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近代以前の日本の人口統計

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近代以前の日本の人口統計(きんだいいぜんのにほんのじんこうとうけい)は、先史時代、古代、中世の日本の人口調査および推定人口をまとめたものである。

それぞれ参照。

概要

日本初の戸口調査は紀元前の崇神天皇時代に行われたとされる。7世紀には全国戸籍「庚午年籍」や「庚寅年籍」が作成され、平安時代初期まで続いた。

江戸時代に入ると宗門人別改帳制度が成立した。しかし本格的な全国人口調査が始まったのは18世紀徳川吉宗時代である。

現代の歴史人口学研究者の推定では、日本の人口は縄文時代は人口増大したが晩期に急に減少した。弥生時代以降再び人口増大が続いた。8世紀に、450~650万人。このころ増加が鈍化し平安時代初期に一旦減少に転じた。1000万人を越えたのは中世後期、早くとも15世紀以降と考えられている。江戸時代前半の17世紀に急増した。その後増加傾向は低調となり、18世紀から19世紀は3000万人前後で安定化した。

古文書に記載された人口

要約
視点

大まかな古代日本の人口は、『魏志倭人伝』に始まり、様々な書物に記載されている。

『魏志倭人伝』には、奴国が約2万戸など国ごとに大まかな戸数が記されており、邪馬台国など7国の合計が15万9000戸余とある。

日本で最初の戸口調査は『日本書紀』によると、崇神天皇12年(紀元前86年)に行われたとされる。また天智天皇9年(西暦670年)に全国戸籍「庚午年籍」が作成されたとするが、木簡の研究からは戸数の把握に留まっていたとみられる。持統天皇4年(690年)に「庚寅年籍」が作成されると、以降6年毎に戸籍を作り直す「六年一造」が始まった。しかしながら作成された戸籍は30年で破棄する措置が取られたため、現在では戸籍の断片や一部地域の人口集計が伝わっているのみである。現存する最古の戸籍は正倉院紙背文書として保存された大宝二年籍で、大宝2年(702年)の美濃国加毛郡半布里、美濃国蜂間郡春部里筑紫国嶋郡川辺里、豊前国仲津郡丁里の戸籍、養老5年(721年)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍など、飛鳥時代奈良時代・平安時代の戸籍・計帳計48点が残っており、家族・奴婢の構成などが記載されている[1]

平安時代初期まで改籍が実施されたが、律令制の後退と有力貴族による荘園制の成立により、全国単位での戸籍自体の作成が行われなくなった。現存する最後の古代籍帳は寛弘元年(1004年)に作成された讃岐国大内郡入野郷の戸籍である。鎌倉時代室町時代を通じ、国領や荘園内部で戸籍類似のものが作られていたことは、御成敗式目における戸籍上の規定の存在から類推できるものの、史料が全く残っていない。戦国時代になると一部の戦国大名は農兵動員や銭賦課把握の目的から領内の人口調査を実施するようになり、例えば後北条氏の「分国中人改」などが知られている。豊臣秀吉は天正19年(1591年)あるいは文禄元年(1592年)に人掃令を出し、朝鮮出兵のための動員数把握の目的で全国規模の人口調査を命じた。この時の戸口調査がどの程度まで実施されたかは不明であるが、徳島藩で実施された「棟付改」、細川藩領(小倉藩熊本藩)で実施された「人畜改」などは、秀吉の命を受けて実施された戸口調査が続いたものと考えられている。江戸時代前期にはキリシタン取締りの目的などにより寺請制度と「宗門人別改」が成立し、享保6年(1721年)以降、徳川吉宗による諸国人数調査が実施されることとなる。

古代より中世の人口は、いくつかの年代の総人口が仏閣関係者の書物に記載されているが、調査方法が戸籍からの推定か直接調査かは不明であり、女性が男性の2倍、男女の合計が総人口を超えるなど信頼性に疑問が残る。このような数字に関して横山由清は、男女比は、課丁逃れのために男を女と偽って報告したことに起因すると考えた[2]。また澤田吾一は、頻繁に言及される49や800万という数字は仏典に関連のある数字であり、戸籍などから起こした実数ではないと指摘している[3]

