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江戸時代の日本の人口統計
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江戸時代の日本の人口統計(えどじだいのにほんのじんこうとうけい)は、江戸時代の人口統計、人口調査および推定人口をまとめたものである。その結果は、初期には戦国時代後期から続く顕著な増加が見られ、それに比べ、中期・後期には増加はわずかだった。
→江戸時代より前の日本の人口統計 については「近代以前の日本の人口統計」を参照
→西南戦争以前の日本の都市人口調査と推定人口 については「近代以前の日本の都市人口統計」を参照
→江戸時代~明治初期の江戸の人口 については「江戸の人口」を参照
→江戸時代~明治初期の京、大坂の人口 については「三都」を参照
概要
要約
視点
豊臣秀吉は天正19年(1591年)または文禄元年(1592年)に人掃令を出し、朝鮮出兵のための動員数把握の目的で全国規模の人口調査を命じた。この時の戸口調査がどの程度まで実施されたかは不明であるが、徳島藩で実施された「棟付改」、細川家領(小倉藩・熊本藩)で実施された「人畜改」などは、秀吉の命を受けて実施された戸口調査が続いたものと考えられている。
江戸時代に入ると宗門人別改帳制度が成立し、各地域毎の人口がより正確に把握されるようになった。しかしキリシタン取り締まりの為に寺社毎に戸口をまとめた物で、全国人口調査と呼べるものではなかった。
全国人口調査は徳川吉宗によって享保6年(1721年)に開始され、享保11年(1726年)以降、6年毎(子午年)に改籍された。この調査によりある程度、日本の人口の概要が分かるようになった。しかし問題点も多い。まず第一に除外された者が多い。この調査は基本的に人別改によって把握された登録人口を反映しており、調査対象は御領(幕府直轄地である天領)、私領(大名・旗本領)、寺社領、諸都市の有籍者のみであり、無籍者は対象外であるほか、武士、武家奉公人・従者(武家方奉公人並又者)や公家・皇族の人口は初めより集計の対象外であった。第二に調査方法が不統一だった。幕府直轄領以外の私領の調査方法は各藩に任されたため、乳幼児人口や被差別階級、神社仏閣関連人口の扱いが各藩で異なっていた。例えば和歌山藩 (紀州藩)では数え8歳未満、金沢藩 (加賀藩)では数え15歳未満は含めていなかった。その結果、除外人口の問題が複雑化した。第三に意図的な過少申告・過大申告をする藩が多かった。これは藩の人口調査結果にみられる人為的操作、明治時代の戸籍人口との比較から判明している。これにより、調査結果は実際より約400万から500万人ほど少なくなっていたと推定されている。
速水融によると、少なくとも金沢藩 (加賀藩)、和歌山藩 (紀州藩)、徳島藩 (阿波藩)、広島藩 (芸州藩)、福岡藩 (筑前藩)、対馬府中藩/厳原藩 (対馬藩)、鹿児島藩 (薩摩藩)の領地は明らかに人口調査、もしくはその結果の幕府への報告が、実際の人口より過小であり、こういった過小評価が、奥羽、北陸、山陽、四国、九州に多く見られる。
現代の学者の推定では、江戸時代中期・後期を通じて、日本の人口は約3000万人前後であった。
なお以降本項では、断りの無い限り年齢は満年齢ではなく数え年である。元号と西暦の対応に関しても、月日を記さない限り旧暦と新暦の違いを考慮しないこととする。「藩」という呼称が大名の知行地、領知、領国を指すものとして使われるようになったのは明治維新前後からであるが、便宜上江戸時代を通じて「藩」という呼称を用いる。また、本項では武家方奉公人並又者などの人口を除外した、幕府に報告するべき域内人口を「領民人口」と呼ぶこととするが、域内総人口を「領民人口」とする場合もあり、定義の定まった学術用語ではない。
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江戸時代前期の推定人口変遷
要約
視点
大田南畝著『竹橋余筆別集』巻八「拾領ヘ相尋候 年久数人別書」によると、徳川吉宗は80年間所替のなかった10万石以上の外様大名に対して過去の領民人口を報告するように求め、江戸時代前期に関して以下の調査結果を得た。9藩中8藩で人口増加がみられ、全国人口調査の実施された江戸中期以降に比べ、江戸時代前期はかなりの人口増加があった。
なお岡山藩の貞享3年(1686年)の領民人口は、備中国分・備前国之内二郡・城下町分の人別帳が焼失または腐損したため、備前国六郡分のみの人口が報告されている。また岡山藩の宝永3年(1706年)の領民人口は、城下町の人別帳が焼失したため、備中・備前の在方のみの人口が報告されている。よって比較のために他の年度に関しても備前国六郡分のみの人口、城下町分を除く在方分の人口が併せて記述されており、本表ではそれぞれ斜体、括弧内の数字で示す。同様に津藩の寛文5年(1665年)と元禄7年(1694年)分の領民人口は、人別帳の紛失により伊勢国内寺領二ヶ村分の人口が計上されておらず、比較のために他の年度に関しても伊勢国内寺領二ヶ村分を除いた領民人口が併せて記述されており、本表では括弧内の数字で示す。同様に二本松藩の貞享2年(1685年)の領民人口は、人別帳の虫食腐損により七ヶ村の人口が計上されておらず、比較のために他の年度に関しても七ヶ村を除いた領民人口が併せて記述されており、本表では括弧内の数字で示す。
