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皇位継承

皇嗣が皇位を継承すること ウィキペディアから

皇位継承
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皇位継承(こういけいしょう)とは、日本において皇位天皇の位)を皇嗣皇位継承順位第1位の者)が受け継ぐこと。諸外国における国王皇帝の地位を継承を意味する王位継承(おういけいしょう)あるいは帝位継承(ていいけいしょう)とほぼ同義語である。大日本帝国憲法及び日本国憲法旧皇室典範及び現行皇室典範で明文規定された。

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第126代天皇 今上天皇
即位礼正殿の儀
2019年令和元年)10月22日
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即位の礼に臨む昭和天皇
1928年(昭和3年)11月。
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現在の皇位継承

日本国憲法第二条
皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
皇室典範第一条
皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
皇室典範第四条
天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。
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図における「男子B」と「男子F」が「皇統に属する男系の男子」である。

皇位継承は日本国憲法第2条に『皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する』と規定されている。この解釈についてはさまざまな議論があるが詳しくは日本国憲法第2条を参照のこと。

江戸時代中期の光格天皇閑院宮出身、第119代)以後は、徳仁(第126代)まで、全て皇統直系の男系男子により(皇太子が次代天皇に即位する)皇位継承が行われて現在に至っている。

近代に入り、明治天皇治世の1889年明治22年)に「退位禁止(譲位禁止)」と「養子禁止」と「直系男子への皇位継承優先」について定めた旧皇室典範が制定された。

昭和時代、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法の下で皇室典範は再度制定されたが、「退位禁止(譲位禁止)」と「養子禁止」と「直系男子への皇位継承優先」とする基本性格は変更されず、更に「非嫡出子を皇族としない」規定が追加された。

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皇位継承順位

皇位を継承する皇族の順位(順序)は皇室典範第2条に定められている。

現在の順位

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皇位継承儀式

要約
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皇位継承の儀式の法制については、1909年制定の登極令(明治42年皇室令第1号)に基づいている。厳密には、同法例は占領期間中に廃止されており、成文法としての根拠はこの時になくなっているが、別途規定のないものは1947年の宮内省以命通牒(昭和22年5月3日宮内府長官官房文書課発第45号)により、以降も従前の例をほぼ踏襲する形で執り行っている。

以下の皇位継承儀式は、昭和天皇(第124代天皇)から皇太子明仁親王(第125代天皇→上皇明仁)の皇位継承に際する事跡である。

剣璽等承継の儀

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1989年(昭和64年)、剣璽等承継の儀

剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)とは、旧登極令(明治42年皇室令第1号、昭和22年廃止・失効)附式の、第一編 践祚ノ式にある剣璽渡御ノ儀(けんじとぎょのぎ)にあたる国事行為たる儀式である。剣とは天叢雲剣を指し、璽は八尺瓊勾玉を示している。

これは皇位の証として伝承される三種の神器のうち、剣と璽を大行天皇(追号が定められるまでの崩御した先代天皇の呼称)から承継するもので、剣については宮中にある天叢雲剣の複製品を用い、神璽は本物とされる八尺瓊勾玉を用いる。同時に国璽御璽の承継も行われる。

1989年(昭和64年)1月7日、皇太子明仁親王の皇位継承に際しては、昭和天皇崩御直後、同日午前10時1分より皇居正殿松の間で執り行われた。国民代表として、内閣総理大臣(当時:竹下登)、最高裁判所長官(当時:矢口洪一)、衆議院参議院両院議長(当時:原健三郎土屋義彦)の、行政司法立法三権の長、全閣僚(当時:竹下改造内閣)などが参列した。天皇は藤森昭一宮内庁長官(当時)らに先導され、男性皇族を従え、松の間に出御し、参列者に向かい合う形で正面の席に着き、剣璽及び国璽・御璽を侍従が天皇の前にある机に置く短時間の儀式が執り行われた。

皇霊殿神殿に奉告の儀

皇霊殿神殿に奉告の儀(こうれいでんしんでんにほうこくのぎ)とは、先祖代々の皇霊を奉る皇霊殿、及び天神地祇を奉る神殿において、「新天皇の践祚」を奉告する儀式である。「剣璽等承継の儀」が執り行われているほぼ同時刻に、宮中三殿に於いて掌典長が「新天皇の践祚」を奉告する。

賢所の儀

賢所の儀(かしこどころのぎ)とは、賢所(けんしょ・かしこどころ)に御神体として奉られている神器、八咫鏡の承継儀式である。平成元年(1989年)1月9日昭和天皇の崩御から2日後に、掌典長により宮中三殿で執り行われた。八咫鏡は宮中に鎮座している複製品である。

この儀式によって、皇位の証である三種の神器を継承した天皇が、正統な皇位継承者となるというのが現在の考え方である。

なお、過去には継承の儀を執り行うことが出来なかった天皇が存在する(南北朝分裂期の北朝の天皇など)。

即位後朝見の儀

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2019年(令和元年)、即位後朝見の儀

即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)とは、即位(践祚)した新天皇が初めて首相らに言葉を述べる国事行為たる儀式である。平成元年(1989年)1月9日に、皇居正殿松の間で365人の参列者のもと執り行われた。