蝦夷など朝廷に帰順していない異民族や、国内に在留する外国人に関しては調査例が少なく不明な点が多い。

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研究者による人口推計と根拠

要約
視点

近代以前の日本の人口の推定は、西道智や新井白石などの天文学者儒学者国学者に始まり、明治期以降は伊能穎則、横山由清、ガーレット・ドロッパーズ、吉田東伍などが試算をしてきた。昭和初期には数学者の澤田吾一が古文書の綿密な考察により奈良時代から平安時代にかけての律令時代の推定人口をまとめた。その後本庄栄治郎高橋梵仙、関山直太郎らの研究があり、最近では先史時代については小山修三、律令時代については鎌田元一、鎌倉・室町時代については、ウィリアム・ウェイン・ファリス(William Wayne Farris)、江戸時代については速水融鬼頭宏らの研究がある。

これらの推定人口は、戸数、郡郷数、田積数、課丁数(『律書残篇』、『和名類聚抄』、『拾芥抄』、『宋史日本伝』、大田文)、石高(『天正記』『当代記』記載の太閤検地総石高)、出挙稲数(弘仁式延喜式正税帳)、あるいは遺跡の数などを基にモデル計算されていた。以下最近の研究者による日本の推定人口をまとめる。これによると日本の人口が1000万人を越えたのは中世後期、早くとも15世紀以降と考えられる。

さらに見る 西暦, 社会工学研究所 (1974年) ...

人口推定の根拠

全般

上の表の内、社会工学研究所(1974年)の推定人口は、古田隆彦、三村尚、酒井均、山口正、鬼頭宏、羽賀博らによって執筆され、鬼頭宏(1996年)の改訂版の元となっている。

ジャン=ノエル・ビラベン(Jean-Noël Biraben)(1993年)の推定人口は速水融(1987年)[10]フランシーヌ・エライユ(Francine Hérail) (1990年)[11]に依拠し、澤田吾一(1927年)、社会工学研究所(1974年)、速水融らの研究を踏襲している。 一方コリン・マッケヴェディ(Colin McEvedyとリチャード・ジョーンズ(Richard Jones)(1978年)の推定人口はアイリーン・トイバー(Irene B. Taeuber) (1958年)[12]に依拠するが、実質的には横山由清(1879年)による推定人口[13][2]を補間して人口を推定しており、澤田吾一(1927年)の研究が反映されていない。

さらに見る 西暦, 推定人口 ...

以下鬼頭宏(1996年)とファリス(2006,2009年)の推定人口を中心に、推定の根拠を列挙する。

旧石器時代・縄文時代・弥生時代

鬼頭宏の推定人口は、小山修三 (1978,1983年)[14]に依拠している。即ち『全国遺跡地図』[15]記載の都道府県別遺跡数を地域、年代別に振り分けると地域別推定人口に示す表のように纏められる。それぞれの時代が占める期間は、2000年に渡る縄文時代早期を除き、大体1000年前後と見積もられた。また関東地方における遺跡当たりの推定収容人口比は、3世紀から13世紀まで使われた土師器を産出する遺跡1に対して、弥生時代は0.2~0.43(平均約1/3)、縄文時代中期以降は0.1~0.26(平均約1/7)と算出され、縄文時代早期の遺跡規模を1/10と推測した。澤田吾一による奈良時代の関東地方の推定人口94万3300人[3]と関東地方における土師器を産出する遺跡数(5549箇所)の比より、弥生時代に関しては遺跡数に56、中期以降の縄文時代に関しては遺跡数に24、期間が2倍に渡る縄文時代早期に関しては遺跡数に8を乗じた値をそれぞれの時代の推定人口とすることで、縄文時代早期、前期、中期、後期、晩期、弥生時代の推定人口は、それぞれ2万0100人、10万5500人、26万1300人、16万0300人、7万5800人、59万4900人と算出される。

