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近代以前の日本の都市人口統計

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近代以前の日本の都市人口統計(きんだいいぜんのにほんのとしじんこうとうけい)は、西南戦争前の日本の都市人口調査および推定人口をまとめたものである。

それぞれ参照。

有史以前

古代・中世

要約
視点

推定人口

日本においては律令国家成立期に戸籍が作成されたものの、今日までその詳細がほとんど残っていない。よって推定人口は、戸数・人口の記録と伝聞、都市域の面積、支配地域の推定総人口などをもとに研究されてきた。

以下にターシャス・チャンドラー英語版による16世紀までの主要都市の推定人口をまとめる。[3] ただし後述するように、チャンドラーによる鎌倉の推定人口は一般の推定よりも過多で、鎌倉時代末の最盛期に6万~10万人とみられる。[4] また博多鎌倉時代から室町時代にかけても数万人規模の都市であったと考えられる。

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近年のその他の研究者による藤原京、平城京、鎌倉、京都の推定人口は以下の通りである。

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原田伴彦による室町時代の主要都市の推定人口は以下の通りである。[20]

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推定の根拠

藤原京
慶雲元年(704年)に藤原京に住む百姓1505烟へ布を賜ったとの記述が『続日本紀』にあるが、岸俊男は藤原京を12条8坊384町と考え、1505烟という数字は在地住民と京内に新たに宅地班給を受けた官人戸数(大宝元年(701年)の五位以上の官人119名、六位以下の官人推定676名)の合計であると仮定し、1家6.2人または1郷戸16.4人(天平5年(733年)の平城京の『右京計帳』断簡による数字)として、藤原京の人口を1万~3万人と推定した。[5]
最近の研究で藤原京は岸俊男が想定したより広いことが指摘されている。鬼頭清明は、宮、市、寺院を除いた藤原京の面積(300坪)を平城京(1132坪)と比較し、後述する平城京の推定人口を14万人とすることで4万人弱、更に藤原京外となった飛鳥故宮の地を含めて、藤原京の総人口を5万~6万人と推定した。
木下正史は慶雲元年の記述は藤原京の拡張に伴う移転補償に相当すると考え、核となる300町の人口を、平城京の推定人口に関する田中琢説[9] に従って1万6000人と概算した。また外郭の1505烟の人口を岸俊男説の1万~3万人として合計2万6000~4万6000人、さらに京内の人口を加えて、藤原京の人口を3万~5万人と推定した。[7]
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平城京・奈良
澤田吾一は、平城京の京城の面積は道路を含めて約20.1 km2)、道路を除いて約16.3 km2と見積もり、明治4年(1871年)の金沢の人口密度(12万3363人/140万平方丈)との比較から、京城の人口を17万5000人、これに2万人以上とみられる郊外の寺院等人口を合算して平城京の人口を20万人と見積もった。[21]
この推定人口には異論があり、例えば村井康彦は最盛期でも20万人の1/3から半分程度という推定値を出している。[8]
岸俊男は、平城京の面積が藤原京のほぼ3倍であることから総戸数を約4500戸と見積もり、平城京の郷戸平均16.4人から平城京の人口を7万4000~10万人と見積もった。[5] 鬼頭宏も725年の平城京の推定人口として岸俊男の下限推定人口(7万4000人)を採用している。[12]
田中琢は『日本書紀』が記載する持統5年(691年)の藤原京の宅地支給基準(上戸1町、中戸半町、下戸1/4町、または成人男性8人以上が大戸、4人以上が中戸、2人以上が下戸)に着目し、1町平均成人男性8人、1成人当たりの平均家族6.7人(『右京計帳』断簡による数字)として、平城京1368町の内の居住地約1150町の人口を6万2000~10万人と試算した。[9]
鬼頭清明は、最近の発掘調査による居宅の規模と居住人口から推定人口9万5000~17万4000人、階層構造から推定人口11万4494~19万7361人を導いている。[6]
寺崎保人は、近年主流となりつつある10万人説を前提として、居住可能な土地内に隈なく人が連続して住んでいるはずはなく、また下級官人の多くは単身赴任して平城京内に住んでいたと考えらることから、平城京の人口を5万~6万人程度と推定している。この内下級官人は1万~2万人で、そのほか役所で雑用にあたる人、官人予備軍といった人数を考えると、都市住民の内多くは何等かの形で役所に関わりを持っており、商人や職人などの庶民がきわめて少ないとしている。[10]
平安京遷都以後、奈良は南都と呼ばれるようになり、門前町として栄えた。
『尋尊大僧正記』によると、正長元年(1428年)の大乗院領・元興寺領の地口(道路に面した建物の長さ)の総計が937間2尺5寸ある。一方『田楽頭役方御領内元興寺領地口銭帳』によると、大永5年(1525年)の大乗院領・元興寺の地口総計1324間5尺に対して670軒とある。これらの地口表から畠地を除くことにより、大乗院領・元興寺領の家屋数は15世紀に400軒、16世紀に600軒と推定される。これらの院領が奈良の門前地域の1/4を占め、1戸4人と仮定し、更に門前以外の地域人口を加算することにより、14世紀の奈良の人口は7000~8000人、15世紀初頭の奈良の人口は1万人以上と推定される。[20][22]
難波宮
神亀3年(726年)に聖武天皇は後期難波宮を造営し、平城京との複都制を実施した。ウィリアム・ウェイン・ファリス(William Wayne Farris)は難波の人口を平城京の半分程度の3万5000人と推定している。[23]
大宰府
奈良時代の大宰府は東西24坊、南北22条の広さを持ち、平城京の面積の1/4程度の大きさで、九国二嶋を管轄する軍団が置かれた。[24] ファリスは奈良時代の総都市人口を20万人、大宰府の人口を1万5000人と推定している。[23]
平安時代に入ると次第に兵制が縮小し、弘仁4年(813年)には大宰府管区全域(九国二嶋)の兵数は律令時代の約半数の9000人に、天長3年(826年)には1920人にまで減らされる。この時大宰府には統領8人、選士400人、衛兵200人が置かれた。その後大宰府は、遣唐使の廃止と藤原純友の乱で衰退するが、平安時代末には再び復興する。1471年の『海東諸国紀』によると、大宰府は民居2200余戸、正兵500余で、推定人口1万人以上。
長岡京
続日本紀によると延歴5年(786年)7月に太政官院が完成し、百官が出勤したとある。福山敏男らは平城京の推定人口約20万人の半数が長岡京に移動したとして長岡京の人口を約10万人と推定し、百官の総数推定7000人~8000人の家族や召使などにより構成されたと考えても矛盾はないとしている。[25]ただしこれは平城京の推定人口として澤田吾一説の20万人が主流だった頃のものである。
『向日市史 上』では、長岡京の発掘調査において1町内に占める建物群の割合から、人口を約5万人と推定する考え方が紹介されている。[26]
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平安京
平安時代初期・前期
天長5年(828年)の大政官符によると平安京には580余町あったとされる。阪本敦は、1町32戸、1戸平均20人として、9世紀の初期王朝時代の平安京の人口を37万人とし、遷都直後の初期平安京の人口はこれと同等かそれ以下であろうと推定した。[27] また大正4年(1915年)に『京都坊目誌』を完成させた碓井小三郎は、遷都当初の延暦13年(794年)の戸数・人口を8万戸40万人、ほぼ平安京が完成した弘仁9年(818年)の戸数・人口を10万戸50万人と推定している。[28]
しかしながらこれらの推定値は一般に過多と考えられており、原田伴彦は澤田吾一の平城京推定人口(20万人)が平安京人口の上限と考えた。[20] 社会工学研究所も900年、1100年、1300年、1400年の平安京の推定人口として澤田吾一の平城京推定人口(20万人)を採用している。[29] チャンドラーは洛中面積(20 km2)に当時の長安の推定人口密度(100 人/km2)を乗じた値である20万人を、800年頃の平安京の推定人口としている。[3]
一方村井康彦は天長5年(828年)の大政官符記載の580余町、1町平均32戸、『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口5~6人から、9世紀の平安京の人口の最低値を9万人とし、実際は1戸1家族以上と考えられることから、初期王朝時代の平安京の人口を10万~15万人と推定した。[13]これは平安京の総面積が推定人口100万人とされる長安の1/3程度、かつ実際に市街化された地域はさらにその半分程度であることと矛盾しないとしている。[8]
井上満郎は、鎌田元一の推定する人口増加率を参考に、[30] 岸俊男の推定する平城京人口(7万4000人)[5] の20%増の8万8000人を初期平安京の人口と推定した。また大政官符の記載する580町とは左京のみの数字であると前後の文章から判断し、初期王朝時代もまだ9条72坊300保1216町の構造を保っていたと考えた。貴族の官位別人数より平安京を内裏80.0町、東西両寺などの特別区42.5町、貴族・官人居住区600町、諸国から上京してきた職人たちが住む諸司厨町41町、一般市民居住区452.5町と概算し、貴族・官人の人口を延暦4年(785年)の貴族の官位分布などから863戸、諸司厨町の1町当たり戸数を22戸、一般市民居住区の1町当たり戸数を32戸、1戸当たり平均人口を6.22人として11万7372人という数字を得た。これに内裏(天皇・皇族や後宮)と東西両寺などの特別区に住む人々や、奴婢を加え、初期王朝時代の平安京の人口を12~13万人と推定した。[11]
