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浅田美代子

日本の女優、タレント、元アイドル歌手 (1956-) ウィキペディアから

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浅田 美代子(あさだ みよこ、本名同じ、1956年昭和31〉2月15日 - ) は、日本女優タレント・元アイドル歌手である。愛称は「美代ちゃん」「美代子さん」。身長157cm、血液型B型。所属事務所芸映プロダクションテアトル・ド・ポッシュ、歌手活動当時の所属レコード会社はCBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックレーベルズ、当時の所属レーベルEpic)。

概要 あさだ みよこ 浅田 美代子, 本名 ...

東京都港区出身[1][2]港区立南山小学校から東京女学館中学校を経て東京女学館高等学校

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来歴

要約
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1956年昭和31年)2月15日、東京都港区で生まれる。家族は祖父の代から麻布で自動車修理工場を経営する父と母、弟[1]。両親に薦められ自宅から徒歩圏の東京女学館小学校を受験するも不合格となり、中学で再受験し合格した[1]

東京女学館高等学校2年在学中の1972年(昭和47年)夏、街頭でスカウトされる[2]。当初両親は芸能界入りに反対していたが[2]、芸映側が交渉の過程でドラマ『時間ですよ』の新人オーディションへの参加を提案、それに応じたところ、約25,000名の中から選ばれる[2]。これで芸能界入りするが、東京女学館は芸能活動を禁じているため高校を中退する。

1973年(昭和48年)2月14日、『時間ですよ』(第3シリーズ)のお手伝い役でデビュー[3]。キャッチフレーズは「ソニー・エンジェル[4]。国民的な高視聴率番組だったことも加わって、たちまち人気を集める。また劇中歌でデビュー曲の「赤い風船」(現代の童謡をコンセプトに作られた楽曲と伝えられる)は、1年で50万枚近くを売り上げオリコンの年間セールス10位の大ヒット(この年の新人歌手のシングルでは最大のヒット)となり、1973年の第15回日本レコード大賞で新人賞を受賞する。その後も『寺内貫太郎一家』や『時間ですよ・昭和元年』などの人気ドラマに出演すると共に、映画出演や歌もヒットする。

当時NHKに歌手として出演するためには局のオーディションに合格する必要があったが、通常1、2回で済むところ、彼女は5回目でようやく合格した[5]

1975年(昭和50年)「なつかしき海の歌」(TBS)での共演の頃からシンガーソングライター吉田拓郎との交際の噂が流れた[2]。当時の吉田は既婚者ですでに娘もいる不倫状態[2]。浅田を可愛がっていた樹木希林内田裕也を伴い、吉田を詰問したといわれ[1][2]1977年(昭和52年)7月、21歳で吉田拓郎と結婚[2]。芸能界を引退し主婦業に専念する[1][2]

6年後の1983年(昭和58年)に吉田と後に3人の目の妻となる森下愛子との不倫報道が取り沙汰され[2]、気丈に否定はしたものの[2]、翌1984年(昭和59年)8月に吉田と協議離婚が成立した[2]。この間の1983年(昭和58年)10月に芸能活動を再開し、以降は数多くのドラマや映画に出演する[2]

親交がある明石家さんま司会のバラエティー番組の常連としても活躍しており、『さんまのSUPERからくりTV』で見せた強烈な天然キャラで人気となった[2]。さんまは「天然(おバカキャラ)で有名になった里田まいなどよりも天然である元祖天然」と語り、数々のエピソードが持ちネタの1つでもある。以前から噂にはなっていた浅田の「天然」が露見する形でブレイクし[2]、同番組は2014年に終了するまで約22年間の看板番組となり[2]、浅田はその全期間にレギュラーとして出演[2]、「番組の顔」として活躍した[2]

2019年に公開された映画『エリカ38』では、映画としては1974年の『あした輝く』以来45年ぶりとなる主演を務めた[2][6]。同作の演技により、ロンドン・イーストアジア映画祭で審査員特別賞を受賞(日本人女優として初受賞)[注釈 1]

