テレビ出演

連載

  • 時のかたち(2001年6月19日 - 22日、朝日新聞 夕刊) - 『THE ORIGIN』の執筆、検査入院、同郷の骨董品店主、石神井三宝寺について。
  • 私のなかの歴史〜オホーツクから『ガンダム』へ(2012年、北海道新聞 夕刊)
  • この道(2013年、中日新聞東京新聞 夕刊)
  • マイ・バック・ページズ(2018年7月 - 2019年11月、太田出版 隔月刊『CONTINUE』Vol.54 - Vol.62) - 連載・刊行

その他

  • プロ野球では広島東洋カープのファンでアンチ巨人[80]
  • 「不滅の少年ボイス」と称するほど田中真弓のファンであることを公言している[81]。アニメの仕事から離れたため、一緒に仕事をすることはないと思っていたが、『THE ORIGIN』で声を頂いたことに喜んでいる[81]
  • 星の王子さま プチ・プランス』では主人公の王子の声を大人でやるか子供でやるか、なかなか決まらなかったが、安彦が大量のオーディションテープの中から、松野達也(現・松野太紀)に決めたという[82]
  • 湖川友謙とは同郷、出身高校も同じ(湖川が2学年下)であるが、アニメ業界に入るまでお互いに面識がなかったという。
  • 終戦にともなっておこなわれた一億総懺悔のなかにはそこまで反省しなくてもいい問題がいっぱいあるので国家の安定とともに復元の動きが出るのはあたりまえだとしつつも、方向をまちがってしまうと『日本は侵略なんかしていない』とか『植民地支配は悪だというけど、日本はいいことだってしたではないか』ともどりすぎてしまう。安倍晋三首相のやっていることも、もどっちゃいけない方向だと思うと著書の『原点 THE ORIGIN 戦争を描く、人間を描く』で述べている[83]
  • 表現の自由に関して、「新しい文化が出てきて人に影響を与える際、今までにない捻じ曲がり方をさせる可能性があるのは当然のこと」と語った上で、製作者はそれに対する覚悟が必要であると説いている。そして、作品に対して必要な表現か否かを吟味することが、作り手の責任の取り方であると述べ、漫画家に対しては「安易に編集者に、こうすれば売れる、と言われて、考えもなく過激な表現に走ったりするのは慎んでほしい」と釘を刺している[84]
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弟子

  • アニメーターとしての弟子に板野一郎、九月社時代の弟子として高橋久美子佐藤元がいる。安彦曰く、サンライズで募集採用されたアニメーターの4人のうち二番に高橋、四番目に佐藤が上手かったそうである。そして安彦はこの4人の中で高橋と佐藤を九月社に採用した[85]
  • なお、神村幸子川元利浩は安彦の弟子と語られることが多いが、実際には間違いである。神村はもともと東京ムービー系のスタジオイルカ所属であり、安彦との初仕事も『アリオン』の原画でありそれ以前の関わりはない。川元は『機動戦士ガンダムZZ』のときにその実力を神村に見出だされたのであり、正しくは安彦ではなく神村の弟子である[86]

脚注

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参考文献

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外部リンク

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