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錦野旦

日本の歌手 (1948-) ウィキペディアから

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錦野 旦(にしきの あきら、1948年12月14日 - )は、日本の歌手俳優タレント。本名は錦野 明(読み同じ)[2]

概要 錦野 旦, 出生名 ...

旧芸名はにしきの あきら。父・母・弟・妹の5人家族。血液型A型。身長176cm、65kg(1976年2月)[1]

概要

アイドル歌手として1970年代初めから半ばにかけ、その精悍せいかんな風貌と抜群の歌唱力を武器に10代から30代の女性に人気を博す。特に芸能人大運動会(水泳大会含め)では、同期(1970年)デビューの野村真樹(野村将希)と共に抜群の運動神経を披露していた。1970年代後半は東映映画やドラマ等で活躍した。

1990年代以降は、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』に出演したのをきっかけに再ブレイク、バラエティ番組に多く出演するようになった。『生ダラ』には準レギュラー的に頻繁に出演、番組内で「スターにしきの」と呼ばれたのをきっかけに、これが二つ名として定着。『生ダラ』最終回には「僕の再デビューは『生ダラ』」と発言している。また『『ぷっ』すま』では、常人には全く食べられないハチャメチャな料理をいとも簡単に平らげてしまうことから「鉄の胃袋の持ち主」の異名を得ている。

国籍

1961年、家族と共に韓国籍から日本に帰化[3]

アイドルとして人気絶頂にあった1972年、自身が帰化した韓国系日本人であることを週刊誌で公表している。「全アジアはひとつだと思っているし、秀吉の侵略以来自分たちは被害者なのだから、なぜ隠すのかよくわからない、隠す必要もないしわざわざ言うこともない、普通にとってくれればいい」と言う。

その一方で「過去、文化的に優位にあった朝鮮半島の出自であることに優越感を感じる」とも[4]

1970年山村政明(帰化した早稲田大学学生)の焼身自殺は、直後に起きた三島由紀夫の死よりも衝撃だったと言う。錦野自身は帰化について、その国で生まれ、仕事をし、その国で死んでいくつもりなら、当然すべきことであると考えている[4]

経歴

要約
視点

大分県大分市出身。大分県立芸術短期大学附属別府緑ヶ丘高等学校在学中は体操オリンピック選手を夢見て血のにじむような練習に励んでいたが、体格が体操に相応しくないことを悟り、高校3年の時に体操部を退部し吹奏楽部に転部した。1967年春の卒業と同時に社交ダンスの先生である父に紹介された別府ナイトクラブ『ナポリ』で、トランペット第三奏を吹いたり、コンボ編成のベースを奏いたり、時折唄っていたりと活動した。

そんなある日、森進一を発掘した鹿児島市天文館の『キャバレー・エンパイア』の創業者であった吉井勇吉[5]がたまたま『ナポリ』へ遊びに来ており、美川憲一の『柳ヶ瀬ブルース』を唄い終わった明に『うちへ来て歌わないかね?』と持ちかける。『エンパイア』の専属になって3ヶ月後には音楽家の浜口庫之助を紹介され上京[2]赤坂にあった浜口の自宅マンションで住み込みの運転手をしながら猛レッスンを積む。やがて浜口の事務所であるミュージック・ショップに籍を置き、1970年5月1日、「にしきのあきら」の芸名でCBSソニーより浜口の作詞・作曲による「もう恋なのか」で、男性アイドル歌手としてデビューした[6]

デビュー後は世田谷区駒沢の今村マネージャー宅の4畳半で下宿生活を始める[7]。歌手デビュー当時は、レコード会社と所属芸能事務所の方針により実年齢より3歳若い昭和26年(1951年)生まれとされていた。そのデビュー時称されたキャッチフレーズは、「ソニー演歌の騎士(ナイト)」であった[8]。同曲は1970年末放送のTBSテレビ第12回日本レコード大賞」で最優秀新人賞を受賞。さらに同日、大晦日放映のNHKテレビNHK紅白歌合戦」(第21回)にも初出場を果たす。ブロマイド年間売上実績で第1位を獲得。翌1971年には「空に太陽がある限り」が、オリコンチャート週間最高3位(同年年間29位)の大ヒット、自身の代表曲とも成った。

以後も高いアイドル人気を保持しヒット曲を放つものの、1976年にそれまで連続出場していた紅白歌合戦に落選。翌1977年10月15日、ポルノ女優から大麻を譲り受けた疑いによって大麻取締法違反で逮捕された(後に不起訴[9]。さらにマネージャーが勝手ににしきの名義で多額の借金を作り失踪。一転して波乱の芸能生活を送る。

長髪から短髪へ

1979年に『戦国自衛隊』で演じた陸上自衛官役で、らしく見せるためにそれまでのトレードマークであった7:3の長髪スタイルからスポーツ刈りに短く髪を切り、それ以来自衛隊スタイルの髪型を貫いている。

1990年代になって、アニメ『ちびまる子ちゃん』の「まるちゃんブロマイドをなくす」で注目を浴びたことでバラエティ番組に再出演するきっかけとなり[10]、ドラマ『雪の蛍』(東海テレビ)に出演して俳優としても開花する。それを皮切りに『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』で意外な注目を集め、その後『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』では、福澤朗から裏スターとしていじられ(その際の本当のスターは神田正輝)、これを契機に「スターにしきの」のキャラクターで再び脚光を浴びるようになってゆく[注 1]

2000年、芸名を「錦野旦」と改め、テレビ番組映画舞台で活躍。

結婚を二度経験。1980年に女優・武原英子と結婚、2人の女児を授かるが、武原は1996年12月18日乳癌により死去(50歳没)。その後2000年3月3日、元客室乗務員で錦野の個人事務所の専務をしていた力丸ヒロ子(通称:力丸専務)と再婚(公表は同年8月)。

2013年8月15日の第68周年光復節中央記念式典で歌を歌った[11]

2015年、第16回ベストスイマー賞を受賞[12]

出演

要約
視点

テレビドラマ

映画

ミュージカル

CM

その他の番組

他多数

NHK紅白歌合戦出場歴

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注意点
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
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ディスコグラフィ

シングル

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デュエット・シングル

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アルバム

オリジナルアルバム/アナログ

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ライヴ・アルバム/アナログ

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編集アルバム/アナログ

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タイアップ曲

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書籍

脚注

関連項目

外部リンク

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