大嘗祭・大嘗宮の儀

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1990年(平成2年)、大嘗祭
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令和の大嘗宮

1年の諒闇、喪が明けて最初の新嘗祭たる大嘗祭(だいじょうさい)が、即位の翌年に執り行われる。11月卯の日(4番目の日)に4日間に渡って執り行われ、皇位継承に伴う儀式はこれをもって最後とする。

1990年(平成2年)11月23日に、大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)が執り行われた。

なお、継承された神器(天叢雲剣及び八咫鏡)は複製品であるので、時機を見て本物が奉られている伊勢神宮熱田神宮へ即位奉告を行うことになる[要出典]。特に皇祖神である天照大御神の奉られている伊勢神宮への奉告は早期に執り行われる事になる[要出典]

皇位継承儀礼の変遷

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第121代孝明天皇の即位礼
弘化4年、於 平安宮(京都御所

皇位継承儀式の淵源は古く古墳時代において古墳において行われた首長霊天皇霊)継承儀式だという説が近年、考古学から提言されている。その継承儀式は大嘗祭との関連も含めて現在も未だ様々な説が呈されている状況である[1]

天皇が皇位を継承するにあたって執り行われる行事は数多いが、特に重要であるとして現代に続く行事として、即位の礼の中心儀式で天皇が高御座に上って皇位継承を内外に宣明する「即位礼正殿の儀(←即位礼紫宸殿の儀)」と、歴代の天皇霊を受け継ぐ神道祭祀である「大嘗祭」とが挙げられる。皇室の始原が語られる記紀神話においては、大嘗祭は天岩戸伝説に、即位礼は高千穂峰への天孫降臨にそれぞれ比定されるとの説がある[2]

記紀の記述によると、古代において、即位礼は正月に行われた記録が多い。これは推古天皇の時代に中国大陸から暦の知識が輸入されるとともに、中国大陸の例に倣って正月即位の形が恒例化されるとともに、それ以前の即位礼もそれにあてはめ、その多くが正月の日付を与えられたのではないかとされる[3]

一方、大嘗祭は天皇が大嘗宮にこもり、天孫降臨時のニニギノミコトを模すことによってニニギノミコトが天照大神から受けた霊威を新たに得ることであり、元は冬至の頃(太陽太陰暦では11月頃)に行われる忌籠りの祭祀であったとされる[4]

古代における両儀式の次第が詳細に記録されているのは、朱鳥4年(689年)の持統天皇の皇位継承に関する記述である。この時の一連の儀礼は、次の手順で行われた。

  • 正月1日、石上麻呂が大盾を樹て、神祇伯の中臣大島天神寿詞を読み、忌部色夫知が神器の天叢雲剣八咫鏡を奉った。公卿百寮は羅列して八開手を打って拝礼した。翌2日、元旦朝賀と同様の拝賀が行われた。中国風の儀式を取り入れ、焼香を行い、公卿百寮が拝礼し、万歳を奉唱した。
  • 翌朱鳥5年11月24日、大嘗祭が行われた。この日は冬至にあたった。25日、中臣大島は再び天神寿詞を再び詠んだ。28日、饗宴が行われた。

即位礼と大嘗祭とで天神寿詞が二度読まれたことから、古来は大嘗祭の翌日に即位礼が行われており、時代が下るにつれて即位礼が正月に移動したのではないか、とされる。これらから、陽光(天照大神)が弱まった冬至の日に天皇が忌籠り大嘗祭を行い、翌日大神の霊威を得て「ハレ」の状態となった新帝が即位礼を行うのが本来の形であったと思われる[5]

その後、平城天皇の時から、先帝が位を退くと同時に直ちに新帝が践祚し、神器を受け継ぐことになった(践祚・即位の分離)。

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大日本帝国憲法下の皇位継承

皇位の継承について大日本帝国憲法第2条で「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス」とあり、旧皇室典範第一章に皇位継承順位、第二章に践祚即位について規定されていた。皇室典範第1条では「大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」と記されている。

皇位継承の儀式については、皇室典範を根拠とし、皇室典範に属する法体系、いわゆる「宮務法」として公布された皇室令のひとつ、登極令(明治42年皇室令第1号)及び同附式によって細かく定められていた。なお、日本国憲法の施行に伴い、旧皇室典範及び皇室令は、1947年(昭和22年)5月2日大日本帝国憲法の失効に伴い廃止されている。

