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高木公男
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高木 公男(たかぎ きみお、1930年10月1日 - )は、岐阜県[1]出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督。
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来歴・人物
享栄商業高ではエース金田正一を擁し、一塁手として1950年夏の甲子園県予選準決勝に進むが一宮高に惜敗。金田以外のチームメートに二塁手の鵜飼勝助がいた。
卒業後は1951年に名古屋ドラゴンズへ入団[2]。1952年には一塁手、左翼手として4試合に先発出場を果たすが、同年限りで退団した[2]。
1953年は社会人野球の愛知産業に在籍し、1954年に東映フライヤーズへ入団[2]。1955年は8月から一軍に定着。1956年には自己最多の107試合に出場し、うち50試合に一塁手として先発。その後も準レギュラーとして起用され、1958年には打率.284を記録する。1961年は山本八郎が一塁手に回ったこともあり出場機会が減少、同年限りで現役を引退[2]。
引退後は、東映→日本ハム(1962年 - 1966年二軍コーチ補佐, 1967年 - 1968年・1971年二軍打撃コーチ, 1969年一軍打撃コーチ, 1970年二軍監督, 1992年ヘッドコーチ)、ロッテ(1973年・1975年・1977年 - 1982年二軍監督, 1974年・1987年一軍総合コーチ, 1976年二軍コーチ)で監督・コーチを務めた[2]。
ユニフォーム生活の合間を縫って、ダイエースカウト(1990年 - 1991年)や、古巣・中日で二軍育成担当兼寮長を務めた[2]。
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詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 22 (1951年 - 1952年、1957年 - 1961年)
- 41 (1952年)
- 1 (1954年 - 1955年)
- 59 (1955年 - 1956年)
- 40 (1962年 - 1963年)
- 64 (1964年 - 1970年)
- 74 (1971年)
- 81 (1973年 - 1982年)
- 82 (1987年)
- 71 (1992年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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