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国勢調査以前の日本の人口統計

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国勢調査以前の日本の人口統計(こくせいちょうさいぜんのにほんのじんこうとうけい)は、国勢調査開始以前の日本の明治大正期の人口調査および推定人口をまとめたものである。

調査の実施とその変遷

要約
視点

明治5(1872)年 – 明治30(1897)年

明治4年(1871年)戸籍法が公布され、各地より提出された戸籍(壬申戸籍)に基づき内務省により明治5年1月29日(太陽暦では1872年3月8日)付で『日本全国戸籍表』が編纂された。翌明治6年(1873年)から明治19年(1886年)までは毎年1月1日現在、明治19年から明治30年(1897年)までは12月31日現在での戸籍上現存する人口によって作成した戸籍表を提出させ、これを集計して毎年の全国の『日本全国戸籍表』(明治6年1月1日~明治9年1月1日調)、『日本全国戸口表』(明治10年1月1日~明治11年1月1日調)、『日本全国郡区分人口表』(明治12年1月1日調)、『日本人口統計表』(明治13年1月1日、明治14年1月1日調)、『日本全国戸口表』(明治15年1月1日~明治18年1月1日調)、『日本全国民籍戸口表』(明治19年1月1日調)、『日本帝国民籍戸口表』(明治19年12月31日調~明治31年12月31日調)が編纂された(明治19年は1月1日調と12月31日調の二種類作成されている)。

明治31(1898)年 – 大正8(1919)年

明治31年(1898年)戸籍法の改正の結果、人口統計事務は内閣統計局に移り、より詳しい統計を把握する目的で明治31年より5年毎(明治31年、明治36年(1903年)、明治41年(1908年)、大正2年(1913年)、大正7年(1918年))の各年末に本籍人口と現住人口をまとめた『日本帝国人口統計』(明治31年12月31日調)、『日本帝国人口静態統計』(明治36年12月31日~大正7年12月31日調)が公表された。同調査の中間各年については「日本帝国人口静態統計」の値に加減して各年の人口を算出し、「日本帝国統計年鑑」に掲載された。

大正9年(1920年)10月1日以降以降は国勢調査により5年毎に実地調査が行われるようになる。

本籍人口と甲種・乙種現住人口

国勢調査開始以前に内務省や内閣統計局によって公表されている戸籍による人口集計には、主に以下の3種類存が在する。

  1. 本籍人口 戸籍帳簿上の人口であり、各人の現在地、常住地のいかんを問わずその戸籍の所在する本籍地に帰属させた人口。海外に住む日本人は含まれ、日本国内にいる外国人は含まれない。琉球(沖縄県)を除き、明治5年までに作成された壬申戸籍が統計の出発点となる。
  2. 現住人口(甲種) 本籍人口より出入寄留者、逃亡失踪者、陸海軍の兵営艦船に在る者、監獄に在る者、外国行きの者を加除して得た人口であり、いわゆる常住人口に近いものである。明治19年(1886年)1月1日付の「日本全国民籍戸口表」以降は必ず本籍人口と現住人口(甲種)が記載されるようになる。なお明治18年(1885年)と明治19年(1886年)は出入寄留者と逃亡失踪者の加除のみで、明治5年(1872年)から明治17年(1884年)までは出入寄留者の加除のみで現住人口が算出されていた。明治10年(1877年)から明治16年(1883年)までは一部の府県において入寄留者、出寄留者の何れかの統計を欠き、全国単位での甲種現住人口が算出できない。また加算する統計の一部が男女別統計を欠くため、一部の甲種現住人口は全国単位での男女別人口が算出できない。
  3. 現住人口(乙種) 寄留制度は届漏れや、特に出寄留者の抹消処理に不備があり、入寄留者数が出寄留者数を大幅に上回ってしまい、明治36年(1903年)の時点で現住人口 (甲種)と本籍人口に約190万人の差が生じてしまった。そこで全国の入・出寄留者の差数を各県別の入・出寄留者数の比で各県に按分修正して算出するという、統計的補正を加えた現住推計人口である乙種現住人口が考案された。ただし乙種現住人口は府県単位で現住人口を修正したものであり、市区町村別現住人口に関しては再計算が実施されていない。