皇位継承の歴史

要約
視点

弥生期 - 飛鳥期

日本では、倭国と呼ばれた古代から皇位継承(王位継承)に関する問題が生じていた。『魏志倭人伝』によれば、弥生時代後期の2世紀後半、倭国王位の継承を巡って倭国大乱が起こり、卑弥呼が倭国王となることで争乱が終息した。さらに卑弥呼の没後、男王が立ったが再度争乱が起こり、卑弥呼の宗女台与が王位について争乱は収まったと記録されている。寺沢薫は卑弥呼が「夫婿なし」として、夫をもたなかったことは神聖性を保持するためだけではなく、女王の夫と子供が王位継承に関わることを回避するためであり、裏を返せばこの時代に部族的国家王たちの間で子に王位を世襲させる継承がすでにあった可能性を指摘している[6]。 また卑弥呼とそれを補佐する弟は同じ男系王統に連なる出自であることは間違いないだろうとも述べている[7]

古墳時代5世紀にも、王位継承を巡る数々の逸話が、『日本書紀』の記載から読み取れる。また前方後円墳やその副葬品からも古墳時代の王位継承についての情報が読み取れ、中でも埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣にはオワケからオホヒコに至る八代の系譜が記されているが、このことはオワケの仕えた雄略天皇からオホヒコが仕えた崇神天皇までの八代の王統譜(皇統譜)を記す原帝紀がこの頃すでにあった可能性を示唆しているという説もある[8]。 また近年ではこの当時の継承は稲荷山古墳出土鉄剣や籠神社の海部氏系図の分析から必ずしも父から子へという継承ではなく始祖を同じくする一族()の中から血縁の遠近に関わらずふさわしい人物が選ばれ、それを疑似的な親子関係とみなすという継承の行われていた可能性も指摘されている[9]

『宋書』に記される倭王武の上表文には「祖禰」(先祖)という言葉で倭武の一族が先祖代々にわたって日本の統一事業を成し遂げてきたことの表現があるが、このことは倭の五王が同じ父系血族に属する一族であり、その中での大王位の世襲が行われてきたことを表しているとする指摘もある[10]

6世紀前半には、武烈天皇の崩御により一旦、大王系統が断絶しているが、応神天皇の5世の子孫とされる継体天皇が大王位を継承した。実際に5世の子孫だったかには賛否両論あるが、この事例は天皇の5世の子孫までは皇位継承権を持ちうる先例となって、その後の皇統断絶の際に強く意識されることとなった。

オホド王(継体天皇)自身は五世紀の倭姓を名乗っていた王族出身と認められるが、大兄制度により、より近親による皇位継承の世襲化を進めたと言われている[11]

古墳時代から飛鳥時代にかけて(6世紀中期 - 7世紀後期)も、大王位継承の紛争がたびたび生じた。この頃の大王位継承のルールには、兄弟承継、大兄承継、母后出自、群臣推挙、先帝遺詔(更に近年では即位要件に年齢制限(30歳以上)があったとする説もある)などがあり、これらが複雑にからんで大王位継承が行われていたと推定されている。継体天皇の後に安閑天皇宣化天皇が数年間在位して欽明天皇が即位しているが、欽明天皇による簒奪だったとする説もある[要出典]。その後、欽明天皇の子孫が大王を継いでいるが、その経緯は複雑であり、多くの紛争が生じている。次期大王の決定が難航したときは、女性が大王に選ばれることもあり、推古天皇皇極天皇らが即位して、他に適当な男子の大王位承継者が現れるまで在位した(女性天皇女帝が選ばれた理由には諸説あり、律令制以前の中継ぎ説を認めないなどの異説が多く存在する[要出典])。

古代の大王位の継承において、最大の争いとなったのは、672年(白鳳元年)の壬申の乱である。天智天皇は直系の大友皇子(弘文天皇)を皇嗣と定めたが、それを不服とする大海人皇子が大規模な叛乱を起こし、大友皇子を滅ぼして自ら大王となった(天武天皇)。天武天皇は、自身以降の皇位継承紛争を防止するため、兄弟間継承を廃止し、直系男子が皇位継承するルールを定めようと試みたらしく、草壁皇子皇太子に立てた。だが、政権基盤が固まる前に天武天皇が崩御してしまったために、天武天皇の皇后は草壁皇子が大友皇子の二の舞にならないように拙速な皇位継承を避けようとした。だが、その草壁皇子までが急逝してしまった為に、皇后は皇位継承紛争を防ぐために、自ら中継ぎとして皇位に就き(持統天皇)、草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)を皇太子とした。この系統は一般的には天武天皇系の皇統とみなされているが、天智天皇の皇女であった持統天皇が自分自身を天智天皇の直系と意識していた可能性は高い[要出典][12]歴史上女性天皇の配偶者は男性皇族(天皇含む)であったため問題視されることはなかったが、女性天皇の子孫も皇族としての権利は同等であったとみられ、長屋王吉備内親王の皇子が天武天皇の曾孫から元明天皇の孫に待遇が改められた事例がある(『続日本紀』霊亀元年2月25日条))[要出典][13]

