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鈴木正吾

日本の政治家、ジャーナリスト ウィキペディアから

鈴木正吾
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鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月30日[1][2]1977年(昭和52年)6月1日[1][3][4])は、大正から昭和期の政治家ジャーナリスト衆議院議員愛知県豊川市長。旧姓・渥美。

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鈴木正吾

経歴

愛知県碧海郡志貴村[5]矢作町を経て現岡崎市[5])で渥美半五郎の三男として生まれた[5][6]。1899年(明治32年)宝飯郡佐脇村下佐脇村(御津村、御津町を経て現豊川市)の鈴木金次郎家を相続[5][6]。1907年(明治40年)学生団体・丁未倶楽部に加わり第一次護憲運動で反桂内閣として活動した[7]。1914年(大正3年[注釈 1]明治大学政治科を卒業した[2]

卒業後は読売新聞記者を経て、雑誌『第三帝国』編集長、雑誌『大観』編集長などを務める[1]。1915年(大正4年)2月から3月にかけて大隈伯後援会遊説部員として第12回衆議院議員総選挙で遊説を行った[8]尾崎行雄に師事し[1]1919年(大正8年)には欧米視察に同行した。1924年(大正13年)新政同盟に加わり普選運動を進めた[9]1932年(昭和7年)第18回総選挙に無所属で立候補して初当選。以降、当選は計7回を数える[1]。その後は国民同盟に入り、1942年(昭和17年)の第21回総選挙(翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに当選した。

戦後、公職追放となる[10]1951年(昭和26年)に追放解除となり[11]、翌1952年(昭和27年)の第25回総選挙改進党から立候補して当選。しかし、1953年(昭和28年)の第26回総選挙で落選した。

1955年(昭和30年)5月、豊川市長に就任し[2]、1958年(昭和33年)4月まで1期務めた[2]。この間、工場誘致の促進、道路網の整備などに尽力[2]。1958年の第28回総選挙で再選、自由民主党に入った。1963年(昭和38年)の第30回総選挙で落選、次の第31回総選挙にも立候補したが落選し、政界を引退した。

晩年は尾崎行雄記念財団理事長を務め、『尾崎咢堂全集』の編纂を担った[4]

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国政選挙歴

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著作

  • 『新愛国論』益進会、1915年。
  • 『何故の露國不承認ぞ : 覆面せる陸軍大學校教官の暴著を駁す』内観社、1934年。
  • 『戦争成金断じて許さず : 公益優先経済機構の確立』日本講演通信社、1939年。

脚注

参考文献

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