山田邦和は、井上満郎の推定人口(12万~13万人)を参照しつつ、実際は右京は当初から未開発地区が多く、京内に点在した湿地や川、宅地化されない荒地の存在を割り引く必要があり、この歩止まりを一般市民居住区の2~3割程度に仮定することで、9万~11万人、すなわち10万人前後という推定人口を出している。[14]
鬼頭宏は、天長5年(828年)の大政官符の町数から推計した戸数(1万5600戸)と『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口(6.22~6.58人)[31] より、西暦800年及び900年頃の平安京の人口を12万人と推定した。[12]
近年の考古学調査により平安京の北西、南西、南東の端では、そもそも整備されたのは条坊制のための道路だけで、遷都当初から市街地化していなかったことが判明している。また相国寺境内の遺跡調査から、平安時代前期には平安京北郊への拡大が既に始まっていた可能性が高い。天長5年(828年)の大政官符に登場する580町は左京の町数と考えられ、理論上の608町との差28町は、市街化されていなかった左京の南東端(鴨川)であると解釈される。[32]
平安時代中期・後期
一般には平安時代中期の10世紀頃より平安京の北、東への膨張が始まったと考えられている。慶滋保胤の『池亭記』には、右京が衰退し、左京の北半分には上級貴族の大邸宅が林立している10世紀末の平安京が描かれており、チャンドラーは10世紀後半より平安京は人口減少局面に入ったとして1000年頃の人口を17万5000人と推定している。[3][28] しかしながら考古学的調査では、元々右京は開発困難な湿地帯が未開発のまま残されており、右京の幹線道路沿いに町屋が島状・帯状に立ち並ぶような、田園と町通りが混在した状況が平安遷都当初から続いていたと推定され、むしろ市街は洛外へ膨張していた。やがて鴨川の東に白河が造営された。平安時代後期に入ると、南側には鳥羽離宮が造営され、その結果左京南部に初めて市街が形成される。また平安時代中期まで維持・管理が続けられた条坊制は11世紀半ばに終焉する。[32]
村井康彦は、『日本略記』にみられる寛弘8年(1011年)と万寿元年(1024年)に起こった火災の記録から、1町当たりの平均戸数を30~70家と推定した。当時の町数を天長5年(828年)の大政官符の町数(580余町)より若干増えた600余町と仮定し、また『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口(左京3.9人, 右京6.3人)とより、少ない場合で4人×30家×600町=72,000人、大井場合で7人×70家×600町=294,00人、平均して183,000人と算出した上で、王朝時代の平安京の人口を17、18万~20万人[15]、または15万~17、18万人[16]と推定した。
一方桑原雅夫, 井料美帆らは、井上満郎の推定方法と山田邦和の修正を参考にして、万寿4年(1027年)の平安京の人口を14万~17万人と推定している。[17]
平安時代後期になると武士階級が京都に進出し、源氏は六条堀川と室町に、平家は洛東の六波羅に本拠地を構えた。『平家物語』によると平家一族の最盛期には六波羅一帯に一族郎党の家屋が5200戸に達した。
百練抄』や『玉葉』、『方丈記』によると安元3年(1177年)の大火(太郎焼亡)では京都の1/3に相当する180余町2万家が焼失し、治承2年(1178年)の次郎焼亡では七条界隈の30数町が焼失した。
坂本敦はこの時焼け残った町数を天長5年(828年)の平安京の町数580余町から400町と推定し、1町当たり55.5家、1家10人として平安末期の平安京の人口を42万2000人と推定した。[27] ただしこの推定値は一般には過多と考えられている。
太郎焼亡では大極殿が焼け落ち、以降再建されることはなく、治承4年(1180年)には一時的に福原京へ遷都される。またその後の養和の飢饉の影響で、養和2年(1182年)には左京の死体の数が旧暦4月~5月の2ヶ月間で4万2300余を数えたという記述が『方丈記』にある。チャンドラーはこの時期京都の人口が10万人にまで減少したと推定している。[3]
鬼頭宏は平安時代を通じてそれほど平安京の人口に変動はなく、初期王朝時代の推定人口(12万人)を平安時代末期の西暦1150年の平安京の人口としている。[12]
一方山田邦和は、京都の発掘調査の状況から400年間の人口増加を見込んでおり、少なくとも15万~18万人程度の人口規模を推定している。[14]
鎌倉時代
鎌倉時代の京都の町並みの変遷については資料が限られており衰退の程度には諸説あるが、13世紀中ごろには右京の3/4が田園化していたと考えられる。碓井小三郎は、鎌倉時代の京都の人口を、9万~10万人と推定している。[28]
チャンドラーは、元弘3年(1333年)の京都の人口を2万人と推定し、そこから1200年、1250年、1300年の推定人口を10万人、7万人、4万人と補完して求めている。[3]
中島圭一は、河野真一郎らによる鎌倉時代の鎌倉の推定人口6万4千~10万人との比較から、14世紀初期の京都の人口を8万~10万人と推定している。[18]
室町時代前期
『師守記』によると貞治4年(1367年)に病院建設のための資金1万疋を集めるため、各家から10文を集めたという記述があり、当時京都に暮らす一般庶民は1万戸約5万人と推定される。高尾一彦、林屋辰三郎松浦玲らは公家、武家、寺社の関係者人口をそれぞれ3万~4万人、1万人、1万人と推定し、14世紀後半から15世紀前半の京都の人口を10万人と推定している。[19]
また『東寺王代記』によると応安5年(1372年)の火災では382町2万余家が焼失したとある。
応仁の乱~戦国時代前期
応仁の乱に先立つ長禄・寛正の飢饉では、『碧山日録』によると寛正2年(1461年)の2ヶ月間で京中にて8万2千人の死体が数えられ、鴨川の水流が死体で堰き止められるだったという。
応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱では、『応仁記』によると上京だけで二条から霊辻、大舎人から室町までの100町、3万余宇が灰燼に帰したとあり、チャンドラーは乱直前の京都の人口を15万人と推定している。[3] なお1471年の『海東諸国紀』は京都の戸数を20万6千余と伝えているが、戸数としては多過ぎるため、人口の間違いかもしれない。
碓井小三郎やチャンドラーは応仁の乱が終結した文明9年(1477年)の京都の人口を、4万人と推定する。[3][28]
戦国時代の京都の町並みは、上京下京室町通1本で繋がる状態にまで衰退しているが、15世紀後半の京都の人口については、チャンドラーのように4万人と低く見積もる説[3] から、高尾一彦らのように20万人近くと高く見積もる説まである。[19]
『後慈眼院殿記』によると、明応3年(1494年)の火災では下京30余町1万戸が焼失したという。また明和9年(1500年)には上京が被災し、焼失した家屋は1万5000軒から4万軒と、文献によって数字が異なるが、原田伴彦はこの時期の京都の人口を2万戸10万人と推定する。[20] 一方高尾一彦らは15世紀末の京都は、上京6000~7000戸、下京1万~1万数千戸の合計2万戸10万人の商工民人口がおり、これに公家、武士、寺社関係人口と、数万人に及ぶ散所、河原人口を加えれば、上下京の人口は合計15万~18万人に達したと推定している。[19]
戦国時代後期~安土桃山時代
天文20年(1551年)に京都を訪れたザビエルは書簡の中で、京都はリスボンよりも大きく、9万6000戸の戸数があると伝えているが、この数字は山城国全域の戸数と思われる。豊田武は寛永11年(1634年)の京都の人口との比較から、せいぜい5万~6万人と推定している。[33]
織田信長の保護のもと京都は繁栄を取り戻し、元亀2年(1571年)に京都を訪れたイエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラは、かつて京都は30万戸を誇ったが現在は6万戸のみであると『イエズス会日本通信』に記述しており、安土桃山時代の京都の人口をチャンドラーは30万人、[3] 高尾一彦らは控えめに20万人以上と推定している。[19]
江戸時代以降の京都の町並みは、豊臣秀吉により復興されたものである。碓井小三郎は、慶長3年(1598年)の京都の人口を50万人と推定している。[28]
多賀城
『日本後紀』によると、延暦17年(798年)に陸奥国府に居住する上級官人は国守、介、大掾、小掾、大目、少目2人(以上国司)、博士、医師、史生5人、守慊仗の16名で、他に国衙徭丁が700人程度いた。平城京の役人(6500人)と推定京内人口(10万人)の比を適用することにより、多賀城の人口は1万人程度と推定される.[34]
日本三代実録』によると貞観11年旧暦5月26日(西暦869年7月13日)に発生した貞観地震の津波が多賀城城下に至り、溺死者が1000人に達した。
胆沢
『日本後期』によると延暦21年(802年)に坂上田村麻呂によって胆沢城が造営されると、鎮守府が多賀城より移設され、浪人4000人が配備された。最盛期の弘仁元年(810年)には鎮守軍卒が3800人を数えた。[34]
博多
博多は古代より大宰府の外港として栄えた。『石清水文書』によると、仁平元年(1151年)に1600家とあり、推定人口は8000人。[20]