壬申戸籍による戸籍調査の全国集計からその後の人口の加増によって算出された現住人口は、時代の経過とともに実際の人口を明白に上回ってしまい、全数調査による国勢調査の実施が必要となった。内務省の調査とは別に、警察署では各地方の交番単位で地域住民を把握し、集計した現住人口の人口統計(警察署調査現住人口)が府県単位で統計書に公表されており、明治41年と大正2年の『日本帝国人口静態統計』には内務省集計の本籍人口、現住人口のほかに、より実際の人口に近いと推測される警察署調査現住人口が掲載された。ただし警察署調査現住人口も地方によっては戸籍人口をそのまま転載しただけのものもあり、調査の精度にはかなりの差がある。

大正9年(1920年)10月1日に行われた国勢調査の結果、本来は国勢調査人口を下回るはずの本籍人口すら逆に約130万人ほど上回ったことから、本籍人口・現住人口には死亡・脱籍等の届出漏れによる虚数がかなり含まれていることが判明した。本籍人口・現住人口はともに戸籍帳などに依存した登録人口であり、国勢調査で初めて全国規模で一斉に行われた全数調査による調査人口とは性格が異なるものである。

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全国人口

要約
視点

以下日本全国(内地のみ)の本籍人口、甲種現住人口、乙種現住人口と、1930(昭和5)年編さん『明治五年以降我国の人口』の中で再計算された現住推計人口を示す[1]。一部の統計では性別の調査を欠き、男女別人口と合計が一致しない。また大正9年(1920年)10月1日の甲種現住人口として欄内に示す太字の数字は国勢調査によるもの。本籍人口は明治19年(1886年)以降の慣例に従い、明治18年(1885年)以前も皇族人員を除く。

さらに見る 年号 西暦, 本籍人口 ...
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府県別人口

府藩県三治制下の日本の人口統計過去の都道府県の人口一覧を参照。

主要都市人口

要約
視点

明治政府は当初大区小区制を施行し、江戸時代の町村を大区、小区の下に統合したが、実情に合わなかったため、明治11年(1878年)には郡区町村制を制定し、複数の町村を戸長役場に管轄させる戸長役場制度を実施した。そして明治21年(1888年)には市制町村制を制定し、翌明治22年(1889年)より各地で市制・町村制が実施された。以下、明治6年(1873年)から明治21年(1888年)までに原則として1万人以上の人口、あるいは市制町村制施行の明治22年(1889年)から国勢調査開始の大正9年(1920年)までに原則として1万5000人以上の人口を有する主要都市の人口を複数の表にまとめる。各年次をクリックすることにより、人口順に並べ替えることができる。

なお明治22年(1889年)12月31日(市制・町村制施行後初の戸籍人口集計)と大正9年(1920年)10月1日(第1回国勢調査)付のより詳しい都市人口については、市制都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位の項をそれぞれ参照。

市制・町村制導入前の区の人口変遷:明治12(1879)年~明治21(1888)年

明治11年(1878年)の郡区町村制の施行により、全国の主要都市にはが置かれた。以下の表に明治12年(1879年)から明治21年(1888年)まで、各年の『日本全国郡区分人口表』・『日本人口統計表』・『日本全国戸口表』・『日本全国民籍戸口表』・『日本帝国民籍戸口表』に収録の「各地方庁及各郡区役所管内戸口表」等に掲載の行政上の区の人口をまとめる。各年の人口調査は本籍人口で、明治19年1月1日調以降は現住人口を併記する。また明治12年(1879年)1月1日調については『日本全国郡区分人口表』記載の区を構成する町村数、明治19年(1886年)1月1日調については『地方行政区画便覧』記載の区を構成する町村数を併記する。なお京都府伏見区は明治14年(1881年)1月10日に廃止され、大区小区制の廃止が遅れた堺県では明治13年(1880年)4月14日に堺区が設置された。沖縄県では郡区町村制が施行されなかったが、後の那覇区首里区につながる那覇・首里、および中途で那覇の管轄に入った久米村泊村の人口を本表に掲載する。また明治12年(1879年)1月1日調の琉球国の人口統計は、明治13年(1880年)1月1日調の沖縄県の人口統計で代用されている。

さらに見る 区等, 旧国 ...

