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府藩県三治制下の日本の人口統計

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府藩県三治制下の日本の人口統計(ふはんけんさんちせいかのにほんのじんこうとうけい)は、明治維新から廃藩置県までの府藩県三治制下の明治元年(1868年) - 明治4年(1871年)までの日本の人口調査をまとめたものである。

それぞれ参照。

概要

日本国内では江戸時代にはキリシタン取締りの目的により宗門人別改帳制度が成立し、更に幕府は享保6年(1721年)以降6年毎に天領や各の領民人口を報告させて全国の領民人口を集計した諸国人数帳を作成(諸国人数調査)したが、第23回の諸国人数調査に当たる嘉永5年(1852年)の調査については、翌年の黒船来航や徳川家慶崩御の混乱により最終的な集計が行われなかった。その後明治維新を迎えるまでの四半世紀に渡り全国規模の人口集計は実施されなかった。

明治に入り戊辰戦争の処分で接収された天領府県制が敷かれたものの、藩は存続したままであった(府藩県三治制)。版籍奉還を控えた明治2年旧暦6月4日(1869年7月12日)、民部省は各府藩県に戸籍編製の通達をし、翌明治3年付の庚午戸籍や明治4年付の辛未戸籍が作成された。更に明治2年旧暦6月12日(1869年7月20日)には郷村高帳の報告提出、旧暦6月13日(1869年7月21日)には、過去五年間(元治元年(1864年)より明治元年(1868年)まで)の税収(現収納高)の報告提出の通達がなされたが、諸府藩県は早い所では明治2年中に、遅いところでも明治3年には報告書を提出した。民部省を合併した大蔵省は各府藩県の報告を元に藩制一覧表などを作成し、「庚午年概算」として総人口等を算出しているが、その統計の一部が残っている。

江戸時代に作成された人別帳は、藩・身分毎に書式が異なっていたが、明治政府は全国で統一の書式を戸籍に適応し、全ての国民に対して戸籍から漏れることなく集計を試みた。頒布された書式は京都府編製の戸籍仕法書で、その前身は長州藩が作成した仕法書である。しかしながら実際に全国で統一の戸籍が完成するのは、明治4年旧暦4月4日(1871年5月22日)布告の戸籍法と明治4年旧暦8月28日(1871年10月12日)の解放令を受けて作成された壬申戸籍を待つこととなる。

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明治3年の総人口と人口資料

要約
視点

以下に複数の資料による明治3年(1870年)調の日本国内の本籍人口をまとめるが、それぞれに欠落や重複がある。原史料の大部分は関東大震災などの火災により焼失しており(焼失しなかった分は国立公文書館に焼残文書として保存されている)、今となっては正確な数字を知るのはほぼ不可能である。なおこれらの資料の数字には原則として北海道開拓使(箱館開拓使)、樺太開拓使の人口は含まれないと見られる。

さらに見る 出典, 庚午年概算 ...

また各資料の族籍別人口を、明治5年旧暦1月29日(1872年3月8日)調の壬申戸籍の本籍人口と共に以下にまとめる。

さらに見る 内訳, 戸数 (庚午年概算) ...