その後、鎌倉室町時代における人口の詳細は不明であるが、町は度重なる戦火(文永11年(1274年)の元寇や元弘3年(1333年)の後醍醐天皇綸旨に対する菊池武時挙兵)を受けながらも、貿易の拠点として栄え続けた。当時鎮西探題九州探題は、室見川の西側の鷲尾愛宕神社付近に設置されていたと推測される。『李朝成宗実録』によると15世紀末の博多は李氏朝鮮の都城のように人家が稠密していた。1471年の『海東諸国紀』によると、博多は少弐氏大友氏に分治されており、それぞれ少弐領が西南の4000余戸、大友領が東北の6000余戸、民居合計1万戸で推定人口5万人。[3]
『籌海図編』によると16世紀の博多は数千家の富者がおり、天文19年(1550年)に博多を訪れたザビエルは、博多は1万戸の大都会(推定人口5万人)と伝えている。その後永禄12年(1569年)の大友宗麟毛利元就戦火で博多の大半が焼失し、3500戸(推定人口1万7000人)まで戸数が減少するが、[3]『イエズス会日本通信』によると天正7年(1579年)の博多は7000戸以上にまで復興し、推定人口は3万5000人以上。[20]
その後博多は天正8年(1580年)には龍造寺隆信によって、永禄14年(1586年)には島津義久によってほぼ全焼させられるが、豊臣秀吉の保護により復興する。
大津・坂本
大津は物資の水上運送で繁栄した。『源平盛衰記』によると以仁王の挙兵に対する報復として治承4年(1180年)に平重衡三井寺を焼き討ちにした際、大津の在家2853軒が焼失しており、推定人口1万5000人。[20]
坂本は延暦寺の門前町として栄えた。『後法興院記』によると、文亀元年(1501年)に数千軒焼失とあり、推定人口は1万5000人以上。[20]
平泉
吾妻鏡』によると鎌倉軍と奥州軍の総勢はそれぞれ28万4千騎、17万騎であったとされるが、これは実数とは認められない。『薩藩旧記雑録』収録の文治5年(1189年)旧暦8月20日の源頼朝から島津忠久への書状には鎌倉方の主力軍が総勢2万人であることが書かれており、『吾妻鏡』の数字は最低でも5倍程度の誇張があると考えられる。[35] チャンドラーは、平安時代末の鎌倉の都市人口を10万人とし、軍隊の人口比から平泉の都市人口を5万人と推定した。[3][36]
なお古来より『吾妻鏡』や江戸時代の作と考えられる『平泉全盛図』(平泉古図)などをもとに、往年の平泉の人口を京都に匹敵する十数万人とする説が流布しているが[37]、具体的な数字の根拠が示された例がなく, 実際の都市規模はもっと小さかったと考えられる。[38]
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鎌倉
中世の鎌倉の人口を明記した文献は存在しないが、『鎌倉年代記裏書』によると永仁元年(1293年)の地震で2万3024人が死亡していることから、最低2万3000人の人口が鎌倉にはいたことになる。[20]ただし周辺地域を合算した数字である可能性があり、『鎌倉大日記』では打殺さるる者1700余人とある。関東大震災における死亡率との比較から、呉文炳は10万~15、16万人と推定した。[39]
また『吾妻鏡』によると建長4年(1252年)に3万7274口の酒壺が町屋民家に存在したことから、吉田東伍は鎌倉には1万戸はあったと推定している。石井進はこの記述を武士以外の庶民の人口として5万人と見積もっている。[4]
一方鎌倉の僧侶人口に関しては、元亨3年(1323年)の北条貞時の13年忌に参列した禅宗の僧侶は、建長寺388人、円覚寺350人、寿福寺260人、浄智寺224人以下38ヵ寺合計2000人余との記録が残っているが、円覚寺の例で僧侶のほぼ1.7倍に相当する下級僧・役人・従者が禅宗寺院で暮らしていたことから、鎌倉の禅宗寺だけで5400人が暮らしていたと推定される。さらに禅律僧(推定4300人)、浄土宗法華宗などを加え、石井進は鎌倉寺社地の人口を1万5000人と推定している。[4]
河野真一郎は、近年の発掘成果による武家屋敷(131.25 ha, 1万7500~2万9000人)と町屋(94.8 ha, 3万1600~5万6900人)の推定面積と、石井進による寺社地の推定人口(1万5000人)から、鎌倉の人口を6万4100~10万0900人と推定している。[4]
なおチャンドラーが採用している全盛期の鎌倉の推定人口20万人は、元文献が示されていない旅行ガイドに採用されている数字を引用しており、根拠が希薄である。[3][40]
雪ノ湊
『太平記』によると、康安元年(1361年)の康安南海地震により在家1700余宇が海中に没したとあり、推定人口8500人。[20] 雪ノ浦(湊)は『平家物語』にも登場し、土佐、九州への航路の拠点として栄えたとされる。[41]
『応永記』、『堺記』によると、応永6年(1399年)の応永の乱大内義弘が堺に籠城した際、1万軒焼失したという。また『二水記』と『尋尊大僧正記』によると、天文元年(1532年)に堺の2/3に当たる4000軒を焼失したとあり、推定戸数6000戸、推定人口3万人。[20]
鹿児島
『入来文書』によると鹿児島に本拠地を置いた島津伊久が応永8年(1401年)に率いた軍勢は3500人であり、推定人口2万1000人。[3][42]
柏崎
『梅花無尽蔵』によると、長享2年(1488年)の柏崎の様を5000~6000戸と伝えており、推定人口3万人。[20]
伊勢山田
『内宮古良館記』によると、延徳3年(1491年)に1000家焼失、『子良館日記』によると、永正14年(1517年)に5000軒焼失、『厳助往年記』によると天文13年(1544年)に6000軒が炎上したとあり、推定人口は3万人以上。[20]
天王寺・大坂本願寺
『尋尊大僧正記』によると明応8年(1499年)の天王寺は7000軒と伝えており、推定人口は3万5000人。[20]
『厳助往来記』によると永禄5年(1562年)に本願寺の寺内町2000軒焼失と伝えており、推定人口は1万人以上。[20]
天正8年(1580年)に寺内町は焼失し、本願寺が大坂を退去する。その後豊臣秀吉によって大坂の町の建設が進められ、秀吉の死の直前には北は天満から、南は天王寺に接する平野町まで広がる大坂城下町が完成した。
安濃津 (津)
『宗長手記』によると、安濃津は10余年前の津波により荒野となり、大永2年(1522年)には4000~5000軒の家堂塔の跡が残っているのみと記している。よって最盛期の推定人口は2万5000人以上。[20]
なおこの津波が明応7年旧暦8月25日(西暦1498年9月20日)の明応の大地震によるものだとすると、1498年には安濃津は既に廃墟と化していたことになる。ただし『細々要記』によると明応6年旧暦9月2日(西暦1497年7月26日)の津波で数百軒消失とあり、別の原因かも知れない。
桑名
『宗長手記』によると、大永6年(1526年)に5,6町の長さの港に寺々家数千間とあり、仮に3000間として推定人口は1万5000人。[20]
府中 (駿河)
『実隆公記』によると享禄3年(1530年)に駿河府中は2000余軒とあり、推定人口1万人以上。[20]
山口
天文19年(1550年)に山口を訪れたザビエルは、山口の戸数を1万戸以上、コスメ・デ・トーレスは2万戸と記述しており、推定人口は6万人。[3]
大寧寺の変で町並みは被害を受けており、弘治3年(1557年)に山口を訪れたイエズス会の宣教師は、山口を1万人と伝えている。
近江石寺・安土
『長享年後畿内兵乱記』によると、永禄6年(1563年)に石場寺3000家屋焼失とあり、推定人口1万5000人。[20]
『イエズス会日本通信』によると、天正9年(1581年)の安土城下町は5000~6000人の住民がおり、その後も町は拡大を続けた。
岐阜
『イエズス会日本通信』のルイス・フロイスの書によると、織田信長入城以来の町の繁栄をバビロン城の繁栄に喩え、永禄12年(1569年)の人口を1万人と記載している。[20]
長崎
長崎大村純忠によって永禄13年(1570年)に開港され、『イエズス会日本通信』によるとガスパル・ビレラはこの頃の長崎の人口を1500人と伝えている。フランシスコ・カリヤンは天正7年(1579年)に400戸以上、ルイス・フロイスは天正18年(1590年)に5000人、アビラ・ヒロンは『日本王国記』の中で文禄3年(1594年)に3000人、ルイス・デ・グスマンは『グスマン東方伝道史』の中で文禄4年(1595年)に8000人、フェルナン・ゲレイロは慶長5年(1600年)に4000~5000人、フランシスコ・カリヤンは慶長16年(1611年)に1万5000人、アビラ・ヒロンは慶長19年(1614年)に2万5000人以上と伝えている。またライエル・ハイスベルツは『日本大王国志』の中で寛永3年(1626年)の長崎のキリシタン人口を4万人と記述している。
春日町・府中 (直江津)
直江津は越後国府が置かれ、今町の湊として知られて来た。上杉謙信春日山城を本拠地とした時、侍屋敷のある春日町、門前町の浜善光寺、港町の直江津(狭義の府中)の三つの中心街が形成され、やがて謙信治世末期には浜善行寺地区が府中に組み込まれた。
『景勝一代略記』によると天正6年(1578年)の御館の乱の際、旧暦5月16日に春日町3000軒、旧暦6月11日に府中6000軒が焼失したとあり、推定人口は春日町1万5000人、府中3万人。但し原田伴彦は春日町・直江津全体を含めて広義の府中6000軒と解釈し、総人口3万人と推定している。[20]
野津
『イエズス会日本通信』によると、天正7年(1579年)に2万人を収容。[20]
越中瑞泉寺
『瑞泉寺記録帳』によると、天正9年(1581年)に佐々成政が焼き討ちする前、寺27、町屋3000余とあり、推定人口1万5000人。[20]
蓮池
蓮沼城は佐々成政の居城として栄え、「蓮沼三千軒」と称された。『 昔日北華録』によると、天正12年(1584年)に家数2000軒とあり、推定人口1万人。[20]
清洲
『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)に古くから居住している町屋は約1500軒とあり、天正年間(1580年代)の推定人口は7500人以上。[20]
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江戸時代