市制・町村制導入前の主要都市人口変遷:明治6(1873)年~明治21(1888)年

市制・町村制が導入される明治22年よりも前の都市人口に関しては、新しい行政区の人口と、従来の町場の人口のどちらかを採用するかについて多大な混乱があり、数字も公表する統計書によって異なり、算出者の主観も入って、行政区域とは一致しない人口が公表されている。以下の表に、明治6年(1873年)から明治21年(1888年)までの期間に人口1万人以上を記録した輻輳地・都邑・市街等の都市、あるいは第1次府県統合以降に府県庁所在地となった都市の人口変遷をまとめる。

明治6年(地誌提要・本籍)の統計は『日本地誌提要』(1875~1879年)による本籍人口。『日本地誌提要』は内務省地理局の塚本明毅らによってまとめられた官撰地誌で、人口は内務省の有する明治6年1月1日調の「戸籍表」をもとにしている[4]

明治8年以前(共武政表・本籍)の統計は明治8年度(1875年)版の『第一回共武政表』[5]収録の「都邑里人口一千名以上輻輳地及其戸数物産表」による本籍人口。明治12年(共武政表・本籍)、明治13年(共武政表・本籍)、明治14年(共武政表・本籍)の統計は、それぞれ明治11年(1878年)版の『第二回共武政表』、明治12年(1879年)度版の『第三回共武政表』、明治13年(1880年)度版の『第四回共武政表』収録の「人口一百以上輻輳地」による本籍人口。「共武政表」は陸軍省参謀本部によって編集されたものであり、人口は内務省の有する「戸籍表」をもとにしているが、旧国別にまとめられた輻輳地は連担接続したものと定義され、実際の行政区分と異なる。人口が基準値未満の場合は空欄(明治8年:百人、明治12年、13年、14年:千人)。また行政区域が頻繁に変わるので、一部の都邑に関しては「共武政表」収録の輻輳地人口とは異なる人口を太字で記載した(脚注参照)。

明治12年(人口表・本籍)の統計は『明治十二年一月一日調日本全国郡区分人口表』による本籍人口。明治13年(人口表・本籍)、明治14年(人口表・本籍)、明治15年(戸口表・本籍)、明治16年(戸口表・本籍)はそれぞれ明治13年(1880年)度版、明治14年(1881年)度版、明治15年(1882年)度版、明治16年(1883年)度版の「日本全国人口表」または「日本全国戸口表」に収録の「郡区分」による本籍人口。一部「共武政表」記載の人口と異なるが、行政上の本籍人口としてはこちらの人口表・戸口表記載がより正確な値である。ただし区制が敷かれている一部の行政区以外の人口は不明である。

明治17年(戸口表・本籍)、明治17年(戸口表・現住)の統計は明治17年(1884年)1月1日調の『都府名邑戸口表』による本籍人口並びに甲種現住人口。 明治19年(戸口表)の統計は明治19年(1886年)12月31日調の『市街各邑及町村二百戸以上戸口表』による甲種現住人口。戸数が基準値未満の場合は空欄(200戸)。 明治20年(戸口表・現住)、明治21年(戸口表・現住)の統計は明治20年(1887年)、明治21年(1888年)度版の「日本帝国民籍戸口表」収録の「各地方一万人以上市街戸口表」による甲種現住人口。人口が基準値未満の場合は空欄(1万人)。

市町村制開始前の都市名に関しては区・町・村の他、市街・駅・宿などの呼称も公に用いられたが、特に区別が必要な場合を除き表中では省略する。輻輳地・都邑は「明治十三年共武政表」の収録順に並べてある。なお神戸区(神戸+兵庫)、福岡区(福岡+博多)は表中重複して示す。

さらに見る 輻輳地・都邑, 旧国 ...