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人物

  • 趣味・特技はピアノテニス自動車のメカニズムにも精通している。
  • 麻丘めぐみ南沙織の2人はデビュー時からの親友ともいえる関係で、結婚後の引退時、毎日の様に会っては一緒に買い物へ出かけたり、お茶を飲んだりしていたと語っている。
  • 石野真子を妹のように可愛がっている。石野が長渕剛との離婚報道が出た1983年に別居した後、マスメディアに追いかけ回されるのを避けるため、浅田・吉田拓郎邸に2ヵ月間身を潜めた[8]
  • 樹木希林には、亡くなるまで公私共にとても可愛がられていた。吉田との結婚に猛反対していた両親を説得したのも内田裕也と樹木夫妻である[1]。2021年には、樹木との思い出をまとめた書籍『ひとりじめ』(文藝春秋)を上梓している。また、淡路恵子とも親交が深かったほか、木内みどりとも仲が良かった。
  • イワイガワ井川修司は、浅田の付き人をかつて務めており、浅田には「イガピー」と呼ばれている。事務所の先輩でもある関根勤とは、浅田の付き人時代に初対面を果たしており、浅田と関根が共演していた「からくりTV」の収録中、浅井企画のマネージャー陣と交流を深めたことをきっかけに芸能界入りした。現在は「井川でしか知り得ない浅田の(失敗)エピソード」を、自ら出演する番組で度々ネタにしている。井川曰く「自分の物差しで生きている人[9]
  • 浅田が探偵役を演じた2時間ドラマの撮影にて、トリックを暴く長台詞シーンを朝方の撮影ながら1発OKで撮り終えた。撮影終了後、井川が運転する車内で「すごかったですね、1発OK」と井川が褒めたところ、浅田は「本当よ、大変だったわよ。ところでさあ、犯人誰なの?」と答え、井川も耳を疑った。浅田は、撮影したシーンにおけるトリックの意味が分からなかったらしく、その仕組みを井川に解説されながら帰路についた[9]。浅田の天然キャラを表すエピソードとして現在は広く知られているが、間違った内容で伝わっている[注釈 2]ため、井川は浅田に怒られたという。
  • ある日の午前中に浅田を激怒させてしまった井川は、クビを覚悟で謝罪しに行った。ところが浅田は、午後には叱責した事自体を忘れてしまっていた。井川は「翌日忘れるのならまだいいが、午前のことを午後には忘れられてしまうのが辛かった」と、『コサキンDEワァオ!』で述べている。
  • 埼玉県で開催されたとあるゴルフコンペで、埼玉県には海が無いにも拘わらず、ラウンド中に自ら打ったボールが池に入りそうになると、「あっ、海〜!」と言った。コンペに同席していたさんまが「美代子さん、海じゃありませんよ」と指摘しても、浅田は頑なに言い続けたという。コンペ終了後、スコア発表の際に「私、"ちょうど"108つ」と発言し、その言葉を聞いた関根とさんまは、"ちょうど"の理由を訊くと「だって、煩悩の数じゃない?」と答えた[9]
  • 実母の葬儀の際、仕事の都合で早めに会場へ訪れたさんまは、号泣する浅田の姿を見て「普段通りに茶化したら、さすがに失礼だ」と黙って香典を渡したところ、浅田に「何でもお金で解決しようとして!」と投げ返された。浅田はその場に居た実弟に「美代子!そういうもんじゃないだろう!」と怒られるが、浅田は「だって、さんまさんはお金払って解決しようとする」「"振り込み王子"って言ってたから、そう思っちゃったの」と、号泣しながら言い訳をした[9][10]
  • さんまとの会話中、「金曜日って何曜日だったっけ?」という通常ではありえない質問をした事がある。さんまは面白がって「火曜日ちゃいまっか?」と冗談で言うと、浅田は「そうだった、そうだった!」と納得してしまった。このエピソードは、さんまのコントライブ「明石家さんまプロデュース 今回もコントだけ」第12回公演のサブタイトルとして使用された[11]
  • 原宿辺りで車を運転中、知り合いらしき人物を見つけた浅田は、車内から手を振り「何やってるの?」と訊くと、その人物は「青山に行くんです」と答えた。浅田はその人物を車に乗せて青山まで連れていこうとしたが、車内での会話が噛み合わず、「あんた誰なの?知り合いじゃない!降りなさい!」と降ろしてしまった。その出来事を聞いた関根は「美代子さん、あなたが勝手に勘違いしたんだから、青山まで送ってくべきだ」と返すと「だって、何で知らないのに乗ってきたのよ!」と反論した。関根も「美代子さんに手を振られて、"乗ってきなさいよ"と言われたら、そりゃ乗りますよ」と返したが、浅田は「失礼よ!」と納得いかない様子だったという[9]
  • 2008年放送の「FNS27時間テレビ」内の企画「ヘキサゴン・スペシャル」に、さんま軍団(間寛平ジミー大西村上ショージ中村玉緒・浅田)の一員として出演。最後のコーナー「早抜けリレークイズ」において、寛平が回答者の際、後方で座っていた浅田は突然「(答えが)分かった!」と急に立ち上がり、寛平が座る回答席まで出てきて答えようとした。当然、さんまと島田紳助からはツッコミを受ける事となり、特に紳助からは「あんた、これスタジオやったから良かったけど、道路やったら轢かれてんで!」とツッコまれた。
  • 2014年、都内の犬猫の殺処分ゼロを目指すキャンペーン「TOKYO ZERO」[12]の一員[13]
  • 2021年4月17日・18日、『〜筒美京平 オフィシャル・トリビュート・プロジェクト〜 ザ・ヒット・ソング・メーカー 筒美京平の世界 in コンサート』が東京国際フォーラムにて開催され、浅田は筒美が作曲した『赤い風船』を披露した。
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ディスコグラフィ

要約
視点
  • シングルは1973年から1975年までの間に10枚、1990年代に2枚発売され、オリコンチャートでは内3枚がベスト10入りし、「赤い風船」で週間売上1位を獲得している。ちなみにデビュー時のキャッチフレーズは“ソニー・エンジェル”だった。
  • アルバムは1973年から1977年までの間にオリジナル盤が2枚、企画盤が4枚、ライブ盤が2枚、ベスト盤が5枚、1980年代以降ベスト盤が4枚発売された。オリコンチャートではうち1枚がベスト10入りしている(最高位は『赤い風船』の週間売上6位)。

シングル

さらに見る #, 発売日 ...

アルバム

(二重日付はアナログレコード / CDの各発売日)

  • 赤い風船(1973年5月21日 / 1991年6月15日) - 企画盤
  • 美代子のおくりもの(1973年9月1日) - 企画盤
  • GIFT PACK SERIES MIYOKO ASADA(1973年11月1日) - ベスト
  • オリジナルファーストアルバム(1973年12月21日) - 12曲中2曲作詞 企画盤
  • しあわせの一番星 / 恋は真珠いろ(1974年5月1日) - 企画盤
  • 美代子の新しい世界(1974年9月1日) - 10曲中4曲作詞 企画盤
  • 浅田美代子ヒット全曲集(1974年11月1日) - SQ4ch.ベスト
  • 浅田美代子第一回リサイタル / ライブ(1974年12月10日) - ライブ
  • 浅田美代子デラックス(1975年6月1日) - 2枚組ベスト
  • この胸にこの髪に(1975年12月5日) - 企画盤
  • 美代子のページ(1976年2月25日) - ライブ
  • 美代子からあなたへ(1976年) - ベスト
  • 浅田美代子のすべて(1976年6月1日) - 2枚組ベスト
  • THE BEST 浅田美代子(1977年11月1日) - ベスト
  • 以下、CDのみ(全てベスト盤)
    • 浅田美代子 ベスト・コレクション(1986年5月21日)
    • GOLDEN J-POP / THE BEST 浅田美代子(1998年11月21日)
    • DREAM PRICE 1000 浅田美代子 赤い風船(2001年10月11日) - ミニアルバム、1枚目のアルバムとは別内容
    • GOLDEN☆BEST 浅田美代子(2003年7月16日)全シングル集(嘉門達夫とのデュエット曲を除く『いっしょにねっ』のB面はカラオケの為全部で21曲収録)

タイアップ曲

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出演

テレビドラマ

NHK

日本テレビ

TBS

フジテレビ

テレビ朝日

テレビ東京

テレビ大阪

  • 古賀政男物語(1992年) - 開局10周年記念

Webドラマ

映画

舞台

  • 芸者と第九交響曲 明治座
  • 春日局 帝国劇場
  • 喜劇・離婚 芸術座
  • 寺内貫太郎一家 新橋演舞場
  • シアタークリエ9月公演『ミッドナイト・イン・バリ〜史上最悪の結婚前夜〜』(2017年)

バラエティ

ドキュメンタリー

  • 旅の力「犬の幸せってなんだろう・・・ドイツ・ベルリン」(2012年1月24日、NHK BS)

Webラジオ

  • 「美代子さんの文章、いのちの教室」(2019年6月6日、木内みどりの小さなラジオ)[28]

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書籍

脚注

関連項目

外部リンク

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