要約
視点

推定人口

江戸時代に入ると各藩において武士城下町陣屋町への定住化が促進され、数千、数万人規模の地方都市が日本全国各地に成立する。また政治の安定化により港町宿場町門前町、鉱山町、在郷町なども発達する。

17世紀中ごろにはキリシタン取り締まりの為に寺社毎に戸口をまとめた宗門人別改帳制度が成立し、各地域毎の人口がより正確に把握されるようになった。しかしながら調査方法が不統一であり、それぞれの奉行所に方法が任されたため、武家人口、乳幼児人口や被差別階級、神社仏閣関連人口の扱いが奉行所・藩によって異なっていた。更にこれらの調査結果も幕府が中央で収集しなかったため、各地に過去の人別改帳が散逸してしまい、地域によって調査史料の質・量が異なる結果となってしまっている。特に城下町の人口の半分前後を占めていた武家人口の記録がほとんど現存せず、多くの場合正確な都市人口は不明である。

1609年(慶長14年)に日本へ漂流したロドリゴ・デ・ビベロは、京の人口を30万~40万人(本人の目算では80万人以上)、大坂の人口を20万人、江戸の人口を15万人、駿府の人口を12万人、堺の人口を8万人、大多喜の人口を1万2千人と伝えている。また駿府と京の間で人口3万人、4万人の町を通過したとしており、それぞれ浜松、名古屋(または清州)のことと思われる。寛永年間まで京は日本最大の都市であったが、参勤交代で人口が急増した江戸が代わって日本最大の都市となる。一方、大坂は大坂の陣で荒廃するものの、元禄年間に京の人口を追い抜いたと考えられる。江戸時代中頃より江戸、大坂、京は三都と呼ばれるようになる。江戸時代の人口規模としては、三都のほかに金沢と名古屋は最盛期に武家人口を含めて10万人以上居住していたと考えられる。また駿府と山口は江戸時代初期に限り10万人規模の人口を有していた。

さらに見る 都市名, 年代 ...

以下の表に斎藤誠治による江戸時代の主要都市の計外人口を含めた推定人口の推移を、『日本地誌提要』による明治6年1月1日調の人口と共に示す[46]。これらの推定人口には町続きの人口は加算されていない。広島、和歌山、徳島高松及び琉球の首里なども江戸時代に十分な人口を有していたと推定されるが、人口推移は推定されていない。一方、開港前の横浜は半農半漁の郷村であった。

さらに見る 主要都市, 1650年 ...

人別改などに記載された都市人口

宗門人別改帳による集計結果は、人数改帳などの形で各藩・各奉行所で報告書が作成されており、江戸時代の都市規模を推定する上で重要な史料となる。

江戸時代の江戸の町方・寺社人口、京の町方・寺社人口、大坂三郷の町方人口については江戸三都の項目にまとめてある。本項目ではその他の地方都市の人口を紹介する。明治6年(1873年)の人口は原則『日本地誌提要』による。また諸大概帳による天保14年(1843年)の街道筋の宿内町人口については、別個項目をたててまとめる。弘前や鹿児島などのように人口統計として城下町に暮らす武家人口が判明しているものもあるが、ほとんどは町方人口しか記録が残っていない。武家人口とその他の人口の比率は城下町によって異なり、仙台、鹿児島などは武家人口の方が多い。

畿内

京 (京都, 平安京)

三都の項を参照。

伏見 (伏水)

伏見には伏見奉行所が置かれていた時期もあり、幕末には4万人以上の人口を有する宿場町として栄えた。天保14年(1843年)の宿内のみの人口は2万4227人(『東海道宿村大概帳』)。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで市街の大部分が焼失する。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『京都の歴史』)

宇治
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『宇治市史』)

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『京都の歴史』、『東海道宿村大概帳』)

奈良
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『奈良市史』、『奈良県史』、梅村佳代(2003年)[47])

郡山 (大和郡山)

延宝年中(1675年頃)の武家人口は家族を除いて2,757人。町屋家数は延宝7年(1679年)の4693軒から享保8年(1723年)の3850軒、安永6年(1777年)の3837軒と減少しており、延宝年中の郡山の武家を含めた推定総人口は2万5000人。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『郡山町史』、『奈良県史』)

八尾

大和川の付け替えの行われた宝永年中の八尾は戸数820余軒、人口3千余人。

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(典拠は『八尾市史』)

岸和田

明治6年(1873年)を除き岸和田浜町のみの人口で、岸和田本町、岸和田北町、岸和田南町の人口は加算されていない。

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(典拠は『岸和田市史』)

貝塚
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『貝塚市史』)

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江戸初期には、泉摂国境による南北二分に本郷・端郷の区分を加えて、4つの行政区(四辻)に分かれていた。元禄6年(1693年)に本郷と端郷の区分を廃し、南組・北組に再編された。

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(典拠は『堺市史』)

  • 摂津
大坂

三都の項を参照。

平野町

ここでいう平野町とは、今日の大阪市中央区船場の一角の南北平野町のことである。豊臣時代に大坂城下町の一部として、平野郷からの移住者が中心となって建設されたが、徳川時代に設定された大坂三郷には含まれなかった。天王寺、難波と共に、大坂三郷の郊外型の在郷町として発達した。

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(典拠は『新修大阪市史』)

尼崎
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(典拠は『尼崎市史』)

伊丹

享和元年(1801年)の伊丹郷の人口は8237人。天保7年(1836年)の伊丹郷の竈数は2500で推定人口1万人(典拠は『伊丹市史』)。明治6年(1873年)の人口は3508人。

西宮

天保14年(1843年)の宿人別と町奉行支配場の合計は8268人(『山崎通宿村大概帳』)。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は西山松之助(1952年)[48])

兵庫・神戸

慶応3年旧暦12月7日(1868年1月1日)に兵庫津の東に位置する神戸村が幕末五港の一つとなる兵庫港として開港する。後に神戸港と改名し、明治に入って兵庫港・神戸港から成る神戸区が成立する。1829年以前の神戸村の人口は、元禄3年(1690年)に1391人、宝暦10年(1760年)に1985人。『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の総人口は兵庫67町神戸30町で4万0900人(現住人口か?)、外国人寄留人口は350人。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は西山松之助(1952年)[48]、『神戸市史』)

東海道

上野 (伊賀上野)
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『上野市史』)

桑名

延宝7年(1679年)の桑名藩家中人口は9648人であり、武家人口を含む桑名の総人口は約2万2000人と推定される。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『桑名市史』、『東海道宿村大概帳』)

神戸 (鈴鹿)

天明8年(1788年)の町方人口は2173人(典拠は『角川地名辞典』)。明治6年(1873年)の人口は2694人。

四日市
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『四日市市史』、『東海道宿村大概帳』)

亀山
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『亀山地方郷土史』)

安濃津 (津)

町支配ではない町続きの戸数は天和元年(1881年)に580軒。藩士戸数は宝暦元年(1751年)に313軒。

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(典拠は『津市史』)

松坂
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『松阪市史』、『南紀徳川史』)

宇治・山田

鎌倉時代までには伊勢神宮の門前町が形成され、室町時代後半には外宮に山田三方、内宮に宇治六郷という自治組織が成立した。江戸時代度々流行したお蔭参りの参拝者数で驚くべき数字が伝わっているものの信頼性は低い。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『宇治山田市史』、『近世山田町方資料』)

鳥羽 (志摩鳥羽)

寛永3年(1850年)の町方屋敷は816軒、安政4年(1857年)の武家屋敷は396軒。寛政6年(1794年)の町方人口は鳥羽町2961人、他所組下女196人、外(欠落)119人を含む。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『鳥羽市史』)

名古屋

明治初年の調査では名古屋藩の武家人口は約5万人であり、最盛期の総人口は10万人を越えたと推定される。寛文9年(1669年)の人口は寺社門前地を含む。

さらに見る 元号, 西暦 ...

享保13年(1728年)、愛知郡広井村、名古屋村、押切村、栄村、日置村、古渡村、春日井郡前津小林村、枇杷島村、杉村、大曽根村に拡大していた町続が全て町方支配地となった。宝暦3年(1753年)には町中1753軒に対し、町続5592軒、寺社門前1072軒、合計1万2623軒と、町中戸数と町続戸数がほぼ同数になっている。慶応元年(1865年)の人口は町中3万4300人、寺社門前6743人、町続之分3万2060人、医師等757人、浪人103人を含む。明治4年(1871年)の人口は町中・寺社門前・町続6万9618人、医師・僧尼・祢宜2080人を含む。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『名古屋市史』、『名古屋史要』、『新修名古屋市史』)

宮 (熱田)

元禄12年(1699年)の人口1万3999人は、熱田町8734人、三ヶ浦3762人、社人1101人、社人支配町人402人の合計。その後の熱田の人口は、三ヶ浦や神宮支配場人口が加算されていないと思われる。明治4年(1871年)の人口は医師・僧尼・祢宜27人を含む。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『新修名古屋市史』、『東海道宿村大概帳』)

犬山
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『犬山市史』、『犬山市資料』)

一宮
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『一宮市史』)

津島
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『津島町史』)

大浜
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『碧南市史』)

棚尾
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『碧南市史』)

岡崎
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『岡崎市史』、『東海道宿村大概帳』)

挙母 (豊田)

町方戸数は延宝年中(1675年頃)に442戸、寛延2年(1749年)は616戸(典拠は『豊田市史』)。明治6年(1873年)の人口は3352人。

西尾
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『西尾町史』)

吉田 (豊橋)
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『豊橋市史』)

浜松
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『浜松市史』)

横須賀 (遠江横須賀)

寛文年中(1670年頃)の町方人口は2959人(典拠は『横須賀町史』)。明治6年(1873年)の人口は5516人。

府中 (駿府, 静岡)

徳川家康在城当時は約10万人と伝えられているが、城主が居ない時代は人口約2万人の地方都市となった。慶応4年(1868年)に徳川家達が静岡藩(同年駿府は静岡に改名)に封じられると、幕臣の移住とともに人口が増加した。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『静岡市史』、『東海道駿府城下町』、『東海道宿村大概帳』)

