トップQs
タイムライン
チャット
視点
1974年の日本ハムファイターズ
ウィキペディアから
Remove ads
1974年の日本ハムファイターズ(1974ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1974年の日本ハムファイターズの動向をまとめる。
このシーズンの日本ハムファイターズは、球団が日拓ホームから日本ハムに身売りされ、チーム名が「日本ハムファイターズ」に改称された最初のシーズンであり、中西太監督の1年目のシーズンである。
概要
先述の通り、球団が日拓ホームから日本ハムへ身売りされて球団名も変更、そして監督は前年までヤクルトアトムズのヘッドコーチだった中西太を迎え、球団社長には同球団の監督で中西の義父・三原脩が就任した。だが終わってみれば1968年以来の最下位、そこで三原球団社長はチーム改造に着手し、まずシーズン終了直後の10月22日に大下剛史が広島東洋カープの上垣内誠・渋谷通と交換トレード、続いて1週間後の10月30日には大杉勝男がヤクルトの小田義人・内田順三と交換トレード、他にも白仁天が太平洋クラブライオンズの東田正義と交換トレードとなり、東映時代からの主力3選手が一気に放出される事となった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1 | 三 | 阪本敏三 |
---|---|---|
2 | 二 | 大下剛史 |
3 | 左 | 張本勲 |
4 | 一 | 大杉勝男 |
5 | 右 | 千藤三樹男 |
6 | 中 | 白仁天 |
7 | 捕 | 加藤俊夫 |
8 | 遊 | 末永吉幸 |
9 | 投 | 渡辺秀武 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 阪急ブレーブス | 36 | 23 | 6 | .610 | 優勝 |
2位 | ロッテオリオンズ | 31 | 27 | 7 | .534 | 4.5 |
3位 | 太平洋クラブライオンズ | 30 | 30 | 5 | .500 | 6.5 |
4位 | 南海ホークス | 27 | 28 | 10 | .491 | 7.0 |
5位 | 近鉄バファローズ | 27 | 32 | 6 | .458 | 9.0 |
6位 | 日本ハムファイターズ | 25 | 36 | 4 | .410 | 12.0 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | ロッテオリオンズ | 38 | 23 | 4 | .623 | 優勝 |
2位 | 南海ホークス | 32 | 27 | 6 | .542 | 5.0 |
3位 | 阪急ブレーブス | 33 | 28 | 4 | .541 | 5.0 |
4位 | 太平洋クラブライオンズ | 29 | 34 | 2 | .460 | 10.0 |
4位 | 近鉄バファローズ | 29 | 34 | 2 | .460 | 10.0 |
6位 | 日本ハムファイターズ | 24 | 39 | 2 | .381 | 15.0 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | ロッテオリオンズ | 69 | 50 | 11 | .580 | 優勝 |
2位 | 阪急ブレーブス | 69 | 51 | 10 | .575 | 0.5 |
3位 | 南海ホークス | 59 | 55 | 16 | .518 | 7.5 |
4位 | 太平洋クラブライオンズ | 59 | 64 | 7 | .480 | 12.0 |
5位 | 近鉄バファローズ | 56 | 66 | 8 | .459 | 14.5 |
6位 | 日本ハムファイターズ | 49 | 75 | 6 | .395 | 22.5 |
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定 [1]
Remove ads
オールスターゲーム1974
→詳細は「1974年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
できごと
![]() | この節の加筆が望まれています。 |
- 5月9日 - 3月26日に入団、4月25日に初給料50万円(年俸600万円の月割り)を支給され、4月27日に多摩川グラウンドでのイースタン・リーグの試合に先発する予定だったが突如失踪したバール・スノーが、パ・リーグから史上2人目(パ・リーグ及び外国人では現在唯一)の「無期限失格選手」とされる。なおスノーは後に、故郷・ユタ州に帰郷した事が判明した。
- 4月24日 - 張本勲が後楽園球場での対近鉄2回戦の1回裏に二塁打を放ち、プロ通算300二塁打を達成[2]。
- 5月8日 - 後楽園球場での日本ハム対太平洋3回戦の試合で、7回表に太平洋のファンが三塁手の阪本敏三めがけてビール瓶を投げつけ坂本は頭を裂傷し、日本ハムナインとファンが小競り合いする騒ぎが起きる[3]。
- 7月5日 - 後期開幕。この日からユニフォームはホーム・ビジターとも「縦縞無し」から「縦縞有り」に変更、1979年に「ベルトレスからベルト入り」と「ビジター用胸マークと背番号を白から赤」に変更し、リーグ優勝した1981年まで使用した。
- 7月17日 - テリー・レイが対近鉄後期一回戦の一回表に3つボークを取られ、1イニング3ボークのパ・リーグ新記録[4]。
- 8月18日 - 高橋直樹が日生球場での対近鉄後期7回戦で史上唯一の「一人で1試合の勝利投手とセーブ投手の両方を記録」を達成した[5]。この後、ルール改定が行われ、「勝ち投手になった場合、その人物にはセーブをあたえない」という規定が追加されたため、現在では達成不可能。
- 8月29日 - 張本勲が神宮球場での対太平洋後期8回戦に出場し、プロ通算2000試合出場を達成[6]。
- 9月29日 - 高橋博士が後楽園球場での南海ダブルヘッダー第二試合の後期13回戦で史上初の1試合全ポジションに付く[7][8]
- 10月2日 - 大杉勝男が1968年9月21日からこの日の試合まで、球団記録の798試合連続出場[9]。
- 10月22日 - 日本ハムと広島東洋は、大下剛史と上垣内誠・渋谷通のトレードが成立したと発表。
- 10月30日 - 日本ハムとヤクルトは、大杉勝男と小田義人・内田順三のトレードが成立したと発表[10]。
Remove ads
選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
→詳細は「1974年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads