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小川知子 (女優)

日本の女優、女性歌手 ウィキペディアから

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小川 知子(おがわ ともこ、1949年昭和24年〉1月26日[1] - )は、日本女優歌手広島県広島市生まれ[2]東京都北区育ち。

概要 おがわ ともこ 小川 知子, 生年月日 ...

1970年前後に、人気アイドル歌手として有名になる[3]1980年代は『金曜日の妻たちへ』などのテレビドラマに出演。1990年代幸福の科学の関係者として知られた[1]

人物

要約
視点

広島市の生まれ[4]。祖父は近衛兵を務めた。3歳の時、東京王子に転居[4]北区立王子小学校の同級生に羽田健太郎がいる[5]

バレエを習いながら小学校5年の時東宝児童劇団に入り1960年日本テレビドラマ『ママちょっと来て』でデビュー[4]

子役としてドラマの出演の他、精華学園女子中学校在学中から日本テレビバラエティ番組九ちゃん!』の司会などで活躍[4]1965年16歳で東映にスカウトされ入社[1]。同期に大原麗子らがいる。『悪魔のようなすてきな奴』で映画デビュー[1]。『大奥物語』(新人賞受賞)、『続・大奥物語』の主演など3年間に10数本の映画に出演。

また1965年、TBS夢のスタジオ』の司会を久保浩と共に務める[6]1966年久保浩と一緒に歌ったリズム歌謡「恋旅行」を初シングルとしてビクターから発売する。1967年精華学園女子高等学校卒業。青春路線をやるという約束で東映にスカウトされたが、結局、青春ものは1本もやらずに、いやらしい題名の映画(『尼寺物語』)をやらせようとしたと、18歳で単身東映本社に乗り込み東映と契約を解消した[7]。東映との契約はまだ2年以上残っており、すぐに東芝から歌手デビューしたこともあって、小川の振る舞いに当時のマスコミは散々叩いた[8]

1968年、「ゆうべの秘密」で正式に東芝から歌手デビュー[1]オリコン1位を獲得するヒットを記録。

この曲は南米コロンビアでも70年代初頭に「Amor japonés」("日本の愛"の意味)という題名でヒットした。小川が歌唱したものだが、「AKAINA AKAMOTO」という歌手が歌ったことになっており(TOMOKO OGAWA が変化したものと見られる)、日本からどのようにしてこの曲がコロンビアに広まりヒットしたのかは不明である。

なお「ゆうべの秘密」レコーディング時には熱を出していたために、「吐息タッチ」な歌声になってしまったという。それでも男心をくすぐるその歌声で一躍人気者となりヒット曲を連打、『NHK紅白歌合戦』には1968年から1970年まで3年連続出場した[1]。『夜のヒットスタジオ』の第1回放送にも出演。俳優時代の演技力を生かし『夜のヒットスタジオ』の挿入コントの柱となり、『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』などでもコントを演じた[9]

1968年人気絶頂時に兄と20日間海外旅行。当時芸能人が長期休暇を取得することは異例だった[10]ミニスカートが流行りはじめると最も早くこれを取り入れる[11]

18歳の時、キャンティで知り合った恋人のカーレーサー・福澤幸雄福澤諭吉の曾孫)が1969年2月12日、テスト走行中に事故死。直後の『夜のヒットスタジオ』収録で[12]、「初恋のひと」を歌いながら泣き崩れた事件は、テレビ界に衝撃を与え、伝説化した[9]。小川の同番組出演は福澤急死後、急遽決まったもので、他人の不幸に便乗した形の高視聴率獲得戦術に、悪趣味と批判する論調も出た[12]。「初恋のひと」は発売後は伸び悩んでいたが、これを切っ掛けに急激に売上げが上昇し30万枚以上を売る大ヒットとなった[13]

1970年代に入ると、再び映画・テレビを中心に活躍。映画では『「されどわれらが日々」より 別れの詩』(1971年)のヒロインを演じ、日本で人気があったフランス人俳優ルノー・ヴェルレーと共演した『恋の夏』(1972年)などに主演。