市制・町村制導入から国勢調査開始までの主要都市人口変遷:明治22(1889)年~大正9(1920)年

以下の表に、明治22年(1889年)から大正9年(1920年)までの期間に人口1万5000人以上を記録した市町村とその前身、あるいは県庁所在地北海道庁の旧支庁所在地の人口変遷をまとめる。明治22年(1889年)から明治30年(1897年)までの人口は、内務省総務局戸籍課編『日本帝国民籍戸口表』収録の「各地方現住一万人以上市区及町村戸口表」掲載の現住人口。明治31年(1898年)から大正7年(1918年)までの人口は、内閣統計局編『日本帝国人口統計』または『日本帝国人口静態統計』に掲載の5年毎の現住人口。明治41年(1908年)、大正2年(1913年)の市の人口に関しては、より実際の人口に近いとされる警察署調査現住人口を併せて示す(ただし明治41年と大正2年の警察署調査現住人口が集計されているのは市・区・郡のみであり、町村の内訳は不詳)。大正9年(1920年)の人口は、第1回国勢調査による現在人口

  • 明治22年(1889年)から明治30年(1897年)に関して人口1万人未満の都市については、内務省告示の官報掲載の現住人口により人口を補い、斜体で人口を示す。ただし『日本帝国民籍戸口表』収録の現住人口と異なり、陸海軍の兵営艦船に在る者、監獄に在る者の加除がなされていない。また市制町村制が導入されていない東京府伊豆七島小笠原島庁長崎県対馬島庁島根県隠岐島庁鹿児島県大島島庁沖縄県、北海道庁に関しては、町村別の現住人口が官報で公表されていない。
  • 一部の市区の人口は『日本帝国民籍戸口表』収録の「現住一万人以上市区及町村戸口表」と「各地方都市戸口表」とで異なる数字が提示されているが、前者の人口を優先して採用した。
  • 市制・町村制導入前の地域であっても『明治四十一年十二月三十一日 日本帝国人口静態統計』収録の「人口一万以上ノ市町村現住人口」に甲種現住人口が掲載されている場合がある。これらは原則として単一または複数の戸長役場の管轄人口であり、より下位の行政地区人口の総和とみなされ得るので、太字で人口を示す。
    • 香川県では明治23年(1890年)2月15日に市町村制が導入されており、明治22年の段階では郡区町村制による戸長役場が存続していた。明治22年の人口は単一、または複数の連合戸長役場管轄人口とみられる。
    • 鹿児島県大島郡に町村制が導入されたのは明治41年(1908年)4月1日以降のことであり、それまでは郡区町村制による戸長役場が存続した。本表では連合戸長役場管轄地区による人口集計を示す。
    • 沖縄県に郡が設置されたのは明治29年(1896年)4月1日以降のことである。また沖縄県に町村制が導入されたのは明治41年(1908年)4月1日以降のことであり、それまでは旧来の間切制度が形を変えながら存続した。本表では那覇区・首里区を除き、原則として間切番所/役場管轄地区による人口集計を示す。
    • 北海道庁で町村制が導入されたのは明治33年(1900年)7月1日以降のことであり、一部地域では大正12年(1923年)4月1日まで郡区町村制による戸長役場が存続した。本表では原則として戸長役場管轄地区による人口集計を示す。
  • 本表において該当する市区町村が存在するにもかかわらず人口統計が得られなかった欄に関しては、「n.a. (not available)」と記載する。
さらに見る 市区・郡町村, 旧国 ...
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平均寿命

明治期に関する出生時平均余命と乳児死亡率に関しては、統計局を始め、以下のような推計値が出されている。[86]

さらに見る 推計者:推計年, 期間 ...
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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