奈良期 - 平安中期

奈良時代に入った後、文武天皇も皇位継承者である首皇子(後の聖武天皇)が成人する前に没したため、元明天皇元正天皇の2人の女帝が皇位を継承した。聖武天皇は、皇位継承すべき男子を残せず、女性の孝謙天皇が後を継いだ。その後、藤原仲麻呂の強い推挙により、天武天皇の孫の淳仁天皇が立ったが、自らを「聖武天皇の後継者」とみなした淳仁天皇(『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌条)と天皇を自己の「臣」とみなす孝謙上皇(『続日本紀』天平宝字8年10月壬申条)の対立は、上皇が僧の道鏡を信任した問題を巡って一気に悪化する。やがて、藤原仲麻呂の乱に連座して淳仁天皇は廃帝となり、孝謙天皇が再度即位(重祚)して、称徳天皇となった。この間、他の皇族が皇位を狙ったが、その都度謀叛と見なされ、結果、適当な皇位継承者が不在となってしまった。そのため、仏教に深く帰依していた称徳天皇は、道鏡を皇位に就けることを企図した(宇佐八幡宮神託事件)が失敗し、後継者を決めないまま称徳天皇は崩御し、天武系皇統は断絶することとなった。天武天皇から称徳天皇に至るまでの皇位継承のルールは(継承すべき者が未成人などの場合には中継ぎとして女帝が即位することもあったが)、原則として直系継承であった(ただし、持統天皇を天智天皇の直系とみなした場合、草壁皇子とその子孫は天智天皇の直系子孫とも解せる)。このルールは、激しい皇位継承紛争を未然に防止して天智系皇統の復活を阻止しようとした代わりに、皇位継承候補者を限定してしまったため、却って皇統の断絶(結果的には天智系皇統の復活)という結果を招くこととなった。

称徳天皇崩御による皇統断絶の危機に際して、大臣らは協議を行い、その結果、天智天皇の孫に当たる年配の光仁天皇が皇位を継承することとなった。この事例は、臣下の協議による皇位継承の先例となった。また、この時には2つの点で継体天皇の先例が強く意識されていたようである。一つは必ず皇胤である事、もう一つは先代の天皇との婚姻関係を有する(光仁天皇は称徳天皇の異母妹の夫)ことであった。光仁天皇は天武系皇統の断絶を教訓として、息子の桓武天皇を後継者とし、その弟の早良親王を桓武の皇太弟とした。これにより、天智天皇・天武天皇以来の直系皇位継承は放棄され、大兄制が(一時的とは言え)事実上復活したと見ることも可能である。だが、早良親王は謀叛の疑い(藤原種継暗殺事件)によりこれを廃し、早良親王は怒りもあらわに絶食死を遂げる事になる。この壮絶な早良親王の死はその後の桓武天皇を苦しめ、崇道天皇の号が贈られたが、桓武天皇に始まる平安朝は長く早良親王の怨霊に恐れ苦しむこととなる。桓武天皇は、多くの皇子をもうけた。桓武天皇の後は、桓武天皇の長子の平城天皇が皇位継承し、その遺志に従う形で病弱であった平城天皇の次にはその弟の神野親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟に立った。これに不満を抱いた平城天皇は大兄である自分の直系に皇位継承することを企図して、一旦、嵯峨天皇へ譲位して自身の子、高岳親王を皇太子とした。この措置に今度は嵯峨天皇が反発し、平城天皇と嵯峨天皇の武力衝突が起こり、結果、嵯峨天皇側が勝利した(薬子の変)。これによって平城天皇の直系は皇位の可能性がなくなったものの、嵯峨天皇は内外の批判を恐れて自分の実子を擁立する事に躊躇し、弟の大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟とした。嵯峨天皇と皇位継承紛争を防ぐために、それぞれの直系を互いに皇位に就ける迭立(てつりつ)を採用することとし、実際、嵯峨天皇 - 淳和天皇 - 仁明天皇(嵯峨天皇の子)と皇位継承され、仁明天皇の次も恒貞親王(淳和天皇の子、母は嵯峨天皇の皇女)が皇太子に立てられていた。これに対して淳和天皇は却って紛争の原因となると危惧を抱いており、嵯峨天皇に仁明天皇の次にはその皇子を立てるべきであると忠告したものの、受け入れられなかった。しかし、淳和・嵯峨両上皇の相次ぐ崩御の直後、恒貞親王を廃太子(皇太子を廃すること)とする事件(承和の変)が起こり、皇位継承は嵯峨天皇 - 仁明天皇の系統に統一されることとなった。この事件は皇統統一を狙った仁明天皇が、藤原北家の協力を得て起こしたとする説もある。かくして光仁天皇以来の天智系皇統が天武系皇統を教訓にして取り入れた兄弟間継承の相続(大兄制の実質復活)は、藤原種継暗殺事件から承和の変に至る皇位継承を巡る内紛の連鎖の招来に終わった。