一方時代区分の判明している旧石器時代の遺跡は、縄文早期の遺跡2530箇所に対し、細石器期の遺跡は125箇所、ナイフ型石器期の遺跡数は317箇所、古先土器の遺跡は28箇所である。ナイフ型石器期の旧石器時代は縄文時代早期の10倍の長さ継続していることから、小川修三(1989年)はナイフ型石器期の旧石器時代の人口を2600人(2000~3000人)と推定した。[16]

奈良時代~平安時代初期

鬼頭宏の725年の推定人口は、鎌田元一(1984年)に依拠している[17]。即ち1郷当たり推定良民人口1052人に『和名類聚抄』記載の郷数(4041)を乗じた値を政府掌握人口(425万1100人)とし、賎民人口(良民人口の4.4%、18万7050人)と岸俊男による平城京の推定人口(7万4000人)[18]を加算し、451万2200人と算出している。なおこの計算方法は横山由清(1879年)によって提唱されたものだが[注 2]、澤田吾一(1927年)は『和名類聚抄』記載の郷数(4041)を疑い、『宋史日本伝』記載の3772郷414駅に着目し、1駅を半郷相当、1郷当たり推定人口を1399人、平城京の推定人口を20万人として奈良時代の推定人口577万人を算出している[3]

ファリスの730年の推定人口は澤田吾一と鎌田元一(1984年)の同様の手法に依拠している。『律書残篇』記載の郷数(4012)に1郷当たり推定人口1250~1400人を乗じ、都市人口15万人(平城京、難波大宰府の合計)、計外人口10万人として580万~640万人を算出している。

鬼頭宏の800年の推定人口は、澤田吾一に依拠している[3]。澤田吾一は『弘仁式』[19]、『延喜式』[20]の出挙稲数に、陸奥の弘仁の課丁数(3万4790人)との比(27.07人/1000弘仁出挙束、または21.98人/1000延喜出挙束)を乗じて各旧国の課丁数を推計し、戸籍・計帳断簡より求めた8世紀後半の課丁数人口比(課丁数18.7人/人口100人)を推定した。また畿内の内、山城大和河内摂津については課丁の率を半分と仮定し(課丁数18.7人/人口200人)、対馬多禰志摩、平城京の推定人口7000人、3700人、6500人、20万人を加えることで総人口559万9200人(弘仁式)、または557万3100人(延喜式)を算出し、両者の平均である560万人を奈良時代の推定良民人口と考えた。さらに賤民や遺漏人口を100万人と見積もり、奈良時代の全人口を約600万~700万人と推定した。

1979年から1982年にかけて発掘された茨城県石岡市鹿の子C遺跡より出土した延暦4年(795年)の常陸国官戸人口(19万1660人、これに神封戸の推定人口3万2千~5万3千人を加えた22万4千~24万4千人が常陸国の推定総戸籍人口)を記した漆紙文書により、鎌田元一は澤田吾一の推定人口は平安初期のものとみなすべきだと指摘し[17]、鬼頭宏の推定人口でも澤田吾一の推定人口が800年のものとして扱われている。ただし平安京の人口を井上満郎による推定人口12万人とすることで[21]、弘仁・延喜式の平均推定人口550万6200人を算出している。

平安時代

鬼頭宏の900年の推定人口は、『和名類聚抄』記載の田積数(但し尾張、志摩、日向については田積数を修正し、全国で約87万1916町とする)[22]について1人当たり配給面積を1.6反(0.16町)、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、平安京の推定人口を12万人として算出している。

ファリスの950年の推定人口は、鬼頭宏(1996年)の手法を修正したものである。すなわち『和名類聚抄』記載の田積数[22]を10世紀中頃のものと考え、1人当たり配給面積を2.17反、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、都市人口を15万人(平安京10万人)として推定人口480万人が計算される。また実際の耕作地は記載値の75%に過ぎず、田積から求まる人口の約0.4倍が他の農業・狩猟により養われていたと仮定すると、推定人口560万人が計算され、これをファリスの上限推定人口とする。一方ファリスの下限推定人口は横山由清(1879年)[2]による天暦・長保年間(947年~1003年)の推定人口に依拠する。