福澤の死から3年経った1973年、福澤が愛し、奪った世界をしっかりこの目で見てこの手で記録し、そして乗り越えたいと、自ら出演、監督、主題歌、撮影、録音、編集をこなしたドキュメンタリー『マカオ・グランプリ』を撮影[14]。また実年齢より落ち着いた色っぽい大人の女性の雰囲気を持ち、20代半ばでダイハツ初代シャルマンイメージキャラクターなども務めた[15][16]1975年当時としては珍しく個人事務所を設立[17]。テレビでは1983年から放送を開始した『金曜日の妻たちへ』などの不倫ドラマが有名。また『夜のヒットスタジオ』では、谷村新司とのデュエット曲「忘れていいの-愛の幕切れ-」(1984年)を歌唱中、谷村が小川の胸元に手を忍び込ませ、大きな話題を呼んだ。

1977年俳優林与一と結婚するも後に離婚。その後、美術評論家の伊東順二と再婚した。

1991年作家景山民夫と「幸福の科学」の広告塔となり、雑誌「フライデー」の記事に対する講談社への抗議活動を行う(講談社フライデー事件)。闘士の如く絶叫し、マスコミに大々的に取り上げられ、世間の話題をさらった。この事件後、マスメディアの露出が極端に減ることになる。その後、1998年に景山が火災により死去した際には、「馬車に導かれて昇天する景山氏を見た」と極めてオカルト色の強い発言をした[18]

1994年、ドラマ「命ささえて-ママ、パパはエイズなの?」で日本民間放送連盟優秀賞を受賞。

1996年の夏、公私ともに親交のある歌手美川憲一と共にフジテレビ世界の超豪華・珍品料理」で料理を食べさせられたり、同「第20回爆笑!スターものまね王座決定戦」審査員、テレビ朝日徹子の部屋」出演など、露出が減っていた時期にバラエティ・トーク番組のゲスト出演を積極的に行っていた時期もあった。

2000年代頃から歌手活動を再開し、2006年には『玉置宏歌のアルバム同窓会コンサート』で、橋幸夫錦野旦フォーリーブスらと全国をまわった。

カラーコーディネーターの資格をもち、多方面で活躍している。

幸福の科学の月刊誌「アー・ユー・ハッピー?」で2010年7月からエッセイを連載している。

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略史

  • 1960年:テレビドラマ『ママちょっと来て』でデビュー(子役)
  • 1965年:映画でデビュー『悪魔のようなすてきな奴』(東映)
  • 1967年:エランドール賞(新人賞)受賞
  • 1968年:歌手デビュー『ゆうべの秘密』
  • 1968年:第19回NHK紅白歌合戦出場(『ゆうべの秘密』)
  • 1969年:第20回NHK紅白歌合戦出場(『初恋のひと』)
  • 1970年:第21回NHK紅白歌合戦出場(『思いがけない別れ』)

主な映画

主なテレビドラマ

怪奇!巨大蜘蛛の館 復讐を決意した姉の前に現われるクモは妹のすすり泣く怨霊か」(1978年8月26日、円谷プロ) - 中川彩子 役
「女たちは一度勝負する」(1989年2月、東宝
森村誠一の途中下車」(1990年5月、日本映像) 
ルノアール名画殺人事件」(1991年2月、東宝)
「三十年目の同窓会」(1991年5月、東北新社
「京都警備士日誌」(1997年8月)大熊日向子 役
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NHK紅白歌合戦出場歴

さらに見る 年度/放送回, 回 ...

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

テレビ番組

ディスコグラフィ

要約
視点

シングル

1968年「ゆうべの秘密」~1974年「海が見たいの」までは、2023年4月1日にVictor EntertainmentからMEG-CDでも発売されている。

さらに見る #, 発売日 ...

デュエット・シングル

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アルバム

オリジナル・アルバム

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ベストアルバム

さらに見る 発売日, タイトル ...

タイアップ曲

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著書

  • 『ジュニアのためのおしゃれ百科』編 大岡まち子絵 若木書房 入門百科ジュニアシリーズ 1971
  • 『美しく燃えて』学習研究社、1992年。
  • 『宗教の反撃―講談社フライデー事件と裁判のすべて』(1993年、幸福の科学出版景山民夫との共著)

脚注

参考文献

外部リンク

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