仁明天皇の後、文徳天皇 - 清和天皇 - 陽成天皇と直系による皇位継承がほぼ順調に行われたが、陽成天皇が内裏で重大事件(誤って殺人を犯したとする説が有力)を起こし、退位に追い込まれてしまい、再び直系継承の下で皇統断絶の危機が訪れることになった。このときは、有力候補がおらず、廃太子となった恒貞親王や嵯峨天皇の子である源融らが候補となったが、最終的には称徳天皇崩御時の先例をとって、仁明天皇の子で年配の光孝天皇が即位して皇位を継いだ。光孝天皇は、自身の皇子を全て臣籍降下させており、崩御直前になっても後継者を立てていなかったため、緊急措置として急遽、光孝天皇の子の源定省が立太子され、宇多天皇となった。一度臣籍に下った者が皇位に就くのは、日本の皇位継承史の中でも極めて異例であるが、天皇の子の身分の決定は天皇の専権事項である(臣籍に降ろした実子を皇族に戻す事も許される)として押し切ったのである。なお、源定省以前にも氷上塩焼文室浄三が皇位継承の候補者として名前が挙がったり、一旦は出家していた早良親王が立太子(後に廃太子)された事例があることから、ある時期までは臣籍降下や出家によって直ちに皇位継承権を喪失するという考えは存在しなかったとする説もある。ただし、奈良時代から平安時代初期は政争によって親王や孫王も没落することがあり、有力な皇位継承者が不足していた時期が発生していたという背景の存在を留意すべきであり、摂関政治の成立の過程で後宮の充実とそれに伴う皇族の数が安定するとそうした事態も無くなったとみられている[14]

その後、宇多天皇とその子の醍醐天皇は積極的な政治を展開し、天皇親政の理想型を築いた。ただし、宇多天皇の退位後に陽成系の親王に対抗するために兄弟間継承を行わせる意思があり、直系継承の維持を図る醍醐天皇が藤原時平と謀って宇多天皇派と目された菅原道真大宰府に流したとする見解も存在する(昌泰の変)。

文徳天皇の頃から藤原北家が天皇の外戚として摂政・関白に就く摂関政治がある程度形成されていたが、醍醐天皇の子である朱雀天皇村上天皇兄弟の頃に、摂関政治が確立することとなる。摂関家内部に複数の摂関候補者が登場することとなり、それぞれの候補者が別個に天皇に娘を入内させて子を儲けたため、皇位継承は摂関家のパワーバランスに左右されることとなった。以上のような状況から、皇位継承候補者も複数存在することとなり、再び皇統の分裂 - 迭立 - が見られるようになった。しかし、藤原道長が摂関家を統一したことに伴い、皇統も統一されることになる。その後も迭立への動きは見られたが、王朝内部に皇統を統一する意思が働き続けた。

院政期 - 鎌倉中期

上記のような皇統統一の流れの中で後三条天皇が即位した。後三条天皇は、皇統統一をより強固なものとするため、生前に直系男子へ譲位し、上皇として政務に当たることを目論んでいた。後三条天皇はその実現の前に没したが、その直系男子の白河天皇は後三条天皇の遺志を継いで、上皇となって事実上の君主(治天の君)として政務に当たる院政を開始した。上皇が事実上の君主の座に就くことにより、天皇がそれまでの皇太子的立場となったと言えるが、厳密な皇位継承法が存在しなかった当時においては、皇統が安定していれば天皇家の当主が天皇に在位しているか否か程度の違いでしかなかった。いずれにせよ、皇統の安定化が院政の主要な目的の一つであった。なお、後三条天皇が譲位に際して、自分の例に倣って白河天皇の異母弟にあたる実仁親王を皇太子にしたことは白河天皇の不満を招いた。その後、実仁親王の急死によって、皇位は白河天皇の実子の堀河天皇に譲位することが可能になったが、白河天皇は「第二の実仁親王」の登場を警戒して、自らが後継者に指名した堀河天皇・鳥羽天皇崇徳天皇の3天皇の異母兄弟は全て出家させて、皇位継承権を奪う政策を採った。皮肉にも白河天皇の崩御後に院政を開始した鳥羽天皇は、白河天皇の崩御後に生まれた崇徳天皇の異母弟である近衛天皇を寵愛し、出家をさせるどころか、崇徳天皇を退位させて自らの後継者に指名した。かくして鳥羽天皇の後継を巡って生じた崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の兄弟間による皇位継承紛争が保元の乱平治の乱という武力衝突により解決されることとなった。最終の勝利者は後白河天皇であったが、両乱を通じて武士を利用したため、その後の武士の台頭を許すこととなった。

ところが、生前の鳥羽天皇が近衛天皇の崩御後に後継に指名したのは、後白河天皇の子・二条天皇であった。これによって後白河天皇と二条天皇、両者の間に緊張関係が生じたが、二条天皇の崩御によって、後白河天皇が院=治天の君として君臨し続けた。なお、後白河天皇と二条天皇の父子が対立した際に二条天皇の後ろ盾になっていたのは、その准母となっていた鳥羽天皇の皇女(後白河天皇には異母妹にあたる)・八条院であった。八条院は父の鳥羽天皇から与えられた広大な所領を背景に天皇を支えたが、後白河天皇もこれに対抗するために多くの荘園を所領とした。後に前者の所領は八条院領、後者の所領は長講堂領と称され、別々の皇族や后妃によって継承されることになる。