甲府

明治5年の人口は士族684人、卒族515人、僧尼208人、神官46人、平民1万4173人を含む。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『甲府略志』)

三島
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『三島市誌』)

小田原
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『小田原市史』、『明治小田原町誌』、『神奈川県史』、内田哲夫 『小田原藩の研究』)

浦賀三崎

享保年中(1725年頃)の西浦賀は600軒余、東浦賀は390軒余、三崎町は580軒余。慶応4年(1868年)の西浦賀家数は897軒(寺院4ヶ寺、庵2軒、堂2軒、役人8軒を含む)、東浦賀家数は551軒(寺院8ヶ寺、役人6軒を含む)。明治6年(1873年)の三崎の人口は3417人。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『新横須賀市史』)

江戸

江戸の人口の項を参照。

忍 (行田)

享保6年(1721年)の忍の町方人口は3049人(典拠は『行田市史』)。明治6年(1873年)の成田町、行田町の人口は合算して7224人。

岩槻
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『岩槻市史』、『日光御成道宿村大概帳』)

品川
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『品川区史』)

川越

明治2年(1869年)の川越在中家中人口は3885人。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『川越市史』)

熊谷
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『熊谷市史』、『中山道宿村大概帳』)

八王子
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『八王子市史』、光石知恵子 『江戸時代の八王子の人口』)

神奈川
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『横浜市史』)

横浜

文禄4年(1595年)の戸数は13戸、天保11年(1840年)の戸数は88戸で推定人口約450人(典拠は『横浜市史』)。神奈川の代替として安政6年旧暦6月2日(1859年7月1日)に開港してから急速に発達し、明治6年(1873年)の人口は6万4602人。

真倉 (館山)

館山三町、四ヶ浦、四村から成る。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『千葉県史料』)

大多喜

ロドリゴ・デ・ビベロの手記によると1609年頃の大多喜の人口は1万2000人。享保年中(1725年頃)の大多喜城下七カ町の町屋屋敷は、柳原町を除いて335軒。寛政5年(1793年)の町屋屋敷は442軒(典拠は『大多喜町史』)。明治6年(1873年)の大多喜駅の人口は2882人(『共武政表』)。

古河
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『古河市史』、『日光道中宿村大概帳』)

船橋
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『船橋町誌』)

結城
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『結城市史』)

佐倉

家中人口は安永8年(1779年)に426人、文久3年(1863年)に860人。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『佐倉市史』)

飯沼 (本銚子)

明治6年(1873年)の人口は飯沼(後の本銚子町)と新生、荒野、今宮の3村(後の銚子町)を含む。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『銚子市史』)

土浦
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『土浦市史』)

水戸

延宝8年(1680年)の町屋戸数は1777戸、武家戸数は1499戸。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『水戸市史』)

那珂湊 (ひたちなか)
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『那珂湊市史』)

東山道

大津

明治6年(1873年)の人口は五別所村を含む。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『新修大津市史』、『大津市志』)

坂本

明治6年(1873年)の上坂本村の人口は『共武政表』による。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『新修大津市史』)

膳所

貞享2年(1685年)の膳所は侍屋敷499戸、町屋409戸、寺22戸の合計930戸。元禄14年(1701年)は侍屋敷461戸、町屋502戸、出屋敷180戸、寺23戸の合計1166戸。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『新修大津市史』)

八幡 (近江八幡)
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『滋賀県八幡町史』)

彦根

元禄8年(1695年)の推定武家人口は1万9000人、寺社人口を含む推定総人口は3万6000人。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『彦根市史』)

大垣

享保6年(1721年)の社人・僧侶は合計240人。天保8年(1837年)の宿役人、町役人、人足は合計112人。『美濃路宿村大概帳』による宿内の人口は5136人。

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(典拠は『大垣市史』)

岐阜

明治6年(1873年)の人口は今泉村を含む。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『岐阜市史』)

高山 (飛騨高山)

一之町村、二之町村、三之町村の合計。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『岐阜県史』)

松本

享保10年(1725年)の武家・給人人口は6292人、他に江戸藩邸在府の者1300人、元治元年(1864年)の武家・給人人口は5284人であり、推定総人口は約1万5000人。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『松本市史』、『信府統記』)

飯田

明治6年(1873年)の人口は今泉村を含む。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『長野県史』)

善光寺町 (長野)
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『長野県史』、『長野市史』)

松代

寛文11年(1671年)の松代町方は389軒。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『長野県史』)

上田
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『上田市史』、『長野県史』)

小諸

宝暦10年(1725年)の町方人口は3849人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])。明治6年(1873年)の人口は6152人。

高崎

天保14年(1843年)の宿内のみの人口は3235人(『中山道宿村大概帳』)。明治2年(1869年)の東京在勤藩士は618人。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『高崎市史』)

前橋 (厩橋)

文化10年(1813年)から文政6年(1823年)の間は向町外四町が町分を脱退している。天保9年(1838年)の扶持遣候者は1200軒であることより、藩主在城中の推定総人口は1万1000人(町方5000人、武家6000人)。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『前橋市史』)

沼田
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『沼田市史』)

桐生
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『桐生市史』)

館林
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『桐生市史』)

足利

足利町は、本町、新田上町、新田下町、横町を含む。『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の足利の人口は2124人で、足利本町のみの人口と思われる。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『足利市史』)

押原 (鹿沼)

元和8年(1622年)の戸数は、東田町67軒、東内町86軒、西田町47軒、西内町53軒の合計253軒。延宝元年(1675年)は538軒。明治6年(1873年)の人口は『共武政表』による。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『栃木県史』、『壬生通宿村大概帳』)

宇都宮

天保14年(1843年)の宿内のみの人口は6457人(『日光道中宿村大概帳』)。

さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『栃木県史』、『宇都宮史勢概要』)

烏山
さらに見る 元号, 西暦 ...

(典拠は『烏山町史』)。

白河

元禄5年(1692年)の城下町の構成は、家中1237軒、寺社315軒。

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(典拠は『白河市史』、『奥州道中宿村大概帳』、『福島県史』)。

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(典拠は『いわき市史』)

小名浜

小名浜は米野、中島、中町、西町の4町を含む。

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(典拠は『いわき市史』)

中村
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(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

若松 (会津若松)

町屋戸口は寛文6年(1666年)に3256軒、寛文9年(1669年)に3515戸、享保20年(1735年)に3380戸、文化4年(1807年)に3028戸。また侍屋敷は会津騒動以前には443軒だった。

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(典拠は『会津藩家世実紀』、『会津鑑』、『若松市史』、『会津若松市史』、『町名の由来:おらが街のミニ歴史』)

郡山 (岩代郡山)

人口は定有人口で、出稼ぎの下男、下女を除く。

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(典拠は高橋美由紀 『在郷町の歴史人口学』、『郡山市史』)

二本松
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(典拠は『二本松市史』)

福島 (岩代福島)
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(典拠は『福島県史』)

仙台

最盛期の仙台の総人口は6万人以上と推定されている。

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(典拠は『封内風土記』、『宮城県史』、『岩手県史』、『仙台市史』)

塩竈
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(典拠は『塩竈市史』)

石巻

虻田村の人口は、元禄12年(1699年)に1494人、明和3年(1766年)に1632人、安永2年(1773年)に713人(高屋敷を除く)、明治6年(1873年)に2065人。安永2年(1773年)は、石巻村住吉と湊村の統計を欠く。

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(典拠は『石巻市史』)

花巻
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(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

盛岡

武家人口は盛岡藩全体で2万8000人以上で推移しており、武家・寺社人口を含めた盛岡城下町の最盛期の人口は約4万人以上と推定される。

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(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

郡山 (陸中郡山, 紫波)
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(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

青森
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(典拠は『青森市沿革史』,『青森市史』)

弘前

武士階級(家中)を含めた弘前の総人口が記録として残っている。

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(典拠は『弘前市史』、『津軽史事典』)

八戸

寛延2年(1749年)の家中人口は2833人。天明4年(1784年)の家中人口は3015人。

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(典拠は『八戸市史』)

三戸
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(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)

米沢

武家人口は、元禄5年(1692年)に3万1173人(武家を含めた推定総人口は約4万人)、元禄14年(1701年)に2万9960人、安永5年(1776年)に2万4061人、天保11年(1840年)に2万5608人、文久2年(1862年)に3万2036人。

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(典拠は『山形県史』、吉田義信 『置賜民衆生活史』)

山形

最上騒動の時期の元和8年の町方人口は『義俊家中並寺社方在町分限帳』により、合計の不一致は原文ママ。正保元年(1644年)の城下町の戸数は町方・寺社方2411軒、家中597軒であり、家中1戸当たり7人と仮定すると推定総人口は1万8160人。

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(典拠は『山形の歴史』、『山形市史』、『山形県史』)

新庄

宝永6年(1709年)の町方人口は3439人、家中人口は1,525人(内江戸詰めは50人)(典拠は『最上郡史』)。明治6年(1873年)の人口は8361人。

鶴岡

明和7年(1770年)の庄内藩家中1万0676人中、鶴ヶ岡城城下に9206人、酒田の亀ヶ崎城城下に892人、江戸に578人、それぞれ在住した。

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(典拠は『鶴岡市史』)

酒田
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(典拠は『酒田市史』、『鶴岡市史』)

本荘

慶長末(1615年頃)の本荘城下町は武家屋敷約850軒(陪臣50軒、士100軒、足軽小人700軒)、町屋敷約600軒、寺社約20軒、合計約1470軒。元禄6年(1693年)の本荘城下町は武家2363人(給人中小姓721人、歩行並322人、諸奉公人1320人)、町方4560人(出戸町3651人、古雪町909人)、寺水呑門前322人、合計7245人。享保2年(1717年)の本荘城下町は武家奉公人520戸、町家699戸、寺社32戸、合計1251戸(以上典拠は『本荘市史』)。明治6年(1873年)の人口は6423人。