鬼頭宏の1150年の推定人口は、『拾芥抄』記載の田積数(92万6466町2段)[22]について1人当たり配給面積を1.6反、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、平安京の推定人口を12万人として算出している。

ファリスの1150年の下限推定人口は、鬼頭宏(1996年)の手法を修正したものである。すなわち『拾芥抄』に記載されていない田畑を含めた推定全田積数(95万6558町)について、1人当たり配給面積を1.975反、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、都市人口を20万人(平安京10万人)として推定人口580万人(550万~610万人)が計算される。一方Farrisの上限推定人口は、実際の耕作地は記載値の75%に過ぎず、田積から求まる人口の約0.4倍が他の農業・狩猟により養われていたと仮定することで610万人(590万~630万人)と算出している。

鎌倉時代~室町時代

ファリスの1280年の推定人口は、『大田文』記載の九州6国(豊前肥前豊後、日向、大隅薩摩)、西日本5国(若狭丹後但馬石見淡路)、能登、常陸の田積数と『拾芥抄』記載の旧国別田積数の比較による。すなわち1人当たり配給面積を1.81反、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、都市人口を20万人(平安京10万人、鎌倉6万人)、田積から求まる人口の約0.4倍が他の農業・狩猟により養われていたと仮定することで、1280年の推定人口を1150年の上限推定人口(590万~630万人)よりやや減少した570万~620万人と算出している。

ファリスの1450年の下限推定人口は、兵隊人口の比較による。満済の『満済准后日記』の記述によると、山名宗全畠山義深などの守護大名軍は平均して325騎、徒歩兵2500人の軍隊を有しており、足利将軍家が10大名に相当する軍隊を有し、守護大名の総数を37~60人とすると日本全土で兵の総数は13万2775~19万7750人と算出される。律令時代の兵隊人口比(56人で兵隊1人)より地方推定人口は920万人(740万~1100万人)となり、都市人口率を4%(40万人)と仮定することで960万人が算出される。一方ファリスの上限推定人口1050万人は、長期に渡る一定の人口増加率(0.4%/年)の維持を仮定する斎藤修の未公表の研究(2000年)の引用による。[23]

安土桃山時代~江戸時代前期

吉田東伍は1人1石という仮定に基づいて1598年の慶長石高から1600年の推定人口を1850万人と見積もった[24]。これに対し速水融(1966年)は元和2年(1622年)の小倉藩の人畜改帳を元に1石0.28~0.44人と石/人比を訂正し、1600年の推定人口を622万~980万人と推定した。[25]

後に速水融(1973年)は太閤検地石高による推定人口を破棄し、江戸時代中期以降の幕府掌握人口から逆算して1600年の推定人口を求めた。即ち諏訪郡の人別改帳の研究などから150年で人口が3倍になる成長パターンを導き、1600年の推定人口を1230万人へ改訂した。[26]鬼頭宏の1600年から1750年までの推定人口は、速水融の学説をまとめたもので、江戸時代前半の人口成長パターンが150年間で3倍になるロジスティック関数によると仮定し(50年後に1.41倍、100年後に2.67倍、150年後に3倍)、寛延3年(1750年)の推定人口(江戸幕府調査人口に20%上乗せしたもの)から遡って計算している。その際全国を先進国(山城、大和、摂津、河内、和泉)、中進国(尾張、美濃伊賀伊勢近江丹波播磨)、後進国(その他)に分類し、人口成長の開始期をそれぞれ1500年、1550年、1600年と仮定する。[4]