治天の地位を確保した後白河天皇は平氏源氏など武士勢力の勃興に対して、王権の維持を図ろうとしたが、結局、王権の一部を鎌倉幕府へ委譲することとなる。後白河天皇の正当な後継者は高倉天皇であり、その早世と後を継いだ安徳天皇が外戚である平氏とともに西国に下った後もこの方針が揺らぐことなく、治天である後白河天皇によって安徳天皇の異母弟である後鳥羽天皇が擁立された。このため、一時的に2人の天皇が在位する事態となったものの、安徳天皇が平氏の滅亡と運命をともにしたことにより皇統は後鳥羽天皇の系統に統一された。これによって治天である後白河天皇の下で皇統が安定した。

後白河天皇の崩御後、後鳥羽天皇は院政を開始した。後鳥羽天皇は鎌倉幕府に移った東国統治権を奪還するべく承久の乱を起こしたが、王朝が幕府に破れるという事態を招いた。この結果、幕府によって後鳥羽院政と後鳥羽系統の皇統は全て廃されたが、皇位継承すべき者が不在という事態に至った。当時、皇位を継承するにはその父が院でなければならないという慣例ができており、やむなく皇位に就いたことのない守貞親王が後高倉院として治天の地位に就いて院政を開始し、その子が後堀河天皇として即位することとなった。しかし、後高倉院はすぐに崩御し、新天皇の兄弟は承久の乱以前に全員出家していたために天皇に万一の事態が生じた場合には皇統断絶の可能性が生じた。その後、後堀河天皇の皇子が四条天皇として即位したことで危機は解消されたかに見えたが、後堀河上皇は四条天皇以外の男子を儲けることなく崩御、続いて四条天皇も幼年のうちに崩御したことから、後高倉院の皇統はわずか21年で断絶してしまう。このため、皇位は再び後鳥羽天皇の系統へ戻った。このとき皇位を継承したのは、後嵯峨天皇である。後嵯峨天皇の父は、父の後鳥羽天皇に疎んじられて承久の乱の際も中立を守った土御門天皇であるが、このことが幕府の賛意を得ることになり、事実上、後嵯峨天皇の皇位継承は幕府が決定したと言える(なお、後堀河天皇の生母・北白河院の従兄一条能保源頼朝の妹婿、後嵯峨天皇の大叔父土御門定通北条義時の娘婿、という鎌倉幕府関係者との縁戚関係も幕府の決定に大きな影響を与えたとみられる)。これは、後世の先例となって江戸幕府に至るまで、皇位継承には幕府の承認が必要とされた。

皇統分裂の時代

後嵯峨天皇の子には、後深草天皇亀山天皇の兄弟がいたが、互いに後嵯峨天皇の後継者たる治天の君の座を争い、その妥結として、両者の直系子孫が交互に皇位・治天位に就く両統迭立が行われることとなった。兄・後深草天皇の系統を持明院統、弟・亀山天皇の系統を大覚寺統というが、これが日本史上最大の皇位迭立となり、後世に大きな影響を与えることとなる。

しばらく両統迭立は順調に行われていたが、2つの皇統の存在を支えていたのが、かつての後白河天皇と八条院・二条天皇との対立の中で集積された2つの所領であった。後白河天皇ゆかりの長講堂領は持明院統、八条院ゆかりの八条院領は大覚寺統の所有となり、その経済力を背景に皇位継承を続けたのである。やがて鎌倉時代末期になると両統の内部で皇統分裂が見られ始め、迭立の混乱が生じてきた。その状況下で大覚寺統の後醍醐天皇は傍流出身のために治天の地位に就く権利が否定されており(つまり、子孫への皇位継承が出来ない)、この現状の打破を目指して幕府追討計画を2度にわたって立て(正中の変元弘の変)、幕府により廃位・流罪に処されるも、結果として鎌倉幕府の滅亡をもたらした。勿論、王権復興を推進するためには皇統統一は欠かせないものであるが、後醍醐天皇の倒幕の最大の動機は自己の子孫への皇位継承問題にあったと言ってよい。京で復位した後、建武の新政を開始した。後醍醐天皇は治天の地位に就くことなく、約200年ぶりに天皇の地位のまま親政を行った。後醍醐天皇は両統迭立状態を解消し、自身の系統に皇統を再度統一したと考えていたが、その後、後醍醐天皇による新政に対して多くの離反が相次ぎ、離反勢力からなる室町幕府は、持明院統から光明天皇を擁立した。これにより、北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)の2つの王朝が同時に存在する日本史上未曾有の事態(南北朝時代)となった。北朝は、幕府の擁護を受けて、従来通りの院政を継続したが、南朝では後村上天皇以降、関白こそは復活させたものの、天皇親政を貫いた。1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)、室町幕府内部の内紛に乗じて南朝軍が京都を占領して、北朝の崇光天皇ら主だった皇族を拉致してしまう(正平一統)。室町幕府は天皇の弟の一人が寺院に預けられている事を知って、急遽後光厳天皇として即位させた。後に南朝方は崇光天皇らを返還したものの、室町幕府は崇光天皇の復位を認めず、子孫には伏見宮の称号を贈って宥めようとした。だが、皇位継承が後光厳天皇の直系子孫による方針が決められたために、崇光天皇と伏見宮家による後光厳天皇と室町幕府に対する反感が高まって、北朝は事実上の分裂状態に陥ったのである。