横手

享保7年(1722年)の町方戸数は約4500戸[49]。明治6年(1873年)の人口は8169人。

久保田 (秋田)・湊 (土崎港)

嘉永3年(1850年)の武家人口は3万5621人。内訳は久保田諸給人(1万5662人)、在々給人(1万1784人)、職人足軽等(8175人)。また久保田・湊諸寺院は973人、久保田在々の僧侶・社人等は6369人。久保田分の穢多・乞食は325人。最盛期の城下町人口は久保田・湊を併せ4万人以上と推定される。明治4年(1871年)に久保田から秋田へ改名する。

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(典拠は『秋田沿革史大成』、『綜合郷土研究』、『土崎港町史』、『秋田県史』)

大館

宝永3年(1706年)の大館は武家442軒、町家409軒で、武家を含めた推定総人口は3700人。

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(典拠は『大館市史』)

能代

町方戸数は、元禄7年(1694年)に1032軒、宝永元年(1704年)に1093軒、享保15年(1730年)に1249軒、寛保3年(1743年)に1546軒。

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(典拠は『能代市史稿』)

北陸道

小浜
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(典拠は『福井県史』、『小浜市史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)

敦賀
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(典拠は『福井県史』、『敦賀市史』、『敦賀郡誌』)

府中 (武生)
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(典拠は『福井県史』、『武生市史』)

福井
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(典拠は『福井県史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)

丸岡

元禄8年頃(1695年頃)の町方人口は2579人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])。明治6年(1873年)の人口は4798人。

三国 (坂井)
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(典拠は『三国町史』)

大野
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(典拠は『福井県史』)

勝山
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(典拠は『勝山市史』)

大聖寺 (加賀)

天明6年(1786年)の町方家数は865軒(典拠は田中善男『大聖寺城下町と町人社会』)、文化元年(1804年)の町方人口は3611人(典拠は『加賀市史』)、明治5年(1872年)の総家数は2058軒(典拠は田中善男『大聖寺城下町と町人社会』)。明治6年(1873年)の戸数・人口は2418戸9416人。

小松 (加賀小松)
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(典拠は『小松市史』)

金沢

金沢藩は武家人口が城下町に集中しており、最盛期の総人口は11万~12万人と推定される。明治4年(1871年)の人口は士族2万6028人、卒2万6888人、平民6万8810人、元神官139人、寺院1032人、御預人466人を含む。

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(典拠は土屋敦夫(1979年)[50]、『金沢市史』)

宮腰 (金石)

寛文3年(1663年)の人口は乞食56人、藤内48人を含む。

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(典拠は『金石町誌』)

所口 (七尾)

所口の戸数・人口は、寛文6年(1666年)に1428軒7473人、安政3年(1856年)に1883軒(典拠は『七尾市史』)。明治6年(1873年)の人口は8216人。

輪島

輪島の戸数・人口は、享保21年(1736年)に614戸、天明2年(1782年)に795戸、安政4年(1857年)に1806戸6175人(典拠は『輪島町史』)。明治6年(1873年)の人口は7106人。

富山

延宝4年(1676年)の町方人口の内訳は、富山本町の7670人と田地方・船橋町の8540人。明治6年(1873年)の人口は新川郡富山(4万0538人)と婦負郡富山町(4144人)の合計。

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(典拠は『富山市史』、『富山県史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)

魚津
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(典拠は『魚津市史』)

高岡 (越中高岡)
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(典拠は『高岡史料』)

放生津 (新湊)

放生津の家数は元禄3年(1690年)に945軒、安永7年(1778年)に1310軒、文政元年(1818年)に1504軒、文政12年(1829年)に1616軒と増え続けた。江戸末期には近隣の町村まで町並みが広がり、明治2年(1869年)に新湊と改名する。

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(典拠は『新湊市史』)

氷見
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(典拠は『富山県史』)

村上

町方人口は神社仏閣と神官・僧侶の数を除く。

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(典拠は『新潟県史』、『村上市史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)

新潟

延宝8年(1680年)、元禄10年(1697年)に家数2500戸と伝えられている。江戸時代後期に北前貿易で発達し、開港五港の1つとして明治元年旧暦11月19日(1869年1月1日)に開港する。

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(典拠は『新潟市史』、『新潟県史』)

三条

町方人口は穢多・渡守を含む。

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(典拠は『三条市史』)

村松

元禄年中(1700年)の村松町は藩士340戸、町方208戸(寺社17軒)、合計548戸。宝暦7年(1757年)の村松町は藩士459戸、町方303戸(寺社17軒)、合計762戸。寛政年中(1795年頃)の村松町は藩士581戸、町方349戸(寺社17軒)、合計930戸(典拠は『村松町史』)。明治6年(1873年)の人口は7182人。

新発田

正徳2年(1712年)は町屋1287戸に対して家中1351戸であり、推定総人口は約1万3200人。文政元年(1818年)は町屋1347戸に対して家中1600戸であり、推定総人口は約1万5000人。

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(典拠は『新発田市史』、『新潟県史』)

出雲崎・尼瀬

寛永2年(1625年)の尼瀬町方は143軒、万治3年(1660年)の尼瀬町方は212軒、元禄10年(1697年)の出雲崎町方は388軒、元禄14年の尼瀬町方は288軒。町方人口は寺社人口を含む。明治6年(1873年)の人口は、尼瀬町・井ノ鼻村を合算。

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(典拠は『出雲崎町史』)

長岡

正徳2年(1712年)は町屋1287戸に対して家中1351戸であり、推定総人口は約1万3200人。文政元年(1818年)は町屋1347戸に対して家中1600戸であり、推定総人口は約1万5000人。

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(典拠は『長岡市史』)

柏崎

宝永2年(1705年)の町方人口は5758人(典拠は『新潟県史』)、明治6年(1873年)の人口は1万4081人。

直江津
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(典拠は『越後頸城郡誌稿』)

高田 (越後高田)
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(典拠は『高田市史』、『中頸城郡志』)

相川

『佐渡風土記』や『古実略記』などには相川の人口は、慶長18年(1613年)に約10万人、慶長・元和年間または寛永2年(1625年)に21万0572人、元和・寛永年間に約20万人、寛永6年(1629年)に20万0500人などと記載されているものの、これらは佐渡国全域の人口としても多過ぎ信用できない。米消費量や戸数の比較から、最盛期の寛永年間の相川の人口は約3万人と推定される。

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(典拠は『新潟県史』、長谷川利平次 『佐渡金銀山史の研究』)

山陰道

亀山 (亀岡)

天保14年(1843年)完成の『桑下漫録』によると亀山周辺の町村方戸数は1245軒推定6225人、内城下町分は推定4500人。城下の士族推定3000人(典拠は『亀岡市史』)。明治6年(1873年)の人口は7029人。

篠山

宝暦10年(1760年)の町方人口は2672人(典拠は『丹波多紀郡明細記』)。明治6年(1873年)の人口は5931人。

福知山

慶安2年(1649年)の町方人口は3157人(典拠は『福知山市史』)。明治6年(1873年)の人口は4893人。

田辺 (丹後田辺, 舞鶴)

天保9年(1838年)の町方人口は6510人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])、明治6年(1873年)の人口は9073人。

宮津

明治2年(1869年)の宮津の寺社人口は92人、家中は3,346人、穢多・非人は109人で、総人口は9715人。

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(典拠は『丹後宮津志』)

豊岡

天明8年(1789年)の豊岡町町方人口は3497人(典拠は『豊岡市史』)、明治6年(1873年)の人口は4926人。

出石
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(典拠は『出石町史』、近松鴻二(1999年)[49])

鳥取

武家人口を含めた推定総人口は約3万5000人。

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(典拠は『新修鳥取市史』)

米子
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(典拠は『新修鳥取市史』)

倉吉
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(典拠は『新修鳥取市史』)

松江

明和4年(1767年)の家中人口は、松江藩の武家人口1万6484人より江戸定詰1325人を除いたもの。

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(典拠は『松江市誌』、『節山史料』)

杵築(出雲杵築)・今市・平田 (出雲)

寛延年中(1750年頃)の杵築社中(出雲大社境内)の家数は175軒、杵築6ヶ村の家臼は1028軒、合計1203軒。同年の今市の家数は合計769軒(典拠は『出雲市史』)。明治6年(1873年)の杵築の人口は7674人、今市の人口は1703人、平田の人口は3125人。

大森銀山

17世紀初めの『銀山日記』によると、慶長の頃より寛永年中にかけて(17世紀初期)大森の人口は20万人、家数2万6000軒余とあるが、これらは石見国全域の人口としても多過ぎ信用できない。17世紀中頃には、鉱山柵内の「銀山町」と、代官所の置かれた陣屋町の「大森町」という2地区からなる鉱山町が形成される。寛政12年(1800年)の大森町の家数は385軒(武家69軒、社家4軒、寺院13軒、町屋299軒)。

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(典拠は山陰宗門改帳研究会 『宗門改帳からみる山陰の近世社会 その2』)

浜田

浜田八町町方戸数は享保20年(1735年)に622戸、寛保2年(1742年)に565戸、明和6年(1769年)に569戸、天保7年(1836年)に544戸、嘉永元年(1848年)に597戸(典拠は浜田市誌)。明治6年(1873年)の人口は3943人。