但し最近になって鬼頭宏(2000年)は速水融推計を過小とし、17世紀の人口増加率を0.58~0.65%/年に下方修正して1600年の推定人口を1432万~1547万人と上方修正している。また斎藤修(2000年)は1450~1600年以前の人口増加率を0.3%/年、1600~1721年の人口増加率を0.51%と仮定して、1600年の推定人口を1700万人と算出した。[23]ファリスの1600年の推定人口(1500万~1700万人)は、鬼頭宏(2000年)と斎藤修(2000年)の研究の折衷である。また藤野正三郎(2008年)は17世紀前半の大藩の人口増加率(0.4%)から1600年の推定人口を1940万人、1650年の人口を2365万人、1700年の人口を1700万人と算出した。[27]

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地域別推定人口

要約
視点

小山修三(1978年,1984年)によって推定された縄文・弥生時代の地域別推定人口を、その推定の元となる遺跡数とともに以下の表にまとめる。

さらに見る 地域, 縄文早期 (8100年前) ...

澤田吾一(1927年)と鬼頭宏(1996年)によって推定された古代・中世の旧国別人口を、その推定の元となる出挙稲数、郷数、田積数、石高などとともに以下の表にまとめる。澤田吾一の奈良時代の推定良民人口に関しては、『弘仁式』、『延喜式』双方の出挙稲数から推定された良民人口を掲載するが、『弘仁式』出挙稲数が欠落しているものに関しては『延喜式』の出挙稲数から推定された良民人口をイタリックで示す。この他、表に記載の出挙稲数、郷数、田積数のみから直接算出したものではない推定人口についてもイタリックで示す。本表では人口推定に慶長3年(1598年)の検地石高を用いていないが、参考までに記載する。鬼頭宏による1600年の推定人口の根拠となる寛延3年(1750年)の幕府の調査人口については本項の江戸時代の全国国別人口表を参照。旧国名は江戸時代以前の一般的な五畿七道の順に従い並べてあるが、各年次をクリックすることにより、人口順に並べ替えることができる。

さらに見る 旧国, 『弘仁式』出挙稲数 (束) ...

鬼頭宏(1996年)による1600年以前の国別推定人口を地域別にまとめると以下の通りである[6]

さらに見る 地域, 紀元前 6100年 ...
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平均寿命

要約
視点

正倉院文書として残る飛鳥時代の古代籍帳に対して生命表の西モデルを適用することで、ファリス(1985年)は大宝2年(702年)の出生時平均余命(平均寿命)を28年~33年と推定している。[28]

さらに見る 地域, 人数 ...

ファリスは奈良時代の養老5年(721年)の下総国の諸戸籍、神亀3年(726年)と天平4年(732年)の山城国の計帳に対しても同様の生命表モデル計算を実施したが、有意の数字が得られていない。また平安時代以降は脱税目的のための男女比異常が見られるなど(例えば延喜8年(908年)の周防国玖珂郡玖珂郷の戸籍断簡によると、戸主秦人広本の家族構成は男8人女39人)、戸籍の内容の信頼性が落ちていく。[28]

このように16世紀以前の戸籍はほとんど史料が残っていないが、各地から出土した人骨の古人類学に基づく推定死亡年齢から平均余命を出す研究もなされている。例えば小林和正は、日本各地から出土した満15歳以上の人骨(推定満15歳未満の人骨は誤差が多いので除去)の平均死亡年齢を以下のように推定している。[29]

さらに見る 時代, 満15歳以上人骨 平均死亡年齢, 歳 ...

但し骨年齢推定法の改訂により、縄文時代の15歳時平均余命を男女平均16.2年から31.5年へ大幅に上方修正する長岡朋人らの研究もあり、正確な平均余命の推定は困難である[30]

小林和正の研究による人骨の平均死亡年齢分布に対してワイスのモデル生命表を15歳未満に適応することにより、菱沼従尹は縄文時代、室町時代の出生時平均余命(平均寿命)を推定している。[31]他の研究者による推定平均寿命を含め、以下列挙する。

さらに見る 時代, 出土場所 ...
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脚注

参考文献

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