時代が進み、北朝・室町幕府側の優位が明確になってくると、南朝側も妥結点を模索してきた。そこで仲介に当たったのが足利義満である。1392年(明徳3年)、持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の迭立再開が提案され、南朝の後亀山天皇が条件受諾したことにより、北朝の後小松天皇とともに南北朝合一が実現した。しかし、1412年(応永19年)に称光天皇が即位するに際して、迭立再開の条件は撤回されることとなり、後小松天皇の直系子孫による皇位継承が宣言された。約束を反故にされた南朝側は憤慨し、後南朝としてその後も存続し続けた(太平洋戦争大東亜戦争)後まで南朝子孫を名乗る者がいた)。

一見、南北朝合一により皇位継承は再び安定したように見られたが、もう一つの問題であった北朝内部の内紛は解消されなかった。更に後小松天皇には称光天皇しか男子がおらず(称光天皇の皇太子であった後小松天皇の第2皇子は早世、実はこの他に名僧として知られた一休宗純も後小松天皇の皇子であったが、政治的事情により、早くから出家させられて皇位継承権を失っていた)、更に称光天皇には子供がいない上に虚弱体質であったために、いつ崩御してもおかしくない状態となっていた。そこで当時院政を行っていた後小松天皇は崇光天皇の孫である伏見宮貞成親王に対して、万が一の際の皇位継承を極秘に要請した。ところがその話が称光天皇に伝わると、称光天皇は激怒して貞成親王を強引に出家させ、皇位継承権を剥奪してしまった。ところが、それから程ない1428年(正長元年)に、肝心の称光天皇が崩御してしまい、後小松系の皇統が断絶してしまった。そこで後小松天皇は貞成親王の皇子であった後花園天皇を擁立したのである。これに対して旧南朝側では北朝側の皇統は断絶しており、傍流の継承は認めないとして各地で蜂起を起こした。一時は宮中に侵入した南朝側の武士によって三種の神器を奪われる(禁闕の変)などの危機にもあったが、室町幕府はこれを鎮圧、ここにおいて初めて真の「南北朝合一」が実現したのである。

足利義満

1990年代前期頃から、足利義満は皇位簒奪を企図していたとする説が注目されるようになった。武家としてだけでなく、公家としても官位を極めた義満は、治天の君としての行動を徐々に始め、自身の子である足利義嗣を皇位に就けることを計画していたが、計画成就の寸前に死去したため皇位簒奪がならなかったとしている。義満も清和天皇(又は陽成天皇)に始まる源氏ではあるが、代数が当時の天皇から十数代も離れていたため、皇族としての資格はないものと見做されていた。日本の歴史上、5代以上天皇位に就いていない家系に属する皇裔が即位した例はない。しかし、上記説の論者は、当時の状況(後光厳系統断絶の危機など)を詳細に観察してみると、義満による皇位簒奪はかなりの可能性で成功したはずであり、もし成功していればその後の天皇(皇位)のあり方が劇的に変化していただろうと考えている。実際、義満の死後、太上天皇号が朝廷から贈られようとしている(義満の後継者・足利義持がこれを辞退した)。

戦国期 - 明治初頭

室町時代中期に入ると、皇室の権威は次第に低下していったが、それに伴い皇位継承紛争は見られなくなり、直系男子がすんなりと皇位継承するようになった。伏見宮家から入った後花園天皇から17世紀前期(江戸時代初期)の後陽成天皇まで、直系男子が継承紛争もなく、迭立もないまま順調に皇位を継承していき、日本史上もっとも皇位継承が長期間にわたり穏やかに行われた時代でもある。

安土桃山時代後期・江戸時代初期の後陽成天皇は、自分の後継者が豊臣秀吉徳川家康の2大権力者の思惑により擁立された事に不満を抱き、実子ながら、これらを廃して実弟の八条宮智仁親王に譲位しようとして、豊臣政権江戸幕府と衝突したが、最終的に家康の推す嫡男子の後水尾天皇に譲る事になったが、長く親子間の不和が続いた。続く後水尾天皇もたびたび幕府から高圧的に扱われたため、それに耐えかねて1629年(寛永6年)、自らの女子に譲位した。このとき皇位継承した明正天皇は、称徳天皇以来859年ぶりの女帝である。明正天皇はその後、異母弟の後光明天皇へ譲位した。後光明天皇以降は、直系男子への継承を基本としていたが、継承者が未成人などの場合に中継ぎとしての女帝として後桜町天皇が擁立されていた。1779年(安永8年)に後桃園天皇が子を残さないまま若くして崩御したため、日本史上、数回目となる皇統断絶の危機が発生した。しかし、この約60年前に皇統断絶の可能性を予見していた新井白石は、皇位継承権を持つ皇族家系となる閑院宮を創設しており、後桃園天皇の後継として閑院宮から光格天皇が迎えられた。