ただし統計に限りがあり、江戸時代前期の推定人口の変遷について諸説ある。
吉田東伍(1910年)は1人1石という仮定に基づいて1598年の慶長石高から1600年の推定人口を1850万人と見積もり[1]、長らくこの説が受け入れられていた。
これに対し速水融(1966年)は元和2年(1622年)の小倉藩の人畜改帳を元に1石0.28~0.44人と石/人比を訂正し、1600年の推定人口を622万~980万人と推定した[2]。後に速水融(1973年)は太閤検地石高による推定人口を破棄し、江戸時代中期以降の幕府掌握人口から逆算して1600年の推定人口を求めた。即ち諏訪郡の人別改帳の研究などから150年で人口が3倍になる成長パターンを導き、1600年の推定人口を1230万人へ改訂した[3]。
鬼頭宏(社会工学研究所編 1974年)の1600年から1750年までの推定人口は、速水融の学説をまとめたもので、江戸時代前半の人口成長パターンが150年間で3倍になるロジスティック関数によると仮定し(50年後に1.41倍、100年後に2.67倍、150年後に3倍)、寛延3年(1750年)の推定人口(江戸幕府調査人口に20%上乗せしたもの)から遡って計算している。その際全国を先進国(山城、大和、摂津、河内、和泉)、中進国(尾張、美濃、伊賀、伊勢、近江、丹波、播磨)、後進国(その他)に分類し、人口成長の開始期をそれぞれ1500年、1550年、1600年と仮定する[4]。詳しくは#地域別推定人口の変遷を参照[5]。ジャン=ノエル・ビラベン (Jean-Noël Biraben)(1993年、2005年)の推定人口は、速水融(1987年)[6]とフランシーヌ・エライユ (Francine Hérail)(1990年)[7]に依拠し、澤田吾一、社会工学研究所、速水融らの研究を踏襲している[8]。
但し最近になって鬼頭宏(2000年)は速水融推計を過小とし、17世紀の人口増加率を0.58~0.65%/年に下方修正して1600年の推定人口を1432万~1547万人と上方修正している[5]。
一方斎藤修(2000年)は1600~1721年の人口増加率をせいぜい0.51%と仮定して、1600年の推定人口を1700万人と算出している。ウィリアム・ウェイン・ファリス (William Wayne Farris)(2006年)の1600年の推定人口(1500万~1700万人)は、鬼頭宏(2000年)と斎藤修(2000年)の研究の折衷である[9]。
また、藤野正三郎(2008年)は17世紀前半の大藩の人口増加率 (0.4%) から1600年の推定人口を1940万人、1650年の人口を2365万人、1700年の人口を2888万人と算出した[10]。
以下に主な研究者による江戸時代前期の日本の推定人口変遷をまとめる。なおコリン・マッケヴェディ (Colin McEvedy) とリチャード・ジョーンズ (Richard Jones) の推定人口はアイリーン・トイバー (Irene B. Taeuber)(1958年)[11]に依拠するが、実質的には横山由清(1879年)による推定人口[12]を補間して人口を推定しており、鎌倉時代の推定人口(975万人)からの持続的な人口増加を仮定している[13]。
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幕府人口調査と推定人口
要約
視点
全国人口調査と推定人口
全国の人口調査は享保の改革の一環として、享保6年(1721年)に始まった。享保6年旧暦6月21日付の布達には、「諸国領知之村々、田畑之町歩、郡切に書記、並百姓町人社人男女僧尼等其外之者に至る迄、人数都合領分限に書付、可被差出候。奉公人又者は不及書出候。惣而拝領高之外新田高は不及記、町歩計可被書出候。但無高に而反別計之新田も可為同前候云々。」とあり、田畑の面積調査と人口調査が同時に行われた[14]。しかしながらこの布達により再検地への疑念などの混乱が生じため、続く旧暦6月29日の布達で、田畑の面積調査に関しては結局公認町歩を書きあげれば良いとし(この時の調査結果に関しては石高#享保6年田畑数参照)、人口調査に関しては過去の詳しい調査で代用して良いこと、武家方である「奉公人並又者」は人口調査の対象外とし、何歳以上の調査であるかを記載すること(逆に言えば、乳幼児・未成年人口の除外は御領(幕府直轄領)の代官、私領の大名・旗本の裁量に委ねられた)などが定められた。調査結果の報告猶予は8月までと短期間であったが、地方への交通手段や伝達方法も限られていたため、度重なる遅延があったようである。
2回目の人口調査が実施された享保11年(1726年)では田畑面積調査は行われず、人口調査のみが6年毎に実施されるようになった。以降人口調査は6年毎の子午年に実施されたが、最初の享保6年(1721年)の人口調査は子午年に相当しない臨時のもの(辛丑)であるため、これを正式な第1回の諸国人数調査とみなさない識者もいる。
調査の結果は「諸国人数帳」としてまとめられた。例えば国立公文書館所蔵『雑載』巻二十五「諸国人数帳 諸国郡名」に収録の「寛政十午年 諸国人数帳」では以下のように寛政10年(1798年)の人口が旧国別、男女別に集計されている。
「 | 寛政十午年 [午改]諸国人数帳 |
」 |