津和野

文化2年(1805年)の津和野藩家中人口5464人中、江戸在中は272人、廿日市在中は92人、大坂在中は22人。嘉永4年(1869年)の津和野藩家中人口5296人中、江戸在中は179人、廿日市在中は80人、大坂在中は25人。

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(典拠は亀井茲建(1932年)[51])

山陽道

明石
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(典拠は『兵庫県史』)

姫路
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(典拠は『姫陽秘鑑』、三浦俊明 『譜代藩城下町姫路の研究』)

龍野
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(典拠は『龍野市史』)

加里屋 (赤穂)
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(典拠は『赤穂市史』)

津山

享保10年(1725年)編纂の『作州記』によると、寛文年中(1665年頃)の武家人口は1万3321人。元禄の頃の推定人口は約3万人。

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(典拠は『岡山県史』)

岡山

宝永4年(1707年)の岡山町中乞食は346人、家中人口は1万0027人(町方・在方帳面記載分1万2170人、他国者431人を加えると2万2628人)、御城女中は70人、寺社方人口は7,932人であり、岡山の推定総人口は約4万5000人。

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(典拠は『岡山市史』、『岡山県史』、金井圓(1953年)[52]、谷口澄夫 『岡山藩政史の研究』)

倉敷

倉敷は天領の「村」として扱われた。

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(典拠は『倉敷市史』)

松山 (備中松山、高梁)

元禄7年(1694年)の町方1807軒5603人に対し、武家1974軒推定6048人。

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(典拠は『高梁市史』)

福山 (備後福山)

町方人口は寺社を含み、元禄10年、11年頃(1697年、1698年頃)の総人口は2万4786人。

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(典拠は『広島県史』)

鞆町
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(典拠は『広島県史』、『福山志料』)

尾道
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(典拠は『広島県史』)

三原
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(典拠は『三原市史』)

御手洗 (大長村)

大長村は、御手洗・大長・沖友の三地区からなる。明治6年(1873年)の人口は御手洗港のみ。

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(典拠は『広島県史』)

広島

正徳5年(1715年)の町組3958軒、新開組893軒、革組77軒に対して侍屋敷609軒、歩行以下拝領家354軒、小人多長屋等1万1690坪とあり、武家人口を含めた推定総人口は約6万8000人。幕末の推定総人口は約7万~8万人。

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(典拠は『芸備国郡志』、『新修広島市史』、『広島県史』)

宮島 (安芸宮島、厳島)
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(典拠は『広島県史』)

竹原下市
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(典拠は『広島県史』)

山口

複数の宣教師の記録により山口は室町時代から安土桃山時代にかけて5万~9万人前後の人口を有していたと推定されているが、江戸時代に入ると萩に城下町が移り、都市規模が大幅に縮小する。寛政4年(1791年)の山口町は町屋敷1685軒に対し侍屋敷数3軒、天保年中(1840年頃)の武家屋敷は185軒(諸士51軒、足軽以下88軒、陪臣46軒)で、推定総人口は6500人。文久3年(1863年)以降再び山口藩の藩庁が置かれる。

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(典拠は『山口県近世史研究要覧』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』)

三田尻 (防府)

三田尻・宮市両町の町方人口。寛政4年(1791年)の三田尻・宮市両町は町屋敷497軒に対し侍屋敷数313軒、天保年中(1840年頃)の武家屋敷は6軒(諸士2軒、陪臣4軒)。

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(典拠は『山口県近世史研究要覧』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』)

岩国

享保11年(1726年)の町方人口は、錦見町(2969人)、横山の川原町(136人)、川西町(461人)を合わせて3566人(典拠は『岩国市史』)。明治6年(1873年)の岩国の人口は1万1684人(錦見、横山、川原、および武家地区の岩国町の合計)。

元禄7年(1694年)の萩町屋敷3199軒1万3284人、浜崎町屋敷492軒802人に対し侍屋敷1324軒。享保2年(1717年)の萩町屋敷3090軒、浜崎町屋敷490軒合計1万6424人に対し侍屋敷1390軒。宝暦元年(1751年)の萩町方竈数3660軒に対し、18世紀半ばの屋敷方の把握する屋敷数は、諸士中抱居候936ヶ所、足軽以下抱居候269ヶ所、寺社屋敷112ヶ所、御用屋敷45ヶ所。寛政4年(1792年)の萩町屋敷2129軒1万1107人、浜崎町屋敷396軒923人に対し侍屋敷1251軒。明治6年(1873年)の『日本地誌提要』による人口4万5318人は椿郷東分村、椿郷西分村、山田村などの郊外を含んでいると考えられ、萩本町と浜崎から成る萩デルタ地帯の人口は3万0092人(『共武政表』)。

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(典拠は『山口県史』、『萩市誌』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』)

赤間関 (下関)

ケンペルの『日本誌』によると元禄4年(1691年)の戸口は400~500軒、長久保赤水の『長崎行役日記』によると明和4年(1767年)の戸口は数千軒。江戸時代の赤間関の人口は長府(後の豊浦)藩領の赤間関12町のみであり、萩(長州)藩領の今浦・新地、清末藩領の竹崎・伊崎を除く。また天保9年の人口は阿弥陀寺町分の人口を欠く。

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(典拠は『下關二千年史』、『下関市史』、『天保九年赤間関人別帳』)

南海道

和歌山

享保13年(1728年)の数字は、和歌山藩の総人口(33万6119人)が元禄12年(1699年)と同一であり、元禄13年(1700年)の誤記である可能性が高い。武家人口を含めた推定総人口は約7万~8万人。宝暦3年(1753年)の町湊家数は4940軒。弘化3年(1846年)の竈数は7910。

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(典拠は『南紀徳川史』、『和歌山県史』、『和歌山市史』)

田辺 (紀伊田辺)

江戸時代の田辺の人口統計は、特に記載がないものも全て8歳以上対象と推定される。延享3年(1746年)の城下町は756軒で、家中27軒、与力36軒、足軽60人、寺14ヵ寺を含む。

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(典拠は『田辺市史』、『和歌山県史』)

洲本

宝暦年中(1755年頃)の町方人口は4171人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])。明治6年(1873年)の人口は7267人。

徳島
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(典拠は『阿波藩民政資料』、『阿波誌』)

高松
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(典拠は『高松市史』)

丸亀

寛文末年の丸亀町の人口は5158人、三浦の人口は2027人。

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(典拠は『香川県史』、『新編丸亀市史』)

今治
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(典拠は『愛媛県史』、『新今治市誌』)

松山 (伊予松山)
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(典拠は『愛媛県史』)

宇和島

武家人口は4300~4900人、幕末には5400~6300人の範囲で推移し、武家を含めた人口は9000~1万2000人(幕末)。

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(典拠は安澤秀一(1980年)[53]。)

高知

家中は侍、郷士、諸奉公人を含む。

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(典拠は『高知藩財政史』、『高知市史』)

西海道

福岡・博多

福岡藩のもと、那珂川を挟んで城下町の福岡町と町人町の博多町が整備された。

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(典拠は『福岡県史』)

久留米

宝永3年(1706年)の武家人口は1万2250人、諸寺僧俗人口は268人であり、推定総人口は約2万人。

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(典拠は『久留米市史』)

柳川

柳川藩の武家人口は、宝暦2年(1752年)に1万1918人、文化14年(1817年)に1万5133人、元治元年(1864年)に1万5623人。

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(典拠は『福岡県史』)

小倉

宝永5年(1708年)の東西町人口は侍屋敷、組屋舗、寺社町家の人口を含むと思われる。弘化3年(1846年)の家中人口は3099人で、寺社を含む推定総人口は1万4000人。

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(典拠は『福岡県史』)

中津
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(典拠は『中津市史』)

杵築 (豊後杵築)

宝暦11年(1761年)の町方280軒1220人、寛政元年(1789年)の町方310軒1127人、天保9年(1838年)の町方480軒1688人に対し、家中屋敷数はどの時期も100余軒。

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(典拠は『大分県史』)

府内 (大分)

僧山伏社人と牢人を含む。武家人口は宝永元年(1704年)に1840人、正徳2年(1712年)に1998人(内、山里200人)

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(典拠は『大分県史』、『大分市史』)

臼杵
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(典拠は『臼杵市史』)

佐賀
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(典拠は城島正祥(1973年)[54])

島原
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(典拠は『島原の歴史』)

長崎

江戸時代を通じて出島で対オランダ貿易が行われた。幕末五港として開港する。なお元禄9年(1696年)の長崎町方人口を6万4523人とする引用が多いが、おそらく内町の人口(1万1597人)を誤って2度加算した結果であり、実際の人口は5万2926人(元文献は『長崎根元記』)と思われる。

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旅人の人数は文化14年(1817年)6月に1654人、天保12年(1841年)正月に921人。天明4年(1784年)7月24日の唐人屋敷全焼時に滞在していた唐人は892人。来航外国人延人数は以下の通りである。

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(典拠は『長崎県史』、若松正志(1992年)[55])

大村

文久2年(1862年)の大村城下の給人戸数は2569軒、町方戸数は671軒(典拠は『大村市史』)。明治6年(1873年)の人口は9284人。

唐津
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(典拠は『佐賀県史』)

平戸

寛政4年(1792年)の町方人口は2678人(典拠は近松鴻二(1999年)[49])。明治6年(1873年)の人口は1万0558人。

福江富江 (福江島)

文政4年(1821年)の福江掛分町方人口は647人。慶応4年(1868年)の富江掛分人口は7216人、内富江村は687人(以上典拠は『長崎県史』)。明治6年(1873年)の旧富江掛分人口は8669人、内富江港は4097人(『共武政表』)。明治6年(1873年)の旧福江掛分人口は1万7787人。