皇族の子孫は数代経た後に皇籍から離脱するのが律令以来の通例であったが、中世以後、伏見宮や閑院宮の様に皇統維持のために、何代経ても親王位に就くことのできる家系(世襲親王家)を創出していったのである。また、当時天皇に複数の皇子がいる場合、複数の親王の生活を支える財政的ゆとりが無い事や、臣籍降下をさせるだけの公家官位の余裕が無い事から、皇位継承者以外の皇子は全て幼くして出家を強要せざるを得ない(当然ながら出家した皇子には子孫が存在しない事になる。前近代の後宮制度の充実ぶりにもかかわらず、中世以後に皇統断絶の危機が何度も生じたのはこうした事情がある)状態にあったが、世襲親王家が断絶した場合には、天皇が実子を養子として送り込む事で、子孫の安泰を図る事も行われた。

なお、江戸幕府は皇室、公家の同姓間での養子継承は認めたが女系相続については「禁中並公家諸法度」第6条にて禁止することを明文化していた[15]

やがて、明治維新に伴う近代的な法治国家への移行に伴い、これまで皇室内部の事情によって決定されてきた皇位継承にも法的根拠が求められるようになり、大日本帝国憲法公布に合わせて皇室典範(旧)や登極令などが整備されていく事になる。 元老院では皇室典範制定の準備として著名な古典4、50を資料として万世一系の皇統の大綱と御一代の継承の事情や理由がわかるようにした研究資料としての『旧典類纂皇位継承篇』十巻が編纂され、その後の継承法の論拠となった[16]。 また元老院の国憲案には帝位継承法第三条に女統案があったが、これは議官のみならず在野の政党人らからも日本固有法の立場から反対があり、却下されている[17]。 また初期の起案である「皇室制規」にも女統についての規定があり、これらは外国法の影響があったと見られる[18]。次の「帝室法則綱要修正案」では皇位継承は男系男子に限るとされた。次に柳原前光により『皇室典範再稿』が編纂され、これを討議基礎資料として、伊藤博文柳原前光井上毅によって編纂されロエスラーの助言と天皇臨席の枢密院会議での審議を経て「皇室典範(旧)」が制定され、明治天皇によって帝国憲法制定とともに皇室典範制定が皇祖皇宗に報告された[19]

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課題

皇室典範の「皇統に屬(属)する男系の男子」という条文について、敬宮愛子内親王の誕生など、天皇直系の皇位継承者の終端に女性皇族しか存在していない問題が生じていた。2006年(平成18年)の悠仁親王誕生により、一応は今の第126代天皇の次世代の皇位継承者を確保できたが、依然として皇位継承者不足に変わりはない。そのため、女性天皇及び女系天皇、および旧宮家皇籍復帰などの可能性も含めた議論が起こっている。

また、河野太郎衆議院議員や一部研究家は現時点で皇統と血縁が近い男系子孫を指す皇別摂家の検討の必要性を訴えている。

考察

2023年、考古学者寺沢薫は文献史学や考古学の従来の皇位継承儀式説、大嘗祭説をすべて検証したうえで、『記紀』神話から読み取れる天皇は皇祖神の神霊(天皇霊)を受け継ぐ器であるという核心的モチーフがあり、それが中国や東アジアとは異なる日本独自の要素で、それを現しているのが現在も続く大嘗祭であると唱えている。すなわち天皇の身体は一代ごとに変わるが、その魂は不変で、その皇祖神の神霊である天皇霊を身につけることで皇祖神に連なるという観念にもとづきそれがフィクショナルな共同幻想だとしても神霊の継承を未来永劫、万世一系の子孫に限定し、神となりうる人格を血統によってたどらせようとしたと皇位継承儀式の意義を検証している。

そのうえで令和改元の際に文献研究者から「大嘗祭の本議論は天皇の即位にともなう最初の新嘗祭という理解で解決した」という主旨の発言に対し、「私は決着したとは思わない」と主に考古学的な視点から挑戦状を突き付けている[20]

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皇位継承一覧

要約
視点

初代天皇の神武天皇から第126代の今の天皇に至るため、125回の皇位継承が行われてきたことになる。

うち、66回崩御(死去)による皇位継承(在位中の天皇の死去により皇嗣が践祚・即位する)、59回譲位(退位)による皇位継承(在位中の天皇がその存命中に退位・譲位し、皇嗣が践祚・即位する)である。

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各回の皇位継承の儀式一覧、異同など

要約
視点

昭和皇位継承時

さらに見る 儀式名, 日時 ...

平成皇位継承時

さらに見る 儀式名, 日時 ...

令和皇位継承時

今次の125回目にあたる皇位継承は、光格天皇から仁孝天皇への皇位継承以来約200年ぶりに、譲位によって行われたものである。

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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