このような形式の諸国人数帳の写本は幾つか残っているが、前文として箇条書きでかかれている内容はほぼ毎回同じである。すなわち6年毎の人口調査に関し、実際の調査月日は春から11月(天明以降は12月)までとしか定められておらず、各代官・領主に任されている。未成年人口に関しては、15歳以下についてはそれぞれの調査地域での慣例に従って集計することになっており、「武家方奉公人並又者」が除外人口とされている。また、元禄郷帳の石高(天保11年以降は天保郷帳の石高)が併せて記載された。幕府での実際の集計作業は調査年の翌年にずれ込むことも多かったらしく、諸国人数帳に記載の年月が翌年となっている場合もある。
諸国人数帳は総ての年度で残っているわけではないが、諸国人数帳から抽出された人口データが転載されることで、必ずしも完全ではないにせよ一部の数字が残るケースがある。以下幕府の史料や雑記に記録として残っている幕府調査による総人口と男女別人口をまとめる[15]。実際の人口はこれらの幕府調査人口(領民人口)よりも多いはずだが、除外人口と脱漏人口を補正するために、幕府調査人口に対して17%(ビラベン, 1993年)[8]または20%(鬼頭, 1996年)[5]上乗して推計された総人口を参考までに列挙する。また『三暇謾録』には享保6年(1721年)から天保5年(1834年)まで、6年毎に調査された武蔵国の人口の記載があり[注 1]、弘化3年(1846年)までの武蔵国の領民人口の変遷を完全に再現できるため、参考までに本表に掲載する。第4回の元文3年(1738年)、第16回の文化7年(1810年)、第17回の文化13年(1816年)の人口調査に関しては、総人口の記録は残っていない。
なおこれらの人口は何れも琉球国の人口を含まない。また、『吹塵録』を編纂した勝海舟によると、第23回の諸国人数調査に当たる嘉永5年(1852年)の調査結果については、翌年の黒船来航や徳川家慶崩御の混乱により最終的な集計が行われなかったという。但し藩によっては嘉永5年、安政5年(1858年)、元治元年(1864年)の領民人口調査結果も残っている。
旧国別調査人口の変遷
以下記録として残っている旧国別人口を、明治5年(1872年)、明治6年(1873年)の本籍人口とともにまとめる[16]。旧国名は明治時代の五畿八道の順に従い並べてあるが、各年次をクリックすることにより、人口順に並べ替えることができる。明治5年、明治6年の戸籍人口に関しては、明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)と明治2年8月15日(西暦1869年9月20日)に陸奥国・出羽国と蝦夷地・松前藩より分割・成立した旧国別人口を載せるほか、旧陸奥国、出羽国、蝦夷地の総人口を参考として斜体で示す。表の作成に当たっては『国勢調査以前日本人口統計集成』収録の速水融監修「江戸時代全国国別人口表-幕府調査-」をベースとしたが、享保6年(1721年)に関しては須田昭義の論文により上総の人口と総人口を修正し[注 1]、寛延3年(1750年)に関しては『官中秘策』の諸写本により駿河・甲斐・美濃・但馬・備中・紀伊・阿波の人口を改訂し[注 2]、宝暦6年(1756年)に関しては井上瑞枝の論文や『国史』の諸写本により下野・隠岐・美作・豊後・対馬・蝦夷の人口を改訂し[注 3]、天明6年(1786年)に関しては男女別人口の合計を旧国別人口として用いることで下野の人口を改訂し[注 4]、寛政10年(1798年)に関しては国立公文書館所蔵『雑載』収録の「寛政十午年 諸国人数帳」により近江・陸奥・越中の人口を修正し[注 5]、文化元年(1804年)に関しては男女別人口の合計を旧国別人口として用いることで山城の人口を改訂し[注 6]、文政6年(1822年)に関しては男女別人口の合計を旧国別人口として用いることで摂津の人口を改訂し[注 7]、文政11年(1828年)に関しては高橋梵仙が『日本人口史之研究』でまとめたものを用い[注 8]、天保5年(1834年)に関しては国立国会図書館所蔵『諸国人数』により備後の人口を修正し[注 9]、弘化3年(1846年)に関しては男女人口の合計を旧国別人口として用いることで摂津、陸奥、出雲、石見の人口を改訂した[注 11]。このほか参考として明治14年(1881年)の旧国別面積[17]と天保5年(1834年)の『天保郷帳』記載の旧国別の郡数、村数と石高を掲載する[18]。明治6年(1873年)の旧国別身分人口に関しては壬申戸籍を参照。
地域別推定人口の変遷
鬼頭宏による江戸時代の国別推定人口を地域別にまとめると以下の通りである。1700年以前の推定人口は1750年の幕府調査人口から逆算したもので、1721年以降の推定人口は幕府の調査人口を一律2割増ししたものである[4][5]。
日本全体で見ると、江戸時代前期の急速な人口増加に比べ、幕府による調査人口が残っている1721年から1846年までは人口はほぼ横ばいといっていい状況だが、 享保(1730年代)、天明(1780年代)、天保(1830年代)の三大飢饉の時期には人口が減少し、平常年には多くの地域で人口が増大している。一方地域別で見ると、東奥羽と北関東は減少、北陸・東山・東海は増大、近畿は減少、中国・四国・九州は増大という傾向が見られる。
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幕末の推定人口変遷
要約
視点
