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安藤順三
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安藤 順三(あんどう じゅんぞう、1935年6月28日 - )は、岐阜県多治見市[1]出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。
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経歴
現役時代のライバルであった野村克也とは同期であり、誕生日も一日違いである。多治見工業高校では中学時代に続き、小学校時代からの幼馴染で同期のエース・梶本隆夫とバッテリーを組む[1]。小学生の頃の梶本は自分の実力に自信を持っていなかったが、安藤はこの頃からプロを意識していた。3年次の1953年に岐阜大会を勝ち抜いて三岐大会の決勝に進出したが、津高に完封負けを喫し、甲子園出場を逃す[2]。
卒業後の1954年に東映フライヤーズへ入団し、3年目の1956年からは山本八郎と併用される。1958年5月31日の西鉄戦(駒澤)では、土橋正幸の1試合16奪三振の日本記録(当時)樹立をアシスト。土橋とは選手寮の1階で同部屋であったが、安藤は酒を飲まなかったため、2階にいた張本勲が晩酌の相手となった[3]。1959年には山本の三塁手転向によって正捕手となり、初めて規定打席にも到達(25位、打率.184)。山本は1960年に捕手へ復帰するが、1961年には一塁手に回る。その後継として再び正捕手となり、1962年には球団史上初のリーグ優勝に貢献。同年の阪神との日本シリーズでは10月14日の第2戦(甲子園)まで先発マスクを被るが、同16日の第3戦(神宮)からは水原茂監督がデータ研究に長けていた安藤から種茂雅之に捕手を変える。種茂は思い切ったリードで投手の力を引き出しながら打っても殊勲打を放ち、シリーズMVPを獲得し[4]、安藤はあまり活躍の場は無かった。1961年から1963年まで3年連続でオールスターゲームに出場[1]したが、1965年には白仁天や種茂・鈴木悳夫の成長もあって定位置を譲り、1966年からはコーチを兼任。1968年は7月17日の東京戦(後楽園)で終盤にマスクを被り、史上133人目の1000試合出場を達成。8月8日の近鉄戦(日生)では鈴木啓示にノーヒットノーランを達成されているが、安藤は9回表2死に作道烝の代打で打席に立ち、一邪飛に打ち取られたため最後の打者となっている。1970年引退。
引退後は東映→日本ハムで二軍バッテリーコーチ(1971年, 1976年)、一軍バッテリーコーチ(1975年[5])、二軍監督(1989年 - 1990年)、スコアラー、育成部[6]を歴任。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1968年7月17日 ※史上133人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1961年 - 1963年)
背番号
- 31 (1954年 - 1970年)
- 71 (1971年)
- 60 (1975年)
- 72 (1976年)
- 88 (1989年 - 1990年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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