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稗田研二
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稗田 研二(ひえだ けんじ、1948年9月28日 - 2009年3月23日)は、東京都出身の元調教助手・元調教師。
経歴
要約
視点
1972年に父・敏男の厩舎で調教助手となり[1]、1985年に調教師免許を取得。
1986年に開業し、1年目の同年は3月30日の中山第8競走4歳以上400万下・ビクトリーアピール(16頭中10着)で初出走[2]を果たすと、9月7日の函館第6競走4歳以上400万下・ヒダプレスで初勝利[3]を挙げる。
初年度は4勝に終わったが、2年目の1987年に初の2桁となる12勝をマークすると、2001年まで15年連続2桁勝利を記録[4]。
1987年は札幌3歳ステークスにバンブーアトラス産駒マイネルロジック[5]で重賞初出走[6]を果たし、1番人気に推されて8着[5]に敗れるが、秋の東京・いちょう特別(オープン)ではサクラチヨノオーに初めて土を付けた[5] [7]。
3年目の1988年にはボールドノースマンが1年4ヶ月かけてデビュー4連勝[8]を達成すると、夏の函館では「青函トンネル開通記念」というサブタイトルのついた巴賞[9]でシリウスシンボリを抑えて[8]快勝し[9]、勝ち時計1分46秒0[9]は2017年のクロコスミアに更新されるまで29年間[10]も函館芝1800mのレコード[9]であった。秋は毎日王冠でオグリキャップの3着、天皇賞(秋)は6着に敗れて引退したが、全9戦中7戦でメンバー中最速の上がり時計を記録した[8]。
1988年はマイネルロジックでクラシックに初めて出走させ、東信二とのコンビで皐月賞8着、マイネルグラウベンと共にサラブレッドクラブ・ラフィアンの2頭出しとなった東京優駿は14番人気11着[11]に終わった[12]。
1989年には未勝利を5戦目で勝ち上がったばかりのマイネルハイルが朝日杯3歳ステークスで14番人気ながらアイネスフウジンの3着[13]に入り、波乱の使者[14]となるが、1990年も横山典弘とコンビ続投で京成杯・共同通信杯4歳ステークス3着であった[13]。
1989年にはキョウエイタップがデビューし[15]、デビュー前の調教の動きには稗田曰く「思わず背中がゾクゾク」するほどの好感触を持つ[16]。初勝利を挙げたデビュー2戦目からは横山が以後13戦で手綱を握り[15]、1990年には重賞初出走のクイーンカップを8番人気4着と低評価を覆し[15]、うぐいす賞(500万下)では人気に応えて[15]生産の出口牧場に20年ぶりの特別戦勝利をもたらす[17]。西下して4歳牝馬特別(西)を2番人気に推されながらも10着と大敗し桜花賞を断念、忘れな草賞は4着であった[15]。4歳牝馬特別(東)では横山が忘れな草賞2着のダイイチルビーの騎乗オファーを断ってキョウエイタップとのコンビを継続し、レース前に稗田は10番手に位置してほしいと指示したが、横山は最後方に位置、直線で大外から追い上げて、一足先に抜け出した増沢末夫騎乗のダイイチルビーをクビ差差し切り勝利、重賞初制覇となった[16]。稗田も厩舎開業5年目で重賞初制覇[18]、出口も生産馬で重賞初制覇となった[16]。横山は勝って意気揚々としていたが、父の横山富雄はボソッと「本番はあんな後ろから行ったら届かない」と言った[19]。その時に「嫌なこと言うな……」と思いながら、迎えた本番の優駿牝馬は富雄の言葉が耳に残る[19]。結局早めに動いて結果は6着に終わり、「やっぱり俺の乗り方が合っていたのに、オヤジが余計なこと言いやがったせいで」という気持ちが凄くあった[19]。秋はクイーンステークス6着・牝馬東京タイムズ杯9着と奮わないまま本番のエリザベス女王杯を迎えたが[15]、1週間前に3着に敗れた菊花賞・メジロライアンと同じ8枠18番に入る[20]。直前の秋2走の凡走から8番人気と奮わなかったが、横山はキョウエイタップの差し脚を信じ、直線に賭ける[20]。ゴール手前150mで[20]内からスルスルと[21]鮮やかに抜け出し[20]、後続を引き離すと[20]、ゴール前から横山は右手を大きく突き出し[20]、ライアンのクラシックで出来なかった分のガッツポーズをしてみせた[21]。1週前の悔しさと自身のGI初制覇の喜びが力強く伝わった瞬間[20]であったが、稗田にとっては唯一のGI制覇[18]となった。
1991年にはイナズマクロスが410kg台の小さな体ながら、父シービークロス譲りの末脚を武器に活躍[22] [23]。クイーンステークスで後方一気を決めると[22]、続くエリザベス女王杯でもリンデンリリーの4着と健闘[22]したが、クイーンSが稗田にとって最後の重賞勝利[24]となった。1992年の金杯(東)でもキョウエイタップと共に出走させ[25]、トウショウファルコ以下先行勢が上位を占める展開の中で後方から追い込んで4着になってファンを沸かせた[22]。
1992年には父グレートローマン・母父ツキサムホマレのスーパーソブリン[26]がセントライト記念で11番人気ながらレガシーワールド・ライスシャワーに次ぐ3着[27]と健闘し、ヤマニンスキー産駒マリアキラメキが京成杯3歳ステークス2着・阪神3歳牝馬ステークス4着に入った[28]。
1993年には後に法務大臣となる弁護士・小川敏夫の所有馬イタリアンカラーが目黒記念でマチカネタンホイザの3着、日経賞でライスシャワーの2着に入った[29]。
1994年にはベルシャルマンテが関屋記念でマイスーパーマンの3着[30]に入り、自己最多の20勝[4]をマーク。
1997年にはキーンランドの市場で岡田繁幸が購入したマイネルラヴがデビューし[31]、東京スポーツ杯3歳ステークスではキングヘイローの2着[32]。朝日杯3歳Sではグラスワンダーの2着[32]に敗れたが、従来のレコードタイムで走破し[31]、6番人気でマイネルハイル以来の波乱の使者[14]となった。1998年にはアーリントンカップ2着[32]、ニュージーランドトロフィー4歳ステークスではエルコンドルパサーの3着となかなか勝ちきれず[32]、NHKマイルカップ8着を最後に[32]稲葉隆一厩舎に転厩された[33]。
2002年に東京で行われた中山金杯ではタフグレイスが最軽量51kgの13番人気でビッグゴールドとハナ差2着に入り、馬連万馬券の波乱を起こす[34]。
2008年12月13日の中山第3競走2歳未勝利をマイネルラヴ産駒のコスモクラッベで勝利したのが[35]最後の勝利[36]、2009年3月21日の中山第8競走4歳以上500万下・イナズマレオ(16頭中8着)が最後の出走[37]となった。
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調教師成績
- 主な管理馬
※太字はGIレース。
- キョウエイタップ(1990年4歳牝馬特別 (東)・エリザベス女王杯)
- イナズマクロス(1991年クイーンステークス)
脚注
関連項目
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