幕府の調査人口は、個々の地域においては大きな人口変動が認められるが、日本全土の総領民人口に関しては、125年間にわたって余り大きな変化が認められない。これに対し明治時代に入ると急激な人口増加が起こっている。しかしながら弘化3年(1846年)の幕末最後の全国人口調査から壬申戸籍が成立する明治5年(1872年)までは、全国人口に関する統計が存在しない空白の四半世紀であるため、人口増加の転換点は不明である。
森田優三(1944年)は、明治時代の年齢別人口統計に生命表の生存率を適用し、弘化3年(1846年)以前の人口を3000万人と仮定することで、過去の出生率を推定し、明治期の人口成長は文政期(1818~1830年)頃に始動した可能性があると指摘した[20]。
一方弘化3年(1846年)の幕府調査人口と明治以降の戸籍人口を比較すると、江戸時代はむしろ人口減少地域であった両毛地域が明治初期には最大の人口増加地域へと変貌している。浜野潔らは、安政6年(1861年)の横浜港の開港が養蚕業の盛んな東北南部~北関東~東山地域に急速な経済の発展と人口増加をもたらし、日本全体の人口増加への転換となったと推定している。
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辺境地域の人口変遷
要約
視点
蝦夷地・松前藩(福山藩/館藩)・アイヌの人口変遷
松前藩(蝦夷福山藩)はアイヌとの交易収入を独占するため(場所請負制)、和人地と蝦夷地を設置して往来を取締しまったが、19世初頭まで蝦夷地は人口調査の対象外であった。宝暦10年(1760年)の幕府巡検使への報告において和人地の人口は和人2万1647人を数えたほか、東在47人、西在50人、合計97人のアイヌが和人地に暮らしていた。また、福山城下の人口は安永6年(1777年)において、諸士1526人、寺社方170人、町方4308人であった。
通商を求め来航する外国船が後を絶たずロシアの南下を警戒した幕府は、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)に西蝦夷地を天領とし、アイヌに対しても人別帳の作成を行った[注 15]。文献ごとに数字が異なり、千島アイヌが北海道アイヌとまとめられているなど大まかな集計ではあるが、千島・樺太交換条約(1875年)により北海道へ移住する前の樺太アイヌの人口を記録しているなど貴重な資料となっている。
蝦夷地が天領になってからは和人の人口は増加し始めるが、一方でアイヌの人口は減少の傾向を見せる。これは和人との接触により天然痘、梅毒などの感染症が広がったことによる。文化4年(1821年)には蝦夷地の大藩が松前藩へ返却されたが、ペリー来航後の安政2年(1855年)には再び蝦夷地は天領となり、松前藩には陸奥国伊達郡と出羽国村山郡内の飛び地が与えられた。松前藩は慶応4年(1868年)に居城を福山城から館城に移した。明治3年(1870年)旧暦5月調の館藩の族籍別人口は以下の通りである。
(典拠は葭田光三(1989年)[21]、白山友正 (1971年)[22]、関根達人(2010年)[23]、『新北海道史』)
鹿児島藩(薩摩藩)、奄美群島、琉球の人口変遷
琉球[注 14]は清の冊封国の建前上、江戸時代の全国人口調査の統計から除外されたが、その一方で鹿児島藩 (薩摩藩)によって琉球の宗門手札改が実施されていた。また、道之島(奄美群島)も明治に入って薩摩国(後に大隅国)に編入されるまで全国人口調査から除外されていたが、慶長18年(1613年)の琉球からの割譲以降鹿児島藩の直轄支配下にあった。これらの地域の人口は本土の人口と共に鹿児島藩の藩政史料として伝わっている。
以下鹿児島藩の総人口とともに奄美群島、「本琉球」[24]の人口をまとめる。幕府がまとめた旧国別人口(#旧国別調査人口の変遷記載の薩摩国、大隅国の人口)と幕府へ報告された領民人口(#江戸時代前期の推定人口変遷に示す『竹橋余筆別集』記載の元禄11年(1698年)と享保17年(1732年)の松平大隅守領人口)などは、鹿児島藩が幕府に報告した領民人口そのものであるが、本表では日向国諸県郡分の人口が判明している享保5年(1721年)分の領民人口のみを採用する。この一例を除き、他の統計はすべて武士、武家奉公人、従者などの除外人口を含む。なお鹿児島藩の人口調査は遺漏が多く、天保年間~幕末の遺漏人口は20万人以上とも推測されている。特に琉球は人頭税逃れのため遺漏が多く、沖縄県発足直後に調査人口がほぼ倍増している。
諸士、郷士、私領士、及び下人・足軽等を含めた鹿児島藩の武家人口は、明治維新の頃には34万人に達している。
(典拠は尾口義男(1998年, 2000年)[27]、『鹿児島県史』)
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主な藩の人口調査
要約
視点
江戸時代中期以降の諸藩の領民人口調査は様々な形で残っているが、調査様式が各藩に任されたため内容・質に差がある。以下武家人口を含めた詳しい人員調査が残っている例として、金沢藩(加賀藩)、仙台藩、熊本藩(肥後藩)、萩藩/山口藩(長州藩)、佐賀藩(肥前藩)、岡山藩(備前藩)、若松藩(会津藩)、高知藩 (土佐藩)、久保田藩/秋田藩、盛岡藩(南部藩)、米沢藩、宇和島藩、弘前藩(津軽藩)、津和野藩を取り上げる。なお廃藩置県直前の明治初期の藩の人口に関しては、府藩県三治制下の日本の人口統計を参照。また、鹿児島藩(薩摩藩)に関しては、上述の#琉球、奄美群島、鹿児島藩(薩摩藩)の人口変遷を参照。