当時の人口を伝える資料は限られており、以下に列挙する。

「庚午年概算」[1]および「Notice sur l'Empire du Japon et sur sa Participation a l'Exposition Universelle de Vienne」
関山直太郎は、旧大蔵省文書中に「庚午年概算」と称する手書きの統計書類を見出し、男女別人口、族籍別戸数を書き留め公表したが、原本は焼失してしまったと述べている。
明治政府が公式に参加した明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会の日本館の公式ガイド「Notice sur l'Empire du Japon et sur sa Participation a l'Exposition Universelle de Vienne, 1873」では、当時の日本の人口が708万5082戸3287万6134人(内訳:本土706万7628戸3297万4897人、蝦夷1万7454戸7万8789人、樺太2448人)であると紹介されているが[2]、明治時代に各省の御雇顧問を務めた経済学者パウル・マイエット(Paul Carl Heinrich Mayet)は、これを明治4年(1871年)の人口と考えた[8]。関山は、この数字は明治3年の人口である庚午年概算3279万4897人に明治4年の開拓使の人口約8万人を加えたものだと解釈した[1]
大江卓関係文書「藩々租税取調」[3]
国立国会図書館憲政資料室が所蔵する大江卓関係文書に収録の資料で、明治3年の人口3478万5321人を族籍別人口と共に記載している。後述の千葉県郷土資料と同様に、明治3年頃に公的に作成された文書を出典とするものと推測される。しかしながら明治5年調本籍人口は3311万0825人であり、集計に重複があると思われる。
千葉県郷土資料「明治初年戸口調」[4]
千葉県図書館所蔵が所蔵する千葉県郷土資料で、明治4年旧暦7月に書き写したとの記載があり、明治初年の人口3478万5321人を族籍別人口と共に記載している。これらの数字は上記の大江卓関係文書とほぼ同じで、共に明治3年頃に作成された公的な文書を出典として作成されたと考えられる。なお全国と府県・藩の集計との差には人口で10万1200人の差があるが、戸数に関しては差がない(3府40県: 200万4796軒、各藩:508万7952軒、全国:709万2748軒)ことから、何らかの誤記と思われる。総人口自体、大江卓関係文書と同様に集計に重複があると思われる。
明治史要「使府県戸口概表」[5]
『明治史要』収録の「使府県戸口概表」に、廃藩置県の実施された明治4年旧暦7月14日(1871年8月29日)付の1使3府302県の戸数・人口(ただし開拓使の人口は不記載)が集計されている。しかしながら本表の草稿である、東京大学史料編纂所所蔵『明治史要諸表底本』「府藩戸口調書」には「庚午」の記載と共に3府・261藩・41県の区切りで戸数・人口が集計されており、また他統計との比較からも、『明治史要』「使府県戸口概表」の府藩県別人口自体は庚午年概算と同じ、明治2年、明治3年をベースにした本籍人口と思われる。ただし後述の大隈重信関係資料「府藩県石高人口表」や、統計集誌収録の「人員表」と比較すると、廃藩置県までの府藩県境域の変化、とりわけ大名預地の消滅に伴う人口の組み換えは実施されているようである。「使府県戸口概表」の解説によると、総計663万2173戸3186万6389人は明治5年戸口表に比べて戸数47万5668戸人員124万4332人少なく、おそらく皇族華族士族の戸口が加算されず、一部寺院の戸口加算不同があるせいだろうと記載されているが、他統計と比較すると、大多数の府藩県で皇族・華族・死刑の人口が加算されていない一方で、士族の人口は原則として加算されていると推測される。
なお、同じ『明治史要』に収録されている「改置府県概表」には、明治4年旧暦11月22日付とされる府県別人口が記載されているが、記載されていない開拓使、琉球藩を除き、数字は「日本全国戸籍表」記載の明治5年旧暦1月29日(1872年3月8日)付の壬申戸籍を元にした本籍人口と完全に同一である。
大隈重信関係資料「府藩県石高人口表」[6]
早稲田大学図書館が所蔵する大隈重信関係資料に収録されている資料で、明治2年(1870年)調と書かれているが、実際の人口は『明治史要』「使府県戸口概表」や『統計集誌』「人員表」と同一のものが多く、明治2年、明治3年をベースにした本籍人口と思われる。調査対象は3府266藩40県で、多度津藩廃藩の明治4年旧暦2月5日(1871年3月25日)から丸亀藩廃藩の明治4年旧暦4月10日(1871年5月28日)の間に作成されたものであることがうかがえる。なお記載されている藩別人口、県別人口の合計と藩総人口、県総人口は一致せず、誤記が多数存在する。他統計との比較から、大多数の各府藩県の人口には皇族・華族・死刑の人口が加算されていないと推測される。
統計集誌「人員表」[7]
雑誌『統計集誌』に呉文聡が紹介した廃藩置県前の府藩県別の身分人員表で、元民部省役人の野村文夫から提供を受けた表を転載したものであり、明治3年(1870年)庚午年の調査結果にいくつか明治2年(1869年)の調査結果を補ったという解説がなされている。調査対象は1使3府265藩41県(ただし箱館開拓使の人口は不記載)で、丸亀藩廃藩の明治4年旧暦4月10日(1871年5月28日)から龍岡藩廃藩の明治4年旧暦6月2日(1871年7月19日)の間に作成されたものであることがうかがえる。なお原資料に示されている総人口は3008万9401人(欄外の皇族人員28人を加算すると3008万9429人)で、死刑を除外すると3008万8335人(皇族人員を加算すると3008万8373人)である。
藩制一覧[9]
『藩制一覧』とは修史局によって編纂された「藩制一覧表」を昭和になって出版したものである。「藩制一覧表」は明治2年、明治3年に渡り各藩より上申されたものをまとめたもので、調査対象は280藩である。旧幕府領を主とする政府直轄地、および幕府直轄の大都市の統計を欠く。また藩制一覧記載の人口構成は曖昧な記述が多く、研究者によっても計算結果に差異が著しく生じるため、本項では他の統計に問題がある場合に限り記載を引用することとする。
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府藩県別人員表