熊本

天保元年(1830年)の武家人口を含めた推定総人口は約6万人。

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(典拠は『熊本市誌』、『新熊本市史』、鎌田浩『熊本藩の法と政治』)

八代

文化元年(1804年)の城下町屋14箇町の町方戸数は1414軒(典拠は『八代市史』)、安政5年||(1858年)の町方人口は4819人(典拠は鎌田浩『熊本藩の法と政治』)、明治6年(1873年)の人口は9021人。

人吉

延享3年(1746年)の町方人口は3202人(典拠は『人吉市史』)、明治6年(1873年)の人口は3740人。

延岡
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(典拠は八木敏夫 『譜代藩の研究』)

都城

寛永13年(1636年)の都城郷の人口は1万5968人(荘内郷を含む)。明治4年(1871年)の都城郷は、士族5386人、卒族238人、平民7296人で合計1万2920人、荘内郷は、士族5307人、平民6367人で合計1万1674人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。明治6年(1873年)の都城駅の人口は7390人。

飫肥
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(典拠は近松鴻二(1999年)[49]、『宮崎県史』)

加治木

寛永13年(1636年)の加治木郷の人口は1万1038人。明治4年(1871年)の国分郷は、士族3686人、卒族375人、平民5325人で合計9386人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

国分 (大隅国分, 国府)

寛永13年(1636年)の国分郷の人口は9186人。明治4年(1871年)の国分郷は、士族4538人、卒族129人、旧神官28人、平民1万2441人で合計1万7144人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

鹿児島

以下の数字は武家人口を含む鹿児島(城下町及び近在)全域の人口であり、実際の城下町の人口は最盛期で諸士・家来人口と三町の町方人口を含む5万~6万人程度と推定される。明治4年の人口は士族2万6992人、卒族2571人、平民5万5872人を含む。明治6年(1873年)の鹿児島郡(鹿児島及び吉田郷)の人口は8万9374人(『共武政表』)。

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(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56]、『鹿児島県史』)

谷山

寛永13年(1636年)の谷山郷の人口は5417人。明治4年(1871年)の谷山郷は、士族3422人、卒族1301人、平民1万6364人で合計2万1087人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

揖宿 (指宿)

寛永13年(1636年)の揖宿郷の人口は6244人。明治4年(1871年)の揖宿郷は、士族1074人、平民1万0514人で合計1万1588人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

鹿籠 (枕崎, 東南方)

寛永13年(1636年)の泊郷の人口は668人、秋目郷の人口は1228人。明治4年(1871年)の南方郷の人口は士族4952人、平民7203人で合計1万2155人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。明治6年(1873年)の鹿籠の人口は2万4902人。

加世田

寛永13年(1636年)の加世田郷の人口は6787人。明治4年(1871年)の加世田郷は、士族5783人、卒族31人、平民2万5781人で合計3万1595人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

川内 (薩摩川内)

寛永13年(1636年)の隅之城郷の人口は2693人。明治4年(1871年)の隅之城郷は、士族2018人、卒族75人、平民4049人で合計6142人、水引郷は、士族4267人、卒族56人、平民6399人で合計8307人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。川内の人口は隅之城郷と水引郷を合わせて1万4449人。

宮之城

寛永13年(1636年)の宮之城郷の人口は4483人。明治4年(1871年)の宮之城郷は、士族545人、卒族1982人、平民5050人で合計8608人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

出水

寛永13年(1636年)の出水郷の人口は1万3981人。明治4年(1871年)の加世田郷は、士族5806人、卒族30人、平民1万2755人で合計1万8591人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

阿久根

寛永13年(1636年)の阿久根郷の人口は4401人。明治4年(1871年)の阿久根郷は、士族1268人、卒族54人、平民9496人で合計1万0910人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[56])。

勝本

享保6年(1722年)の町方人口は4828人(典拠は『壹岐郷土史』)。明治6年(1873年)の人口は4857人。

府中 (厳原)

以下の府中の人口は武家を含む総人口。

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(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』、『新対馬島誌』、『長崎県史』)

北海道

箱館 (函館)

天明6年(1786年)の箱館村は450弱戸2500余人。嘉永3年(1850年)の人口は諸士・徒士・足軽637人、町々8682人、寺・社家161人を含む。江戸時代後期には蝦夷地への本州からの移住の増加により人口が増え、幕末には五港の一つとして安政6年旧暦6月2日(1859年7月1日)に開港する。明治2年に箱館から函館に改名する。『日本地誌提要』による明治6年の函館の人口は2万8825人。

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(典拠は『函館市史』)

福山 (蝦夷福山、松前)

『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の人口は1万6092人。

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(典拠は『松前町史』、関根達人(2010年)[57])

江差 (江刺)

宝暦8年(1758年)の江差村は家数600軒余、問屋13~14軒。天明6年(1786年)の江差村は1000余戸3500人余、五勝手村は100余戸350人余。寛永3年(1850年)の江差村は1569戸(典拠は『北海道史』)。明治6年(1873年)の江差の人口は9158人。

琉球

首里・那覇・久米・泊

琉球国では王府の置かれた首里三平等、那覇四町、久米村、泊村に人口が集中し、諸士身分も集中して居住した。またこれらの地域に居住する百姓(平民)を「町百姓」と呼び、他地域に暮らす「田舎百姓」と区別した。

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(典拠は崎浜秀明 『沖縄旧法制史料集成』、『名護市史』)

主要街道の宿場町

以下『近世交通史料集』収録の諸大概帳による天保14年(1843年)の主要街道の宿場町人口をまとめる。

一般には江戸日本橋から京三条大橋までを海側で結ぶ街道を東海道と呼ぶが、幕府公式の『東海道宿村大概帳』では、江戸日本橋から大坂高麗橋までを結ぶ街道を東海道としてまとめている。この場合、大津宿と伏見宿を結ぶ大津街道、京から伏見宿経由で大坂までを結ぶ大坂街道が東海道に組み込まれる。統計は『東海道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

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江戸日本橋から京三条大橋までを山側で結ぶ街道で、草津宿から大津宿までは東海道と合流する。統計は『中山道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

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江戸日本橋から中山道下諏訪宿までを結ぶ街道。統計は『甲州道中宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。横山宿の人口は、八日市宿、八王子十三ヶ宿を含む。甲府宿の人口は、甲府城下町全体ではなく、柳町(905人)外九ヶ町(城屋町、和田平町、下一条町、上一条町、金ノ手町、工町、八日町、方羽町、西青沼町、3018人)の合計。

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江戸日本橋から日光坊中までを結ぶ街道。統計は『日光道中宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。徳次郎宿の人口は、下徳次郎宿、中徳次郎宿、上徳次郎宿、門前村、田中村、西根村の徳次郎六郷を含む。

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江戸日本橋から陸奥白河宿までを結ぶ街道。江戸日本橋から宇都宮宿までは、日光街道と共通である。統計は『奥州道中宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

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見付宿と御油宿を結ぶ東海道の脇往還姫街道と呼ぶ。一方浜松宿から北上し、気賀宿で姫街道と合流し、御油宿までを結ぶ東海道の脇往還を本坂街道と呼ぶ。統計は『本坂通宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

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東海道の七里の渡しの陸側の迂回路として、宮宿と桑名宿とを結ぶ脇往還。佐屋宿から桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていた。統計は『佐屋路宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

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東海道宮宿と中山道垂井宿とを結ぶ脇往還。統計は『美濃路宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。名古屋宿の人口は、名古屋城下町全体ではなく、伝馬町・宮町・駿河町・富沢町の四町のみ。

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西国街道とは京東寺から下関までを結ぶ街道だが、特に京から西宮宿を結ぶ区間を山崎通と呼ぶ。統計は『山崎通宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

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江戸日本橋から北1里の中山道本郷追分と日光街道幸手宿とを岩槻経由で結ぶ、日光街道の脇往還。岩槻街道とも呼ばれる。統計は『日光御成道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

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日光街道小山宿から北1里の喜沢追分と今市宿とを鹿沼経由で結ぶ、日光街道の脇往還。統計は『壬生通宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

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中山道倉賀野宿から日光坊中までを結ぶ脇往還。楡木宿で日光壬生街道と合流する。統計は『例幣使道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。

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水戸街道と佐倉街道は、それぞれ日光街道千住宿から水戸宿まで、千住宿から佐倉城までを結ぶ、日光街道の脇往還である。千住宿の隣の水戸街道新宿でさらに佐倉街道が分岐する。佐倉街道は成田街道とも呼ばれた。統計は『水戸佐倉道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもので、大概帳に詳細な記載が残っているのは分岐点の新宿と、新宿の隣の宿である八幡宿 (佐倉街道)と松戸宿 (水戸街道)のみである。

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明治初期

要約
視点

元正院地誌課の塚本明毅らによって編纂され、明治7年(1874年)12月に刊行された『日本地誌提要』には代表的な都市(名邑)について明治6年(1873年)1月1日調の人口が記載されている。一方陸軍参謀部編によって徴発物件の一覧として編纂され、明治8年(1875年)11月に刊行された『明治八年 共武政表』には、明治5年(1872年)から明治8年(1875年)までの調査結果が、連担接続した輻輳地の本籍人口とともに記載されている。

さらに見る 順位, 名邑 ...
さらに見る 順位, 邑里 ...

両者で都市人口が異なる場合が多々あるが、年度による違いも然りながら、まだ市制町村制の制定前で名邑、邑里(輻輳地)の範囲に確固たる規則がなく、統計上の町の範囲が調査によって異なるからである。また地租改正に反対していた薩摩藩においては戸籍調査も従来の郷村制で行われており、特に『日本地誌提要』では町の実態とはかけ離れた数字が記載されている。

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脚注

参考文献

外部リンク

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