金沢藩(加賀藩)
享保6年(1721年)に金沢藩領内(支藩の大聖寺藩・富山藩領を除く)の15歳以上の人口を調べた「今津甚四郎書出候人数一巻」によると、金沢藩の15歳以上人口は左下のような身分構成となっている。これに対し幕府へ提出した15歳以上領民人口の構成は右下の通りで、多数の15歳未満人口のほか、御家中6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)、寺社方1万9785人のみならず、百姓・町人人口の内、寺社門前地の百姓・町人、藤内など合計6万6234人も除外人口となっていた実態がうかがえる。
15歳以上の百姓・町民人口の変遷は以下の通りである。金沢城下町の町方人口については金沢市参照。
15歳未満の人口も含む明治3年旧暦閏10月10日(西暦1870年12月02日)の金沢藩の族籍別人口は以下の通りで、金沢藩は明治維新の頃に人口が100万人を超えていた唯一の藩である。
(典拠は『加賀藩史料』、土屋喬雄『封建社会崩壊過程の研究』弘文堂(1927年)、『石川県史』)
仙台藩
以下に支藩の一関藩を含む仙台藩の身分別人口の変遷を示す。仙台藩は中世の地方知行制が幕末まで存続し、万石以上の家臣も5家存在した。その結果「一門・諸士・諸組・諸職人」と称される武家には相当数の陪臣が含まれる。なお享保2年(1717年)の陸奥領と一関藩領の郡方人口は、武家等除外人口を含めたものを掲載している。
城下町仙台以外の地方の町方、寺社方や穢多の人口は郡方人口に含まれる。なお仙台藩陸奥領内郡方人口に関しては、『伊達家勘定方』、『御分領惣人高調』などに寛保2年(1742年)より天保3年(1832年)までほぼ毎年分記載されている。以下一関藩を含め、記録に残っている郡方人口の変遷をまとめる。天明の大飢饉により大幅な人口減少が起こっている。
以下に一関藩を含めた仙台藩の構成別人口の変遷を示すが、宗門改帳の研究により天保の大飢饉の際の大幅な人口減も示されている[28]。

戊辰戦争による処分により仙台藩は内高28万石に減封となる。幕末の仙台藩士分(藩主家族、一関藩を除く)は直参家中9854家(一門11家、上士78家、中士(大番士)3314家、下士(諸組士)987家、卒族5464家)、陪隷2万4296家(一門陪臣9028家、上士陪臣8793家、中士陪臣6475家)、合計3万4150家という構成になっていたが[29]、明治2年(1869年)5月の段階で士分3万3128家17万2239人(家中9651家5万6468人、陪隷2万3477家11万5771人)の内、家中1993家9965人と陪隷全員が帰農となった。明治3(1870)年の族籍別人口は以下の通りである。
熊本藩(肥後藩)
文政11年(1828年)と明治2年(1869年)の熊本藩の身分別・族籍別人口は以下のとおりである。
また、領民人口の変遷は以下の通りである。文政11年の身分別人口と比較すると、総人口64万8277人中百姓55万8257人と五ヶ町(熊本、八代、川尻、高瀬、高橋)町方3万2491人の合計59万0748人が幕府へ報告される領民人口として扱われ、武家、寺社方合計5万7529人が計外人口として扱われていたことが分かる。
(典拠は『熊本県史』、『肥後読史総覧』、鎌田浩『熊本藩の法と政治』創文社(1998年)、『新熊本市史』)
萩藩/山口藩(長州藩)
元禄7年(1694年)の萩藩の身分別人口と、防長領国を構成する各藩(萩藩と、その支藩である長府藩、清末藩、徳山藩、岩国藩)の町在共人口を以下にまとめる。
さらに約100年後の寛政4年(1797年)の萩藩の身分別人口と、防長領国を構成する各藩の家中人口を以下にまとめる。
明治2年(1869年)の族籍別人口は以下の通りで、萩藩陪臣2万5487人[32]はこの段階では士族か卒族か決まってなかった。しかしながら明治5年(1872年)の壬申戸籍では山口県全体で士族の人口は7万1776人となっており、最終的に足軽・中間・陪臣を含め、ほぼ全ての旧武家階級が士族になっている。
また、防長二ヶ国の領民人口の変遷を以下にまとめる。享保6年(1721年)以降、6年毎に幕府へ支藩を含めた領民人口を報告することが義務付けられ(享保6年分として萩藩より報告されているものは実際は享保5年(1720年)の人口)、萩藩には幕府が人口集計を中断した嘉永5年(1852年)以降の分の集計も残っている。萩藩の場合、武家・武家奉公人等家中、寺社方・寺社方支配場、萩町町方、乞食・非人、領内に籍を置かない旅人の人口は除外したが、浜崎・山口・三田尻の町方、農民(地方)・漁民(浦方)の本百姓・門男(水呑百姓)、穢多・宮番・茶筅の人口は領民人口に含めていた。また、人口の減少の責を免れるため、藩主の了解のもと幕府報告の際に度々人口を改竄していたことが『公儀事諸控』の記録より判明している。例えば延享3年(1750年)には6000人の人口水増しを行っている。その6年後の宝暦6年(1756年)の領民人口も、各藩の合計48万2278人と幕府報告人口52万4646人が一致しない。
(典拠は石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』山五青写真工業(2005年))
佐賀藩(肥前藩)