要約
視点

府藩県三治制下の府藩県別人口をまとめたものとしては、上述のように(1) 『明治史要』「使府県戸口概表」[5]、(2) 大隈重信関係資料『府藩県石高人員表』[6]、(3) 『統計集誌』「人員表」[7]、(4) 『藩制一覧』[9]が知られているが、ここでは『明治史要』記載の使府藩県別戸数・人口[注釈 2]、「府藩県石高人員表」記載の府藩県別人口[注釈 3]、『統計集誌』記載の府藩県別人口(ただし集計からは死刑人員と欄外の皇族人員を除く)・族籍別人口(華族、士族、卒、神職、僧尼、平民、その他、死刑)[注釈 4]を明治4年旧暦6月1日頃の府藩県領域に従って下の表にまとめる(ただし『明治史要』の集計は廃藩置県直前の府藩県領域に従ってまとめてあるため、龍岡藩(明治4年旧暦6月2日(1871年7月19日)廃藩)、徳山藩(明治4年旧暦6月19日(1871年8月5日)廃藩)、大溝藩(明治4年旧暦6月23日(1871年8月9日)廃藩)、津和野藩(明治4年旧暦6月25日(1871年8月11日)廃藩)の項目を欠く[注釈 2])。各項目を数回クリックすることにより、人口順に並べ替えることができる。このほか参考として管轄国郡[10]、飛地の数[6]表高(元諸藩封高)[11]内高[12]、現石 (現収納高)[12]を記載する。管轄国郡は一部の藩御預所が残っている明治3年後半頃のもので、全国各地に散在する多くの寺社領の最終的な管轄が決定していないほか、一部記載漏れや誤りがあるが、明白な誤りがある場合を除き、原資料の記述を修正せずにそのまま掲載する[10]

なお、何れの統計も樺太開拓使、北海道開拓使(箱館開拓使)の人口を記載しておらず、本表では省略する。一方琉球国の人口12万4454人は、『明治史要』と『統計集誌』では鹿児島藩の人口(華族9名を除くと89万6808人)に含まれ、「府藩県石高人口表」では鹿児島藩の人口(琉球を除き77万2354人)に含まれない。[注釈 5]

さらに見る 府藩県, 戸数 (明治史要) ...

また版籍奉還を実施した藩で、上表に登場しない廃藩済みの藩については、以下に『藩制一覧』記載の人口(知事家族(華族)の人口を除く)と共に記す。なお盛岡藩盛岡県、丸亀藩と丸亀県について領域が上表と重複するが、別途記載する。

さらに見る 藩, 総人口 ...

また『統計集誌』「人員表」は朝日山藩斗南藩林田藩佐賀藩中野県本保県に関する域内人口と族籍別人口の統計を欠くが[注釈 4]、この内、朝日山藩、林田藩、佐賀藩に関しては、『藩制一覧』に族籍別人口が掲載されている[9]

さらに見る 藩, 総人口 ...
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脚注

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参考文献

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外部リンク

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