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服部敏和

日本のプロ野球選手 (1948-) ウィキペディアから

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服部 敏和(はっとり としかず、1948年2月13日 - )は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身の元プロ野球選手

概要 基本情報, 国籍 ...

ユーティリティプレイヤーとして知られ、捕手以外の内外野全般をこなした。

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来歴・人物

静岡高校では、1年生時の1963年左翼手として小田義人らと共に夏の甲子園に出場し、2回戦で銚子商業高校に敗退[1]1965年春の選抜では中堅手として準々決勝まで進出するが、岡山東商業高校(主戦は平松政次)に完封負けを喫する[2]。高校での同期に小田の他、佐藤竹秀がいる。高校卒業後は立教大学に進学し、東京六大学野球リーグでは1年生からレギュラー外野手となる。1966年春季リーグでは、優勝を経験。しかし同大学を2年で中退し、日本楽器(現・ヤマハ)に入社した。主に1番を打って、1968年大阪大会では1試合2本塁打を放ち、産業別対抗にも出場した。

1968年、ドラフト10位指名で近鉄バファローズに入団。1969年には、ジュニアオールスターゲームに出場した。1970年に一軍に定着し71試合に先発出場、主にチャンスメーカーとして三塁手外野手をこなす。1973年は外野手に専念、規定打席には届かなかったが、打率.321の好記録を残す。翌年は退団したジム・クォルスに代わり二塁手に回される。1975年オフに、永淵洋三市橋秀彦と共に阪本敏三八重沢憲一との交換トレードで日本ハムファイターズに移籍。日本ハムでも主に外野手の準レギュラーとして長く活躍、1981年巨人との日本シリーズ第1戦では、同点の9回裏に中前打を放ち、代打井上弘昭のサヨナラ安打でホームインを果たす。1982年限りで引退した。引退後は株式会社石原機械工業に勤務。

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1980年8月6日 ※218人目

背番号

  • 45 (1969年 - 1971年)
  • 23 (1972年 - 1975年)
  • 2 (1976年 - 1978年)
  • 28 (1979年 - 1982年)
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脚注

関連項目

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