佐賀藩では本藩と小城藩、蓮池藩、鹿島藩の各支藩を含めた領地について、武家人口を含めた領内総人口の統計を残している。天明6年(1786年)、安政元年(1854年)、元治元年(1864年)については幕府へ届け出た領民人口が分かっており、計外人口は、天明6年に約14万2500人、安政元年に19万5606人、元治元年に18万3683人と求まる。また、享保17年(1732年)の享保の大飢饉を挟む享保16年(1731年)と享保19年(1734年)の間に6万人前後の人口減少が起こっている。記録によると、享保18年(1730年)3月までに多久領で3866人、鹿島藩領で1359人の餓死者が出たとされる。
初期の佐賀藩では出入国を禁じる政策を取っていたが、炭鉱の開発が進んだ天保年中より他国からの人口流入が引き起こり、安政元年(1854年)の頃には領内本籍者40万2769人に対し、他国者が3万8163人に増えていた。急激な人口増加傾向は幕末から明治維新まで続いている。
(典拠は城島正祥(1973年)[33])
岡山藩(備前藩)
宝永4年(1707年)旧暦6月15日の支藩(生坂藩、鴨方藩)を含めた岡山藩の身分別人口は以下の通りである。なお岡山藩の人別は年齢2歳以上で集計されており、当歳新生児は除外されている。
岡山藩では以上のような本籍地による宗門改帳からの人口集計とは別に、現住地による人別帳からの人口集計も実施していた。
使用人を含めた武家人口は、家中人口1万0027人に町方・在方帳面者、他国者を加えた2万2628人である。
武家屋敷と寺社地を除く岡山城下の人口は、城下に居住しない町方帳面者を含めて3万0635人であり(両山乞食346人を除く)、城下町を除く備前・備中国内領地の郡村の人口は、武家や町中に居住している在方帳面者を含めて33万5462人である。寺社方を含めた在町人口の総計は、37万5724人で、以下その内訳をまとめる。
以上、岡山藩の武家人口が判明しているのは宝暦4年(1707年)分のみである。以下に岡山藩の領民人口の変遷をまとめる。備前八郡とは御野郡、上道郡、邑久郡、和気郡、磐梨郡、赤坂郡、津高郡、児島郡、備中五郡とは浅口郡の内、窪屋郡の内、下道郡の内、都宇郡の内、賀陽郡の内である。
若松藩(会津藩)
以下に若松藩の身分別人口の変遷をまとめる。若松藩は奥越両地域(陸奥国会津郡、耶麻郡、大沼郡、河沼郡、安積郡、越後国蒲原郡など)に領地を有するほか、越後、陸奥(南山御蔵蔵入地)に預地を有していた。この内越後御預地については、享保9年(1724年)以降越後国魚沼郡、蒲原郡の内7万石を預かっていたが、文化8年(1811年)に幕府直領となり、その後小千谷を中心とする1万石を再び越後国御預地として受領することとなる。一方南山御蔵入地は陸奥国大沼郡、会津郡、岩瀬郡及び下野国塩谷郡に広がっていた。なお文化2年(1805年)の諸士・諸奉公人・諸士家来人口は『会津家世実記』記載の概数である。
また、若松藩の郷村人口の変遷が『会津家世実記』に長年に渡って断続的に記載されている。これらの人口は若松藩直領地の郷村の人口のみを含み、郷中の計外人口(寺社方・賤民)や家中人口、若松城下町町方人口、諸預地(南山御蔵入領・越後御預地)の人口は含まれない。
会津藩士は蛤御門で27人、戊辰戦争で2977人(農兵や非戦闘要員を含む)、合計3004人が戦死・殉難している。戊辰戦争による処分により、旧南山御蔵入領を含む若松藩領には若松県が設置され、越後御預地は隣接する各県に分割された。明治3年(1870年)の若松県の人口は19万9211人(神職2942人、僧尼1160人、平民19万4260人、穢多788人、非人61人)。一方明治3年(1870年)5月の若松県からの上申書によると、旧若松藩藩士約2万人の内、新たに陸奥国北郡、三戸郡、二戸郡に設置された斗南藩へ移住した者は約1万4800人、若松県内で帰農した者は約2000人、東京に上京した者約1200人、態度保留約2000人とされている。一方青森県側の資料によると、4332戸1万7327人が斗南へ移住したとされる。移住先の明治3年(1870年)の斗南藩の人口は7万5467人である。
(典拠は『会津藩家世実紀』、『会津鑑』、『若松市史』、『会津若松市史』、『野辺地町史』、佐瀬剛『戊辰殉難名簿』戊辰殉難者七十年祭典 (1937年)、松枝茂『会津藩の人口政策』山一書房 (1943年)、川口洋 (1998年)[35])
高知藩 (土佐藩)
高知藩の総人口は『土佐史料』の「楠目氏覚書」を始めとして、天和元年(1681年)から寛政10年(1798年)までの連続118年分等が伝わっている。高知藩は明暦2年(1656年)から元禄2年(1689年)まで分藩していた中村藩の幡多郡を再併合することにより、以降幕末まで土佐一国全土のみを領有する藩となる。よって今日の高知県県境内の本籍人口が元禄2年(1689年)まで遡ることができる。
17世紀の延宝年間の人口に関しては、15歳以上の成人男子の身分別人口が残っている。
また、19世紀幕末の高知藩の身分別人口は以下の通りである。領民人口との比較から、幕末に幕府へ報告した人口には郷中、浦中、町中人口が含まれ、武家や僧侶の人口が含まれないことがうかがえる。
なお享保11年(1726年)に幕府へ報告した領民人口(37万2522人)では、御侍中・諸奉公人・又者が除外され、百姓、町人、社人、僧尼等その他の者が含まれるとしている。僧侶を領民人口に含むかどうかは時期によって異なるが、その人数は1000人未満であり、総人口と領民人口との差である計外人口は凡そ武家人口に相当するといえる。明治3年(1870年)における高知藩の華士卒族人口は総人口51万6545人中4万9422人(華族8人、士族3万0506人、卒族1万8908人)である。
