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1980年のF1世界選手権
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1980年のF1世界選手権(1980ねんのエフワンせかいせんしゅけん)は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第31回大会である。1980年1月13日にアルゼンチンで開幕し、10月15日にアメリカで開催される最終戦まで、全14戦で争われた。
1980年のFIAフォーミュラ1 世界選手権 |
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前年: | 1979 | 翌年: | 1981 |
一覧: 開催国 | 開催レース |

シーズン概要

巨大化したF1の運営を巡り、FISAとFOCAの組織対立が表面化。FOCA系チームのみが参加したスペインGPが無効レースとされ、選手権は全14戦となった。
1979年にワールドチャンピオンとなったフェラーリはこの年大低迷。新興チームのウィリアムズ、ターボエンジンのパイオニアであるルノー、ネルソン・ピケを擁するブラバム、リジェが接戦を繰り広げた。ウィリアムズは前年からの好調を維持し、コンストラクターズタイトルを初制覇した。
ドライバーズタイトルはウィリアムズのアラン・ジョーンズと新鋭ピケの対決となり、1点差で迎えたカナダGPではスタート直後に両者が接触し赤旗中断。再レースでピケがリタイアし、ジョーンズの初タイトルが決まった。ルノーではルネ・アルヌー、リジェではディディエ・ピローニがエースドライバーに伍する活躍を見せた。
この年デビューした有力選手はアラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、アンドレア・デ・チェザリス。早くから才能を期待されたプロストと、苦労人のマンセルは対照的なレースキャリアを歩むことになる。カナダGPに出走したマイク・サックウェルは19歳182日という最年少デビュー記録を残した。ジョディー・シェクター、エマーソン・フィッティパルディ、クレイ・レガツォーニが引退するなどドライバーの世代交代が進んだ。
フィッティパルディは、前年いっぱいで撤退したウルフの設備を引き継ぎ、2台体制で参戦。ハーベイ・ポスルスウェイト博士も同時に移籍した。アルファロメオは2台体制となるが、エースのパトリック・デパイユがテスト中に事故死した。
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開催地及び勝者
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エントリーリスト
エントラント名変更
- シャドウは、第6戦からセオドール・シャドウに変更。
ドライバー変更
- ブラバムのNo.6は、第8戦以降レバークがドライブ。
- マクラーレンのNo.8は、プロストの骨折のため第5戦のみサウスがドライブ。
- エンサインのNo.14は、第5戦以降はニーデルが、第7戦以降ラマース、第11戦以降リースがドライブ。
- シャドウのNo.17は、第3戦以降はリースがドライブ。
- アルファ・ロメオのNo.22は、第9戦から第10戦まで出走せず、第11戦以降はブランビラが、第13戦以降チェザリスがドライブ。
- ウィリアムズのNo.51(RAM/レインボー・ジャン・レーシング)は、第13戦にコーガンが、第14戦にリースがドライブ。
エンジン変更
- なし
タイヤ変更
- なし
スポット参戦
- ロータスのNo.43は第10-12戦に参戦。
- ティレルのNo.43は第13,14戦に参戦。
- ウィリアムズのNo.43(ブランズハッチ・レーシング)は第8戦に参戦。
- ウィリアムズのNo.50(RAM/ペントハウス・リツラ・レーシング)は第8-14戦に参戦。
- ウィリアムズのNo.51(RAM/レインボー・ジャン・レーシング)は第13,14戦に参戦。
1980年のドライバーズランキング
要約
視点
ドライバーズポイントは1位から順に6位まで 9-6-4-3-2-1 が与えられた。前半7戦の内ベスト5戦および後半7戦の内ベスト5戦がポイントランキングに数えられた。
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1980年のコンストラクターズランキング
要約
視点
コンストラクターズポイントは1位から順に6位まで 9-6-4-3-2-1 が与えられた。ドライバーズポイントとは異なり全戦がポイントランキングに数えられた[2]。
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ノンタイトル戦結果
参照
外部リンク
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