(典拠は建山生 (1919年)[36]、武市佐一郎 (1930年)[37]、高橋梵仙 『日本人口史之研究』三友社刊 (1941年)、平尾道雄 『高知藩財政史』 (1953年))
久保田藩/秋田藩
『新編北羽発達史』収録の「嘉永二年調家中並領内百姓男女人数」記載の久保田藩の嘉永2年(1849年)の身分別人口は、年間出生数(当生)を記録する例としてしばしば取り上げられる。なお武家人口を除き、出羽の秋田六郡(雄勝郡、平鹿郡、仙北郡、河辺郡、秋田郡、山本郡)のみが集計対象となっており、下野国二郡(河内郡、都賀郡)の領民人口が集計より漏れている。なお『秋田沿革史大成』収録の「嘉永三年戌五月六郡人員調」記載の嘉永2年の久保田藩の人口は36万1928人であり、「嘉永二年調家中並領内百姓男女人数」記載の人口37万2154人に比べて1万0226人ほど人口が少ないが、その差は主に町人人口の取り扱いにある。「嘉永三年戌五月六郡人員調」では秋田郡久保田(2130軒)と土崎湊(519軒)のみが調査対象であるのに対し、「嘉永二年調家中並領内百姓男女人数」では秋田郡大館(407軒)、十二所(79軒)、山本郡能代(1293軒)、檜山(102軒)、平鹿郡横手(541軒)、仙北郡角館(356軒)、雄勝郡湯沢(235軒)の町方人口も加算されている。
また、久保田藩秋田六郡領内人口の変遷は以下の通りである。久保田藩は天保の大飢饉による被害が甚大で、天保5年(1834年)には凶作飢饉のために領内死亡者5万0464人を数えた。天保4年(1833年)と10年後の天保14年(1843年)の領内人口を比較すると、総人口のほぼ1/4に相当する11万人の人口が失われている。
(典拠は『秋田沿革史大成』、『新編北羽発達史』、『天樹院佐竹義公』、『綜合郷土研究』、『秋田県史』)
盛岡藩 (南部藩)
盛岡藩には天和3年(1683年)より断続的に詳細な人口調査が残っているが、宝暦2年(1752年)以降は極端に人口変動幅が少なくなり、ほぼ35万人前後に固定している。一方で官所から提出された報告書によると、宝暦5年(1755年)には餓死者5万2094人・明家7043軒、天明3年(1783年)には餓死者4万0850人・疫病死者2万3848人・明家1万0545軒・出領者3330人が発生したとする記録も残されており、幕府に報告するための藩の公式記録に虚偽な記載がなされたと考えられる。特に安永6年(1777年)から寛政2年(1790年)の間は性比が112.9に固定されているなど、明らかな人為操作が見受けられる。但し宝暦元年(1751年)以前の人口変遷のパターンは他の東北諸藩のものとと一致し、ある程度信用できると考えられる。[38][31]
以下に盛岡藩の人口構成の変遷をまとめる。十郡とは岩手郡、志和郡 (紫波郡)、稗貫郡、和賀郡、閉伊郡、鹿角郡、二戸郡、三戸郡、九戸郡、北郡であり、四町とは盛岡、花巻、郡山、三戸である。個々の四町人員については近代以前の日本の都市人口統計を参照。理想的には 人口 = 前年の人口 + 出生数 + 入領者数 - 出領者数 - 死亡数 が成立するはずだが、実際には一致しない場合が多い。また、身分別人口の合計と人口総数が一致しない場合も多々ある。享保17年(1732年)の領内総人口34万5825人と幕府へ報告した領民人口32万2109人を比較すると、侍方2万3121人と水主・閉伊浦等595人の合計2万3716人が計外人口であったことがうかがえる。
八戸藩は、同じ南部氏族の藩で、三戸郡、志和郡、九戸郡に領地を有していた。
幕末には七戸藩が支藩として成立した。戊辰戦争の処分により、盛岡藩は白石に転封となったが、半年後に盛岡に復帰した。しかしながら財政難により廃藩置県を待たずに廃藩を希望し、盛岡県となった。明治3年(1870年)~明治4年(1871年)頃の八戸藩、七戸藩、盛岡県の族籍別人口は以下の通り。また、没収された領地の内、斗南藩の人口は7万5467人、江刺県の人口は23万7550人(旧仙台藩領を含む)。
(典拠は『盛岡藩雑書』、高橋梵仙『日本人口史之研究』日本学術振興会 (1955年)、森嘉兵衛『日本僻地の史的研究』法政大学出版 (1969年))
米沢藩
米沢藩の総人口は、『秘庫存書』(上杉文書)に元禄5年(1692年)から慶応3年(1867年)まで176年分が伝わっており、もっとも長期に渡って年毎の人口変遷が保存されている。慶応2年(1866年)に人口が急増しているが、これは屋代郷3万石の加増による。18世紀に人口は減少したが、宝暦の大飢饉後の上杉鷹山の治世の頃に人口増加に転じている。その後の天明の大飢饉、天保の大飢饉の際にも人口が減少しているが、他の東北諸藩に比べると飢饉の影響は少ない。
また、米沢藩の身分別人口は以下の通りである。なお安永5年(1776年)の身分別人口の合計(下表)と総人口(上表)が一致しないが、おそらく町方人口などの身分別人口の数値に誤りがあると思われる。
(典拠は『山形県史』、吉田義信『置賜民衆生活史』国書刊行会 (1973年))
宇和島藩
元禄3年(1690年)から慶応3年(1867年)までの身分別人口の変遷が断続的に『宇和島藩主伊達家文書』へ記録されている。武家人口に関しては、国許、大坂、江戸屋敷の家中・使用人人口も記録されている。なお江戸屋敷の人口は、例えば明和9年(1772年)の明和の大火で明和8年(1771年)以前の書類が焼失するなどにより、一部の統計を欠く。
弘前藩 (津軽藩)
以下に弘前藩の人口変遷を示す。但し統計に統一がなく、武家を加えた領内総人口と、武家を除いた領民人口の統計が混在していると思われるが、後者も領内総人口の項目にまとめた。
(典拠は『弘前市史』、『津軽史事典』)
津和野藩
19世紀の津和野藩の人口構成について、旧津和野藩主亀井家第15代当主の亀井茲建が論文に公表しており、士農工商の割合を示すデータとしてしばしば引用される。
(典拠は亀井茲建 (1932年)[42]。)
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江戸時代の生活史に関わる人口統計
要約
視点
江戸時代の人の一生、世帯の状況など、生活史に関わるミクロな視点からの人口統計に関しては、歴史人口学や古人類学の立場から様々な研究がなされている。
出生率
江戸時代の各地の出生率は宗門改帳等により推測することができる。宗門改帳は、江戸期におけるキリスト教禁圧の産物であり、全住民が仏教徒であることを証明するため、世帯毎に各家族や奉公人が所属する宗派・寺院を記したものである。宗門改は毎年行うことが原則とされ、各世帯の人員構成や続柄、出生、結婚、死亡等が記載されるため、人口学上極めて貴重な資料となっている。
宗門改帳等により推計される各地の粗出生率(Crude Birth Rate:人口1,000人当たりの出生数。普通出生率と同義)は、陸奥国下油田村(1773-77年:18.4、1808-12 年: 28.2、1832-36 年:19.1)、信濃国横内村(1671-1871 年:26.3)、尾張国神戸新田(1838-70 年:31.2)、美濃国西條村(1773-1868 年:31.9)、和泉国塔原村(1792-1851 年 31.48)、備前国吹上村(1693-1860 年:26.0)、肥前国野母村(1766-1871 年:28.8)等となっている。
東北地方の出生率が低かったこと、中部以西の出生率が比較的高かったことがうかがえるが、総じて比較的出生率が低い。明治33(1900)年の全国の普通出生率は32.4、大正元(1912)年は 35.1、昭和元(1926)年は 34.6、「団塊世代」の出生期であった昭和 22(1947)年は 34.3 であり、江戸時代は明治~昭和前期より出生率が低かったことになる。
もっともこれに対しては異論がある。宗門改は原則1年毎に行われるため、その間に出生し死亡した乳児が記載されないことが多く、この脱漏を考慮すると、実際の出生数は1 割ないし2割程度多かったのではないかとも推測されている。しかし、このような補正を行っても江戸期の出生率は明治~昭和前期に比べ高かったとは言い難い。当時の乳幼児死亡率の高さ、医療、衛生、食料等を考慮すれば、江戸後期の出生率は必ずしも十分ではなかったと言えよう。また、生涯出生数は地主や比較的大規模な自作農の方が、小規模自 作農や小作より高く、出生力の低い小規模自作農や小作は絶家となる例も多かった。
人口と耕地の減少に悩む各藩、さらに幕府は、間引きの禁止や「赤子養育」のための養育金支給等の施策を行っている。
平均寿命、乳児死亡率
江戸時代の生活史の人口資料としてよく利用されている資料は宗門改帳だが、基本的に静態統計であり、出生直後から宗門人別改めの期日までに死亡した場合には記載漏れとなり、正確な出生数と乳児死亡率の把握が困難である。宗門改帳より推計された数え2歳時、5歳時、10歳時、15歳時の平均余命は以下の通りである。[43]
出生時平均余命(平均寿命)と乳児死亡率に関しては、懐妊書上帳や出生調書上帳、明治以降の数値、モデル計算により推計値が出されている。以下江戸時代における乳児死亡率と出生、満5歳、満10歳、満15歳時平均余命の推計をまとめる。[43][47]なお江戸時代全般に見られる異常な男女比は嬰児殺しの影響があると見られるが、出生調書上帳などでは出産後に殺された嬰児についても堕胎とともに死産(死産は平均余命の計算から除外される)扱いされている可能性があり、宗門改帳における乳児死亡の情報欠落と共に、平均余命が実際よりも高く見積もられている原因となり得る。[48]
以上は農村を中心とした研究であるが、これに対して城下町などの人口密集地域では人の出入りが激しく、平均余命の推定が困難である。小林和正は江東区深川の浄土宗雲光院跡で出土した江戸時代の満15歳以上の人骨の平均死亡年齢を男子45.5歳、女子40.6歳と推定している。[62]満15歳時平均余命は男子30.3年、女子25.6年、男女平均27.8年に相当する。[63]
また、ワイスのモデル生命表を15歳未満に適応することにより、菱沼従尹(1978年)は江戸深川の出生時平均余命を20.3年と推定している。[48]長岡朋人, 平田和明(2007年)[64]らも都立一橋高校内遺跡から出土した人骨を元に出生時平均余命を21.3年と推定している。江戸時代は一般的に都市部の方が農村に比べて死亡率が高くて出産率が低い傾向にあり、都市部への出稼ぎを担う農村からの余剰人口を減らすことで全体の人口を調整していたと考えられている(「都市アリ地獄説」)。[46]
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脚注
参考文献
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